情熱の本箱
ツヴァイクに『ジョゼフ・フーシェ』を書かせた、バルザックの『暗黒事件』:情熱の本箱(84)

暗黒時代

ツヴァイクに『ジョゼフ・フーシェ』を書かせた、バルザックの『暗黒事件』


情熱的読書人間・榎戸 誠

バルザックの『暗黒事件』(オノレ・ド・バルザック著、小西茂也訳、新潮文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、どのページも日焼けしているが、私にとって特別な一冊である。49年前に出会ったシュテファン・ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ――ある政治的人間の肖像』(シュテファン・ツヴァイク著、高橋禎二・秋山英夫訳、岩波文庫)に魅入られてしまった私は、ツヴァイクが『ジョセフ・フーシェ』を書こうと思い立ったのは、『暗黒事件』を読んだためと知ったからである。私が直ちに『暗黒事件』を手にしたのは言うまでもないが、それは『ジョゼフ・フーシェ』を読んでから8年後のことであった。

今回、久しぶりに『暗黒事件』を読み直してみて、この作品の面白さを再認識させられた。先ず、歴史小説・政治小説としての生々しさ。次に、恋愛小説・冒険小説としての華やかさ、躍動感。そして、暗黒事件の真相が最後の最後に至って明かされる推理小説としての意外性。

「当代のサン=シィニュ家の娘は、ロォランスと言って、サリック法典に反して、この家の家名や紋章や藩領の相続人であった」。「ボナパルト(ナポレオン)打倒のことしか、ロォランスは念頭に無かった。ボナパルトの目にあまる大望や戦捷は、ますますロォランスを憤激させた。ロォランスは、名声赫々の一代の英雄に対する隠れた未知の宿敵だった。ボナパルトを暗殺しようと、時折りは思ったくらいであった」。ヒロインの23歳のロォランスは由緒あるサン=シィニュ伯爵家の後継者として、ボナパルトを倒してブルボン王家を再興させたいと願う熱烈な王党派だったのである。

「きめの細い締った肌の下には、青い静脈のほんの微かな筋目までもが、うっすら透けて見えていた。世にも美しいその金髪は、濃い深碧な眼としっくり釣合がとれ、彼女にあっては、なにもかも『愛くるしい』とも言うべき小型に、当嵌ってできていた。乳白色の膚にすらりとした背丈、華車な身体つきこそしていたが、その心の中には、世にも優れた性格の男性にも負けぬ、鍛え上げられた魂が宿っていた」。この美しいロォランスに従兄の侯爵とその弟が同時に恋してしまい、彼女自身もよく似た兄弟のどちらと結婚すべきか悩み抜くのである。

突如、不可解な誘拐・監禁事件が起こり、王党派による反ナポレオンの陰謀との嫌疑をかけられた従兄たちは重罪裁判所に引き出されてしまう。何と、兄弟に下された判決は懲役24年であった。

バルザックの筆が冴え渡っているため、ナポレオン側の秘密警察と王党派との間で繰り広げられる凄まじい闘争、ヒロインを巡る恋愛の行方、従兄たちの裁判の帰趨は、十分過ぎるほど興味深いのであるが、私にとって最大の関心事であるフーシェは、どのように描かれているのだろうか。

政界の裏事情に通じた人物の言葉。「あまり人には知られて居りませんが、・・・などの英材をも、優に凌駕するこの深慮非凡の闇の天才ジョゼフ・フーシェが、暗々裡になした恐ろしい暗躍が、それから行われることになったのです。フーシェの振舞は完全な軍人のそれであり、完璧な大政治家、明敏な行政官のそれでありました。フーシェこそはナポレオンが取り立てた唯一の名大臣であったのです。ヴァルヘレン事変の際のフーシェの凄腕は、ナポレオンにさえ恐怖を感ぜしめたほどだったといいます。フーシェ、マセナ、それとタレイラン大公の三人は行政、軍事、外交の方面に於て、それぞれ私の知る限りの最大の三偉人であり、三傑物であります。もしナポレオンが彼の鴻業に、これら三人を心隔てなく参与させて腕を揮わせたなら、もうヨーロッパなどというものはなく、ただ広大なフランス大帝国が存在したのみでしょう。が、フーシェはタレイランやシェイエースがしりぞけられたのを見て、ついにナポレオンから離れたのです。さて、僅か三日のうちにフーシェは、黒幕に隠れたまま、大革命の余燼をかき起して、其後長いこと全フランスの上に猖獗を極めた、あの広汎な騒擾や陰謀を仕組み跋扈させて、1793年代の共和主義的熱狂の火の手を、全国に煽り立てることになったのです。我が国の歴史のこの暗黒な一隅を、明らかにするためには、是非共申し添えねばならないことですが、マレンゴーの大捷以来、ナポレオンの暗殺を企てた数多くの共和党員の陰謀は、悉くこの時のフーシェの暗中飛躍に、その端を発しているもので、いわば旧山嶽党の全網をその掌中に握って、これを操っていた黒幕のフーシェの教唆から出た騒擾なのであります。だからこうした不逞な陰謀に、王党主義者より共和主義者の方が、より多く加担している事実を、敢てボナパルトにフーシェが指摘したというのも、――一体ボナパルトは、これとは反対の意見を抱いていたのですが、――何を隠しましょう、フーシェ自身が火つけ役のこの悪業に、ちゃんと自分でも覚えがあったからなのでした。・・・当時の事情に精通した者から、幾分でもその真相を聞いた人なら、ボナパルトがタレイランやフーシェから、まるで子供のように巧く手玉にとられていた経緯が、確かに解るに違いないでしょう」。

こう書かれては、ツヴァイクならずとも、フーシェのことを調べたくなってしまうことだろう。バルザックもツヴァイクも、フーシェのような稀代の政治的人間が好きだったのである。かく言う私は、フーシェも、バルザックも、ツヴァイクも、大好きだ。