情熱の本箱
日本の文明的転換点――平仮名の発明、「詫び」から「侘び」へ、「まなび」は「まねび」:情熱の本箱(319)

情熱的読書人間・榎戸 誠

『日本文化の核心――「ジャパン・スタイル」を読み解く』(松岡正剛著、講談社現代新書)を読んで、とりわけ目を開かれたのは、「史上最初で最大の文明的事件」、「『詫び』から『侘び』へ」、「『まこと』に近づくための『まねび』」の3つである。

「(日本にとって、稲、鉄の次に)やってきた漢字のインパクトは絶大でした。・・・これを初めて見た日本人(倭人)たちはそれが何を意味しているかなどまったくわからなかったにちがいありません、しかし中国は当時のグローバルスタンダードの機軸国であったので、日本人はすなおにこの未知のプロトコルを採り入れることを決めた。ところが、最初こそ漢文のままに漢字を認識し、学習していったのですが、途中から変わってきた。日本人はその当時ですでに1万~2万種類もあった漢字を、中国のもともとの発音に倣って読むだけではなく、縄文時代からずっと喋っていた自分たちのオラル・コミュニケーションの発話性に合わせて、それをかぶせるように読み下してしまったのです。私はこれは日本史上、最初で最大の文化事件だったと思っています。日本文明という見方をするなら、最も大きな文明的事件だったでしょう。ただ輸入したのではなく、日本人はこれを劇的な方法で編集した。・・・中国語をそのまま使っていくのではなく、漢字を日本語に合わせて使ったり日本語的な漢文をつくりだしたりした。まさに文明的な転換がおこったのです」。

「『日本書紀』の推古天皇28(620)年に、聖徳太子と蘇我馬子が『天皇記』と『国記』の編述にとりくんだという記事があります。・・・このとき、おそらく中国語ではない『中国的日本語のような記述』が誕生したのだろうと思います。いわばチャイニーズ・ジャパニーズです。・・・和銅4(711)年、元明天皇は太安万侶に命じて『古事記』を著作させました。目的は『邦家の経緯、王化の鴻基』を記しておくことです。ここでついに画期的な表現革命がおこりました。太安万侶は稗田阿礼に口述させ、それを漢字4万6027字で『古事記』に仕上げるのですが、表記に前代未聞の工夫をほどこした。漢字を音読みと訓読みに自在に変えて、音読みにはのちの万葉仮名にあたる使用法を芽生えさせたのです。これはそうとう画期的なことでした。表記上で画期的だっただけでなく、日本人が縄文以来つかってきた言葉を『漢字の声』であらわすことができたということが、さらに画期的なのです。私たちは漢字を見ても、日本語の声で読めるようになったのです。・・・自分たちの発明した漢字をこのように使えることは、中国人にとっては予想もつかないことでした。私たちは中国というグローバルスタンダードを導入し、学び始めたその最初の時点で早くもリミックスを始めていたのです。かくて、ここに登場してきたのが日本独自の『仮名』でした。・・・日本人はオリジナルの表音文字をもったのです。そして、これによって『漢字仮名まじり文』という発明をしでかした。まるで英文の中に漢字や仮名をまぜたような文章をつくりだしたのです。まことに大胆で、かつ繊細なジャパン・フィルターが作動したものです。できあがった仮名文字は真仮名に対して『平仮名』とも呼ばれます」。

「出家し、遁世した者は西行ならずとも清貧に甘んじるしかありません。生活は切り詰められ、持ち前の物品は乏しい。旅をしても他人を頼ることがふえます。またどこかにとどまって草庵のようなところに仮住まいしてみても、特別なものは身辺にはありません。しかし心は澄み切っている。そういうところへ、誰かが訪ねてきます。とはいえ、そんな住まいを人が訪れてきても、お茶の一杯、お菓子の一個も出すことができません。そこで主人は『こんなところに来ていただいて嬉しいが、申しわけないことに私は何ももっていないので、ろくな調度も茶碗もない。けれどももしこんな茶碗でよろしければ、いまお茶をさしあげよう』と言って、ゆっくりとお茶をさしあげる。『さいわい、外の草むらにはススキがみごとに穂を出している。それをこの瓶に一本生けて、熱いお茶を進ぜよう』などというふうになる。いわば、不如意を『お詫び』して、数寄の心の一端を差し出すのです。これが『侘び』の出現なのです。侘しい暮らしのなかで、あたかも不如意を詫びるかのように、心ばかりのもてなしをする。これが『侘び』の出現です。『侘び』は『詫び』にも通じるのです」。

「(旅の途中で田舎家を)訪ねた西行や能因法師からすると、亭主たちのこの『詫びる気持ち』こそが何より尊いものに感じられる。こうした気持ちの交わしあいから『詫び』が転じて『侘び』という価値が生まれていったのです。この『侘び』の感覚はやがて『侘び茶』を生みました。村が珠光、武野紹鴎、千利休らはあえて草庵に見立てた茶室を市中の真ん中につくり、武家も町人も履物を脱いで小さな躙口から入り、そのスペースをうんと狭くしたのです。飾りはささやかな茶花と床に掛かっている茶掛け程度です。そこで亭主と客はゆっくりと時と茶をかわす。スペースはおおむね四帖半。利休の時代には三帖台目にも二帖にもなりました。けれどもそこでは極上の粗茶と粗食が心ゆくまで提供されるのです。これが茶の湯の基本です」。

「世阿弥は『物学』と書いて『ものまね』と読ませました。『もの真似』『物真似』ではなく『物学』です。そういうふうにしたことの意味は重大です。世阿弥は芸能としての『ものまね』を通して『まなび』こそが『まねび』であって、『まねび』がどうすれば『まなび』になるかを追究したのです」。

「世阿弥は能が求める最もたいせつなことを『花』と言いました。・・・世阿弥は『花』のことをしばしば『まこと』とも言いました。『まことの花』という言い方もした。『まこと』は文字どおり『真なるもの』のことです。アクチュアリティです。その真を映し出すものが『花』でした。真なるものは容易にはつかめません。接近すらむつかしいこともある。そこで世阿弥は『真(まこと)』が外にあらわしているだろう『体(たい)』に注目し、そこを『まねび』なさいと言うのです。そうすればその体は能役者の体に映って『風体(ふうたい、ふうてい)』になります。ただし、そうなっていくには稽古が絶対に必要です。稽古とはたんなるリハーサルとか練習ということではありません。稽古とは『古(いにしえ)を稽(かんがえ)る』ということです。・・・こうして世阿弥は『まねび』を稽古することをもって『まこと』に近づいていくことを『まなび』としたわけです。私は、ここに日本の『学び』の真骨頂があると思っています。乱暴なことをいえば、日本人は世阿弥の学習論を小学生からとりくんだほうがいいとさえ思います。『花伝書』も早くから教えるべきでしょう。現代語訳でもかまいません」。

松岡正剛の他の著作同様、学びの多い一冊である。

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