情熱の本箱
中国古代の思想家・列子は、ストーリーテリングの名手だった:情熱の本箱(66)

列子

 

中国古代の思想家・列子は、ストーリーテリングの名手だった


情熱的読書人間・榎戸 誠

「(孫陽という名の)伯楽(馬の良否をよく見分ける人)は、あるとき、(秦の君主の)穆公から後継者の推薦を頼まれました。・・・『それがしのところに、荷物運びをしたりたきぎ取りをしたりする、九方皐という者がおります。馬を見抜く能力は、それがしに劣るものではありません。ぜひ、彼をお試しください』。伯楽は、自分の子どもたちを差し置いて、意外なことに下働きの男を推薦したのです。穆公は、早速、彼に実際に会った上で、名馬を探しに行かせました。3か月の後、九方皐は戻ってきました。『いい馬を見つけましたので、都の近くの沙丘というところまで連れてきておきました』という報告です。穆公が『どんな馬だ?』と尋ねると、『雌馬で黄色です』という答えです。ところが、実際に取りに行かせてみると、雄で黒い馬だったのです。その知らせを受けた穆公が不機嫌になったのは、いうまでもありません。伯楽を呼び出して、なじりました。――失敗だったな。そなたの推薦で馬を探しに行かせた者は、毛色や性別さえ間違えてしまったぞ。そんなヤツが、いったいどんな馬を鑑定できるというんだ!」。

「そう言われた伯楽は、大きく深いため息をつきました。ただ、そのため息は、九方皐がしくじったのを嘆くため息ではありませんでした。伯楽は、九方皐の能力に驚いたのです。――なんとまあ、そこまで達しましたか! それこそが、それがしの千倍にも万倍にもなろうかという、測り知れないほどの能力の現れなのです。毛色や性別さえ間違えるのにここまで大絶賛するのは、どうしてでしょうか? わけがわからないですよね。穆公も、キツネにつままれたような気分だったことでしょう。伯楽は、九方皐が観察しているのは、馬の『天機』なのだ、と言います。『天機』とは、<天から与えられた機能>といった意味ですから、潜在能力だと考えればよいでしょう。その潜在能力を見抜くにはどうすればよいかというと、最も大切な部分だけを見て、どうでもいい部分は気に掛けない。馬の内面に隠れているものを観察して、外面的な特徴は気にしないようにする、というのです。――見るべきところを見て、見る必要のないところは見ないようにします。注意して見るべきところを注意して見て、注意して見る必要のないところは放っておくのです。つまり、毛色や性別などという瑣末なことを気に掛けていると、馬の潜在能力を見誤ることになる、と伯楽は言っているのです。伯楽は、九方皐の能力についての説明を、次のように結んでいます。――九方皐が馬を見抜く方法には、馬なんかよりも大切なことがあるのですよ。『馬より貴き者』とは、何なのでしょうか。馬の途方もない潜在能力を言っているのでしょうか。それを見抜く九方皐の能力でしょうか。それとも、<外見に惑わされるな>という、あらゆるものごとに通じる教えでしょうか。穆公も、その意味を考えさせられたことでしょう。そこへ、問題の馬が引き入れられてきて、このお話は終わります」。

「馬至(馬至る)。果天下之馬也(果たして天下の馬なり)。――鮮やかな幕切れですね!」。

列子(れっし)のストーリーテリングの名手ぶりがお分かりいただけただろうか。

「穆公が伯楽に後継者の推薦を頼むのが<起>。伯楽が推薦したのが下働きの男だった、というやや奇抜な<承>。その九方皐が、しかし毛色も性別も間違ってしまうという意外な展開が<転>。そして、それこそが九方皐の能力の現れだという、どんでん返しの<結>。いわゆる<起承転結>が整った、まことによくできたお話です」。

「ありそうにもないことを、おもしろく語って見せる。現実離れはしているけれど、よく考えて見ると真理の一面を鋭く捉えている。そんな<変化球>が、得意なのです」。

「奇抜な設定で始まり、巧みな構成で展開して、ちょっとひねくれた結末を付ける。私の見るところ、それが、『列子』の基本的なパターンです。ただ、登場人物たちの設定がうまいことも、忘れてはいけません。今風に言えば、<キャラが立っている>のです」。

列子という思想家を知らなかった私にとって、『ひねくれ古典「列子」を読む』(円満字二郎著、新潮選書)は大きな収穫であった。列子という人物と、その思想がまとめられている『列子』という書物のことが、分かり易く述べられているからである。

<正論>の孔子・孟子、<逆説>の老子・荘子に対して、列子を<ひねくれ者>と著者は位置づけているが、私には、<ひねくれ者>というよりも<ひねりを利かせるのが得意な人>という印象が強い。

「『列子』とは、いわゆる老荘思想の書物で、列禦寇(れつぎょこう)という人の思想をまとめたもの、ということになっています。しかし、『老子』や『荘子』が名高く、愛読者も数多いのにくらべると、『列子』はそれほどの人気はありません。では『列子』はおもしろくないのかというと、そんなことはありません。ひとたびページを開くと、ユニークな人物や常識外れのできごとが、次々に登場します。・・・『列子』からは、「杞憂」や「朝三暮四」、そして「多岐亡羊」といった数多くの故事成語が生まれています。つまり、『列子』はいわゆる<名著>ではないけれど、独特の魅力を持つ書物なのです」。本当に、そのとおりである。

「『列子』という書物は、列子という人物が亡くなったあと、長い時間をかけてできあがった、と考えるしかないようです。列子にまつわるエピソードを出発点としながら、列子とは無関係なお話まで集めてできあがったのが、『列子』という書物なのでしょう」。

ここで、儒教と老荘思想について復習しておこう。「儒教では、社会の秩序を大切にします。現代風にいえば、礼儀正しく、守るべき道徳は守り、思いやりの心を忘れず、豊かな教養を身につけて、人の役に立つ立派な社会人になりましょう、というのです。・・・それに対して、老荘思想は、相対的な価値観を否定し、知恵や教養を排斥して、<自然のまま>の状態に戻ろうとします。儒教と相容れないことは、言うまでもありません。そこで、老荘思想は、儒教を鋭く批判することになりました。礼儀だの道徳だのと言っているから、この世がとかく生きにくくなる。そういった束縛から解放されてこそ、安らかなほんとうの暮らしが送れるはずだ、と訴えるのです」。

「老荘思想では<自然のまま>であることを尊びますから、<意識して何かをする>ことを嫌います」。「老荘思想は、観念の世界に飛翔することで、混乱した現実から逃れ出ようとします。そこで、あくまで<現実>にしがみつく儒教を強く批判することになるのです」。

<自然のままであれ>、<無為こそベスト>、<儒教は建て前>という老荘思想が『列子』の基底を成していることを、本書が痒い所に手が届くように教えてくれるのだ。