情熱の本箱
小説を深く読むことの大切さを説く、恐るべき本:情熱の本箱(260)

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情熱的読書人間・榎戸 誠

小説を深く読む――ぼくの読書遍歴』(三田誠広著、海竜社)は、212ページしかないが、小説を深く読むことの大切さを説く、恐るべき本である。

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフの『はつ恋』について。「『はつ恋』の主人公は、読んでいるぼく(当時、中学生)とほぼ同年代で、隣の高校生くらいのお姉さんからも子ども扱いされてしまう少年なのだ。その隣のお姉さんには、数人の大学生の取り巻きがいる。中学生はその中にまじって、お姉さんの愛を得たいと切望しているのだが、お姉さんはどことなく上の空だ。取り巻きの大学生の誰かを愛しているというのではなく、まったく別のところに恋する人がいるような感じだ。主人公は母に頼まれて近くの町に行く。すると、隣のお姉さんが思いつめたような顔つきで道を歩いている。思わずあとをつけていくと、どこかの家の戸口で、なかの誰かと話をしいている。どうやら、なかに男がいるらしい。戸口を開けてなかに入れてほしいと懇願しているようなのだが、男は応じない。お姉さんは泣きながら帰っていく。あのお姉さんにこんな冷たい仕打ちをするのはどんな男だろうと、主人公がようすをうかがっていると、戸口が開いて男が顔を見せる。それは主人公の父親だった。というような話だ」。

この『はつ恋』は、私も大好きな作品だが、主人公の父がこの「お姉さん」に対して、もっと厳しい仕打ちをする場面がある。この部分を初めて読んだ時は、あまりの衝撃に息が止まりそうになったことを、今でも鮮明に覚えている。

いよいよ、ここから本題の「深く読む」作業に入っていく。「ずっとあとになって気がついたのだが、この作品には『枠』と呼ばれるものが冒頭につけられている。『枠』というのは和歌の詞書きのようなもので、中身となっている物語が語られた経緯が、あらかじめ冒頭に置かれたものだ。『はつ恋』の冒頭には、40歳代半ばくらいの初老の男たちが3人ほど出てきて、何かおもしろい話はないか、と語り合う場面が描かれている。何かの拍子に、お互いの『はつ恋』の話をしようじゃないかということになるのだが、そのうちの2人は、とくに語るべき体験をもっていない。ところが3人目の男は、自分には語るべき体験があると述べ、来週までに思い出してメモをとってくると言う。1週間後、その3人が集まると、男は用意したメモを見ながら語り始める。この作品は主人公の一人称の語りになっているのだが、中学生がリアルタイムで語るという設定ではないところに注意しないといけない」。

「これが『枠』を置くことの効果だ。主人公は自分のライバルが父親だとわかると、親父にはとても敵わないと恐れ入ってしまう。そこで話は終わっているのだが、語っている主人公は、父親の愚かさ(と隣のお姉さんの愚かさ)を批評的に見ている。そういう二重性が、作品に深みを与えているのだ。ところが、読者がぼくのような中学生の場合は、主人公と完全にシンクロしてしまうので、語り手の批判的な部分を読み落としてしまう。作品の深さに気づかず、ただ主人公の失恋と父親に対する無力感に胸を痛めるだけということになってしまう。作品の深さに気がつかない、というのはそういうことなのだ」。私が薄々とは感じていたことが、実に明快に指摘されている。

夏目漱石の『こゝろ』について。「(下宿先の)『お嬢さん』と結婚したものの、親友を裏切って死なせてしまったことが心の重荷となっている先生は、最終的には自殺することになるのだが、その死は、遺書の中身だけを読んでいる読者にとっては、いかにも唐突に感じられる。しかし、この作品には導入部がある。そのことを忘れてはいけないのだ。導入部では、『私』が先生の自宅に入り込んで、奥さん(つまり遺書のなかの『お嬢さん』)と親しくなっていくようすが描かれている。そのまま時間が経過すれば、『私』と『奥さん』とが不義をするのではないか、といった気配を匂わせておいてから、漱石は遺書の部分を読者に提供するのだ。遺書が終わったところで作品も終わってしまうので、ほとんどの読者が『私』の存在を忘れてしまっているのだが、導入部があったことをしっかりと覚えている読者は、これが『先生』が巧妙に仕組んだ二重の三角関係の企みだということに気づく」。

「遺書のなかの『お嬢さん』『先生』『(先生の親友の)K』という三角関係は、導入部の人間関係では、『奥さん』『私』『先生』という関係に置き換えられている。注意してほしいのは、遺書のなかの『K』の位置に、導入部では『先生』が入っていることだ。遺書のなかでは、親友を裏切って死なせた『先生』は加害者であり、『K』は被害者だ。ところが導入部では、明らかに先生は自分の家庭に『私』を招き入れ、自分が被害者の立場になろうとしている。『私』は気づかないうちに加害者の側に立たされ、先生は『K』と同じように被害者になって去っていく。ここでは、二重に重ね合わされた二つの三角関係という仕組みのなかで、かつての加害者が今度は被害者になって去っていく。このように同じ仕組みが二つ重ねられ、加害者であったものが被害者になるという立場の変換が起こる。これが(クロード・レヴィ=ストロースの)『構造』なのだ。深い小説には『構造』が秘められている。言い換えれば、構造を採り込むことで、作品は深くなっていくのだ」。著者の深い読みに脱帽だ。

川端康成の『伊豆の踊子』について。「(『伊豆の踊子』は)淡い初恋を描いた名作、ということになっている。多くの人がそう思っている。でもそれでは、読みかたが浅いのではないか。というか、誰も原作を読まずに、映画の印象だけでそう思い込んでいるのではないだろうか。まあ、原作を読んでみても、同じような印象をもつ人が多いだろう。ぼくが高校生で読んだ時も、そんな感じで受け止めていた」。

「『伊豆の踊子』の場合は、驟雨のカーテンが現実と幻想の境界になっている。その驟雨のカーテンの先に茶店があって、踊子の衣装をつけた少女の姿がある。そこから、物語が始まっていく。幻想が始まるといってもいい。そこはもう、(『ドラえもん』の)『どこでもドア』の向こう側の世界なのだ」。

「主人公が一目惚れしたのは、踊子の扮装をした(白粉をつけた)少女だった。いわば、踊子という着ぐるみの表面だけを見て恋をしたのだ。したがってこの恋の対象は、幻影にすぎない。現実には存在しない踊子の存在を主人公は強く求め、自分の部屋に呼び、金で買おうとさえ考えていたのだ。しかし、現実の(うす暗い浴場から跳び出してきて、こちらに向けて手を振る)裸の女の子は、胸もふくらんでいない子どもにすぎなかった」。

「主人公が一目惚れしたのは、現実には存在しない幻想にすぎなかったのだ。主人公は露天風呂で少女の裸体を見ることで、それが幻想であったことに気づく。あとは着ぐるみの中身の女の子と気軽に遊んで過ごすのだが、最後の(別れの)乗船場で、少女は再び化粧をしたままで現れる。幻想は復活し、幻想と現実のはざまで主人公は惑乱する。その惑乱をかかえたままで、主人公は船に乗ったのだ。果てもなく流れる涙はその惑乱がもたらしたものだ。これが『耽美』だ。現実には存在しない『美』にあこがれ、美にふける。それはヘンタイ的な行為だが、人は時として、ヘンタイになる。それが耽美の文学なのだ」。

「川端康成の『伊豆の踊子』は、その表層だけをみると、素朴な私小説であり、まさに自然主義リアリズムのようにみえる。そこが巧妙なところで、川端康成は、自然主義リアリズムに見せかけた、隠れ耽美主義というような存在なのだ」。

耽美主義という見解は認めるとしても、「踊子が第一印象の時のように17歳くらいなら、主人公は踊子に性欲を感じていただろう。ストーカーになる必要はない。相手は旅回りの芸者だ。お金を出せば、買うことができる。実際に主人公は金で買うことを考えた」とまで言うのは、深読みのし過ぎではないか。そこで、念のため、『伊豆の踊子』を久しぶりに再読してみたら、三田の指摘どおりだった。恥ずかしい限りである。

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