情熱の本箱
慰安婦問題をでっち上げた「職業的詐話師」吉田清治の正体:情熱の本箱(317)

情熱的読書人間・榎戸 誠

『反日種族主義――日韓危機の根源』(李栄薫編著、文藝春秋)によって、慰安婦問題は『職業的詐話師』吉田清治のでっち上げから始まったことを知り、私の心の中の「慰安婦問題」に決着を付けたいと思い、信頼できる歴史家・秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦著、新潮選書)を手にした。

著者は慰安婦たちの「身の上話」を検証しているが、「韓国の場合は、ほとんどが身売り」と結論を下している。「慰安婦になったきっかけは『就業詐欺』(に引っかかった)というべきもので、かれこれ総合してみると、朝鮮半島においては日本の官憲による慰安婦の強制連行的調達はなかったと断定してよいと思う」。

「吉田清治の詐話」を暴いていく件(くだり)は、息詰まるような緊張感が張り詰めている。

「第一次慰安婦訴訟の前後から、急にマスコミで『慰安婦狩り』の生き証人としてもてはやされるようになった労務報国会下関支部動員部長だったと自称する吉田清治の言動に私が疑惑を感じたのは、こうした(南京虐殺事件でも『詐話師』に何度か振り回された)苦い体験のせいもあったと思う。初めて1983年に彼が刊行した『私の戦争犯罪』を読み返して不審の念を深めた私は、まず本人に問い合わせてみた」。面会は断られたが、電話ではかなり長時間に亘り質問に答えてくれたという。

「私はこの問答のあと、自力で吉田の『旧部下』を探すしかないと判断して、山口県出身の利を生かし下関へ行って探してみた。何人かの労報関係者は亡くなっており、決め手が見つからないまま、その足で済州島へ向った。済州国際空港へ降り立ったのは、1992年3月29日の昼前である」。

「1989年に吉田著が韓国語訳されたとき、『済州新聞』の許栄善記者が書評を兼ねた紹介記事を書いていたのである。1989年8月14日付の記事の邦訳は次の通りだ。<解放44周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名を徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。しかし裏付けの証言がなく、波紋を投げている。(ついで吉田著の概要を紹介)。しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15~16人を強制徴発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を。裏づけ証言する人はほとんどいない。島民たちは『でたらめだ』と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(85歳の女性)は『250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった』と語った。郷土史家の金奉玉は『1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる』と憤慨している>。いわば吉田説の全面否定に近いが、その日の夕方には、今は『済民新聞』の文化部長に移っている許栄善女史に会うことができた。敏腕記者という感じの彼女から『何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか』と聞かれ、答に窮した記憶は今も鮮やかである」。

「(その後も吉田に関する追加情報が入ってきたが)下関を中心とする憲兵・警察・労報の関係者からは全否定と言ってよい材料ばかりだった。とくにNHK山口放送局が、吉田証言を軸とした番組を企画して40~50人に取材したが、どうしてもウラが取れず、吉田の出版社から『あれは小説ですよ』と聞いたこともあり、2月に企画を中止したとの連絡を受けた。目利きの士は他にもいたのか、と安心したものである」。

「それに比べて、マスコミとくに朝日新聞の吉田に対する入れこみ方は、尋常ではなかった。・・・慰安婦狩りの『告白』が初登場するのも1982年の朝日新聞で、『私の戦争犯罪』(第2作)が三一書房から刊行される1年前に当る。・・・こうした一連の過程を注意深く観察すると、吉田が20年かけてテーマを少しずつふくらませ、済州島の慰安婦狩りまでエスカレートさせていったことが推察できる。必らずしも計画的策略ではなかったらしいことも、前後の作品を読み比べて、亡妻の日記問題のような『ほころび』が、あちこちで見つかるのでわかる。ともあれ、朝日新聞は慰安婦問題がホットな話題となった91年半ば頃から、1年間に4回も吉田を紙面に登場させている。そして応募投書を単行本化した『女たちの太平洋戦争』全3巻(朝日新聞社)に、北畠、井上の両記者がわざわざ吉田関連記事をはめこむほどの熱中ぶりを見せた。いずれも、検証なしに頭から信じこんでいたようすが窺える。さすがに、私の済州島での調査結果を92年4月30日の産経新聞が報道したあと朝日は吉田の起用をやめたが、訂正記事は出していない」。本書出版から15年が経過した2014年に至り、朝日新聞は吉田証言は虚偽であったと認め、謝罪している。

「私は96年3月27日、4年ぶりに電話で82歳の吉田と話しあった。聞きとった要旨を次にかかげる。<この3年、マスコミとも市民運動ともつきあっていない。・・・済州島の慰安婦狩りはフィクションを交えてある。彼女たちに迷惑がかからぬよう配慮して場所も描写もわざと変えてあるが、事実の部分もある>。私は吉田が、これまでの対吉田批判を消化して、巧みな弁明を先まわりしつつ語るのを聞いて一驚した。元慰安婦の周辺に配慮して体験の一部を変えてある、との論理だが、彼が『済州島の慰安婦狩りの情景は、実際には全羅南道でのできごとだった』と言うので、『では全羅南道の話はすべて真実か』と聞くと、『いや、全羅南道の被害者に迷惑がかかるといけないので、他の場所での話が混ぜてある・・・』と答えるに及んで、私はそれ以上、問いただす気力を失った。しかし、この問答は事実上彼の証言がほとんど虚構であることを自認したものと見てよいのではなかろうか」。

「その直後に『週刊新潮』が試みたインタビューで、吉田は次のように答えたらしい。<秦さんらは私の書いた本をあれこれ言いますがね。まあ本に真実を書いても何の利益もない・・・事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは。新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしようがない>」。

「98年9月2日、私は吉田へ電話で『吉田の著書は小説だった』という声明を出したらどうか、とすすめたが、『人権屋に利用された私が悪かった』とは述べたものの、『私にもプライドはあるし、85歳にもなって今さら・・・このままにしておきましょう』との返事だった」。

「こうして見てくると、吉田という一人の老人が内外に流した害毒は有形、無形をふくめ測り知れぬものがある。朝日新聞を筆頭とする国内マスコミを通じた影響力も大きいが、韓国挺対協の起爆力となったのも、やはり吉田だった。・・・言うまでもないが、慰安婦をめぐる一大狂騒曲は彼の独力で作り出したものではない。善意か悪意かは別として、吉田を担いで内外のマスコミやNGOを糾合した高木健一、戸塚悦朗などの、いわばミニ吉田たちが果した役割も小さくない。次のような猪瀬直樹の評言を引用して、総括に代えたいと考える。<それにしてもたった一人の詐話師が、日韓問題を険悪化させ、日本の教科書を書換えさせ、、国連に報告書までつくらせたのである。虚言を弄する吉田という男は、ある意味ではもう一人の麻原彰晃ともいえないか>」。

読み終わり、改めて、「職業的詐話師」吉田清治に対する激しい怒りがこみ上げてきた。また、58年間,一日も欠かさず読み続けてきた朝日新聞に対し、吉田に騙されたとはいえ、しっかりせよと苦言を呈したい。

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