情熱の本箱
アルチュール・ランボーは小市民的な夢追い人であった:情熱の本箱(77)

ランボー手帖

アルチュール・ランボーは小市民的な夢追い人であった


情熱的読書人間・榎戸 誠

アルチュール・ランボーの詩の崇拝者たちからは不埒な言い草と非難されるかもしれないが、私はランボーの詩よりも、その生き方により強い関心がある。また、ランボーの詩にさまざまな主義――象徴主義、シュールレアリスム、実存主義など――の萌芽を見る「ランボー神話」がどのように生まれたのかにも興味がある。

「ランボー神話」に関しては、『ランボー手帖』(野内良三著、蝸牛社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)の「ランボーの反響」の章が、簡にして要を得た解答を与えてくれる。

本題の「詩人を止めた後のランボーの-生き方」については、同書の「ヨーロッパ・アフリカ放浪時代」の章の濃密な記載が類書を圧倒している。

「変身の年(1875)――20歳になったランボーは詩の世界に興味を失い、もっと実際的なことを考えはじめる。・・・差し当りは就職に有利な実際的な知識を身につけることが先決だ、とランボーは判断する。彼は学校時代に得意だった語学の才能を生かそうと考える」。

「ランボーの関心はすっかり変わってしまった。反逆詩人の面影はどこへやら、兵役義務の問題をひどく気に病んでいる。・・・兵役の問題は次第にランボーの強迫観念となり、死の床まで彼を苦しめることになる。この兵役の問題とならんで、ランボーが語学にだけでなく、自然科学方面の知識に関心を示しだしたことが注目される。しかも、どうやら独学で大学入試に備えようとしているらしい。ランボーも大学の卒業証書の重みを痛感したのだろうか。いずれにせよ、ランボーの詩心は涸れてしまったようだ。・・・詩筆を折り、世俗の問題に心を痛めているこの当時のランボーは、(親友の)ヴェルレーヌとドラエーの格好の餌食となり、さまざまな渾名を与えられた。・・・事実、この頃のランボーの勉強ぶりは気違いじみていたらしく、・・・人に邪魔されないようにと押入れにとじこもって、飲まず食わずで24時間ぶっ通しで勉強したこともあったという」。

「ヨーロッパの放浪者(1876〜78)――10日ほどの航海の後、ランボーはアレクサンドリアに到着した。ヨーロッパを転々とさまよい歩いた『風の蹠(あしうら)を持つ男(ヴェルレーヌがランボーにつけた渾名)』は、ついに念願の南方の国、アフリカの大地をはじめて踏みしめたのだ」。

「キプロス島の現場監督(1779〜80)――ドラエーは『カビリア人のように』陽焼けし、精悍な男となった旧友の変貌にびっくりした。ランボーは昔の文学趣味はおくびにも出さず、旅の話ばかりしていた。ドラエーが文学の話題に水を向けると、元詩人は『もうそんなことは思ってもみないよ』とすげなく答えたという」。

「アデンからハラルへ――万能技師を夢みて(1880〜81)――キプロスを去ったランボーはどこへ行こうとしたのか。彼にもよく分らなかった。ただひたすら南をめざして進んだ。・・・80年8月、26歳を迎えようとするランボーは小金を懐にアラビア半島の最南端、日陰でも40度の酷熱の地アデンに向かう。アデンに着いたランボーは、ピエール・バルデーに見込まれてコーヒーや皮革の取引をこととするバルデー商会に職を得た。彼はアデンの印象を家族に書き送っている。『アデンはおそろしい岩地です。草は一本もなく、良い水は一滴も出ません。蒸溜した海水を飲むのです。暑さは桁はずれで、・・・』(80年8月25日)」。

「この昇任はランボーを大いに喜ばせた。対岸のアビシニア(エチオピア)への出発を前にして、ランボーは希望に胸をふくらませる。彼はさっそくフランスへ技術関係の本を大量に発注する。たとえばこんな具合だ。『冶金学概要』、『完全なる錠前師』、『車大工の手引』、『鞣革職人の手引』、『鉱山採掘法』、『都市と農村の水力学』、『蒸気船操縦法』、『製材工場建設法』、『兵器製造者案内』等。ランボーはハラルでなにを始めようというのだろうか。・・・『原始民族のまっただなかにはいった万能技師たらんとした』のだろうか。とにかく、こうして10年余のアフリカ放浪時代の幕が切って落される」。

「ハラル滞在6ヶ月して家族にあてた手紙の一節に、この当時のランボーの暗い気持を読み取ることができる。『ああ! このぼくは人生にまるで未練がありません。ぼくが生きているとしても、疲れて生きるのに慣れているというまでです。でも、今みたいにわが身を疲労させ、このひどい気候のなかで猛烈でもあれば馬鹿げてもいる苦しみでわが身を養いつづけざるをえないとすれば、きっと命を縮めることになるでしょう。・・・とにかく、せめてこの世で何年か真の休息を楽しみたいものです。さいわいなことに、この人生は一回きりのものですし、このことは火を見るよりも明らかです。というのも、この人生よりもさらに大きな苦労をもった別の人生など想像することもできませんからね!』(81年5月25日)」。

「ふたたびアデンからハラルへ――探険家を夢みて(1882年〜83)――アデンに戻ったランボーは商人の生活にうんざりして、探険家になろうとする(もっとも、バルデー商会はこの有能な若者を解雇しなかった)。・・・ランボーはハラル周辺の未踏地を探険・調査して地理学会に報告し、助成金を得ようと考える。この当時、列強は植民地拡大政策の一環として探険を奨励していたので、うまく行けば大金が転がりこむことも決して夢ではなかった。82年1月中旬、さっそく経緯儀、六分儀、羅針盤、気圧計、望遠鏡などのおびただしい器具と、『地形学と測地学』、『気象学』、『旅行者提要』などの多くの専門書を本国に発注する。またしてもランボーは夢を見だしたのだ」。

「ランボーは探険旅行を楽しみにしながら商会の業務にたずさわっていたが、心はなぜか重かった。・・・孤独な生活に疲れと不安を覚え、結婚のことを思う。小市民的な仕合せを夢みる。83年5月6日の家族あての手紙のなかで、ランボーは妹イザベルの結婚問題に触れて次のようなことを記す。『まじめで学歴のある前途有望な男が現われた場合、イザベルが結婚しないというのは大変な間違いです。人生とはそうしたものです。孤独はこの世でよくないことです。このぼくも、結婚して家庭を持たなかったことを悔やんでいます。でも、今となっては遠隔の地の仕事にしばられてさまよい歩くように宣告されているのです。・・・もし数年後、なるべく自分の気にいる土地に行って身をやすめ、家庭をかまえ、せめて息子をひとりもうけ、余生を自分の思いどおりにその息子の養育にあて、今日達しうる最高の教育をさずけて身を鎧わせ、わが子が名の通った技師とか、学問をつんで羽振りのよい金持の人間になるのを見とどけるのでないとしたら』。・・・悲しい嘆き節だ。まるで人生に見切りをつけた初老の男のようなもの言いで、とても28歳の青年の言葉とは思えない」。

「無名の愛国的探険家の報告書は地理協会の目にとまって高く評価され、84年2月の協会誌に全文が掲載された。・・・思えば、ランボーがオガデン地方の探険に夢中になっていた頃、本国のフランスではヴェルレーヌが『リュテス』紙上で、ランボーを紹介し、この天才詩人の名前が人びとの口の端にのぼりはじめていたのだ。探険家ランボーと詩人ランボーがほぼ同時にまるで別人のように本国で注目されたわけである」。

「ショアをめざす死の商人(1884〜87)――ふたりのランボーの反響などランボーにとってどうでもよかった。・・・流刑囚のように酷熱の地で朽ち果てるしかないことを、ランボーは日に日に思い知らされる。たとえ数年後小金を貯めて故国に戻っても、老人のように老けこんだ自分を相手にしてくれるのは後家さんだけだろうと溜め息をついてみせたり、故国にもどったあかつきの兵役の問題にびくついたりしている(84年5月29日、アデンより)。・・・一攫千金を夢みた死の商人(武器売り込み)の収支決算は」悲惨な結果に終わる。

「ハラルの守銭奴(1887〜90)――ショアへの武器輸送の失敗を境にランボーの生涯は下り坂に向う。さしも強靭な彼の精神と肉体にも疲労の色が見えはじめる。アデンの炎熱に耐えかねて、転地療養のためカイロへ発つ。その地から家族にあてた手紙には、急速に老けこみはじめたランボーの暗い心境が吐露されている。『ぼくは根なし草のさすらいの生活に慣れきってしまいました』(87年8月23日)」。

「老人のようにリューマチに苦しみ、白髪のめっきり目立ちはじめた32歳のランボー。虎の子の金貨を肌身離さずかくし持っている小心な守銭奴。・・・すでに始まった肉体的衰弱に加えて、ランボーは精神的衰弱をおそれているのだ。たしかに彼の精神はかつての張りを失っている。見られるとおり、一攫千金の夢を見ることはやめてしまった。それとともに彼の世界は狭くなる。彼の心を去来するのは、貯金、結婚、帰国、そして兵役の問題。ランボーは老人の繰り言のようにああでもないこうでもないと蒸し返す」。

最期(1891)――ランボーはマルセイユの病院で37年の波瀾に満ちた短い生涯を閉じる。病院の帳簿には、全身癌腫症と記載されていた。

本書の著者・野内良三が、その卓抜な筆力によって、ランボーの後半生をあまりにも生々しく描き出しているので、ランボーが私に乗り移ったかのような錯覚に囚われて息苦しくなり、著者の記述に蛇足的なコメントを差し挟む勇気が湧いてこない。その一方で、ランボーが、小市民的というか俗人っぽいというか、一攫千金を追い求めた夢追い人だったと知り、なぜかホッとしているのも確かだ。