情熱の本箱
冤罪を作らないために、周防正行は闘い続ける:情熱の本箱(98)

会議で闘う

冤罪を作らないために、周防正行は闘い続ける


情熱的読書人間・榎戸 誠

『それでもボクは会議で闘う――ドキュメント刑事司法改革』(周防正行著、岩波書店)を読んで強く感じたのは、著者・周防正行の使命感、勇気、粘り強さである。

本書は、『それでもボクはやってない』という痴漢冤罪事件をテーマとする映画を制作したことから、法務省の法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」の委員に選ばれた著者の苦闘の記録である。「人が人を裁くことなどできるわけがない。しかし、共同体を維持するために、人が人を裁かざるを得ないのだとしたら、決して起こしてはならない間違い、それは『えん罪』である。なぜなら、『えん罪』は、無実の人を罰する上に、真犯人を逃すという二重の間違いを犯すからだ。また何よりも、自分自身が無実の罪で捕らえられ、違法な取調べのすえ、公正な裁判を受けることもできないとしたら、僕はその恐怖に、孤独に、耐えられないと思うからだ。この本は、あの新聞記事を読んだ日から、刑事裁判の現実に驚き、取材をし、考え続けてきた一人の非法律家が、現実の法案づくりにどう関わったかをお伝えするものである。それは同時に、この国の法律がどうつくられているのか、その一端を伝えるものになるのではないかと思っている」。

著者が最低でもこれだけは主張したいと考えた3つのテーマは、「取調べの録音・録画」(制度としての取調べの可視化)、「証拠の事前全面一括開示」、「人質司法と呼ばれる勾留の実態」である。

先ず、「取調べの録音・録画」の会議の様子を見ていこう。「この頃僕は、法務省の取りまとめの書きぶりから、『改革への基本姿勢』に失望していた。何しろ、今までの制度に対する客観的な批判も反省も、ほとんど感じとることができない」。会議のスタート時点から、この有様である。

「この日の会議は警察・検察関係者の意気込みが凄かった」。

「そもそも取調べの録音・録画は、捜査機関に今までのような取調べをさせないための制度だ。それを今までの取調べができないから反対です、というのだから現状認識からして誤っている。録音・録画が弊害になるような取調べではなく、録音・録画による透明化を活かした新しい取調べ技術を生み出すべきではないか。それでも弊害があるというなら、例外規定で録音・録画義務を外すのではなく、録音・録画はどんな場合も必ずして、その記録媒体が裁判でどう活用されるか、いわゆる出口のところで規制するよう考えるべきだろう。それを髙綱委員は、第一案の例外規定など決められるはずがないのだから、第二案でいくしかない、と言うのである。これが警察の考える落としどころだ」。

次は、「証拠の事前全面一括開示」の会議だ。「刑事裁判の取材を始めてすぐ、裁判ではすべての証拠が検討されているわけではないという事実に驚いた。証拠は検察官がほとんどすべてコントロールしており、弁護側は常に、検察官が持っていると思われる証拠を開示するよう請求しなければならない。それでも検察官にすべての証拠を開示する義務はないので、被告人にとって有利な証拠が隠される可能性があるのだ。今では、『被告人や弁護士、裁判官がすべての証拠に目を通しているわけではない』という事実に驚くことはない。日本の刑事司法はそれをあたり前のこととしてやり過ごしてきたことを知っているからだ。でも、おかしなことだという思いは変わらない。特に、検察の証拠隠しやねつ造が明らかになった事件を通して、証拠は、基本的に被疑者・被告人・弁護人にもアクセスする権利があるものであり、警察や検察だけのものではなく、公共の財産なのであると考えるようになった」。

「証拠開示がある程度検察に都合の良いものになるのは、ある意味、致し方のないことで、どんなに検察官が公正・公平であろうとしても、有罪立証をしなければならない立場を考えれば、『あえて裁判官の判断を迷わせるような無罪方向の証拠は出したくない』と考えるのは理解できる。だからこそ、基本的に、『証拠はすべて開示しなければならない』と法律で決めておくことが重要なのだ。証拠をすべて見せる必要はないとする現状に比べ、圧倒的に検察官に与えるプレッシャーは強いと思う。・・・現状の制度では、検察官が『職務熱心のあまり』証拠を隠そうと思えばいくらでも隠せるのだから、検察官に間違いをおこさせないためにも、証拠隠しを防ぐような制度を確立すべきであろう」。この「職務熱心のあまり」は、検察側が言い訳する際によく使う言葉であるが、著者は痛烈な皮肉を利かせて使用しているのだ。

「専門家がこの国の法曹界における摩訶不思議な常識――証拠は検察官のものであるという常識――に囚われているからではないか。もう一度言う。証拠が検察官のものであるなんて、僕にはまったく信じられない」。

「ここにも今までの過ちを素直に認めようとはしない法務省の態度が透けて見える。・・・ちなみに酒巻さんは、最初、このリスト開示にも強く反対していた」。

さらに、「人質司法と呼ばれる勾留の実態」の会議を見ていこう。「証拠開示の仕組みに加えて、痴漢事件の取材で驚かされたのが、『人質司法』と呼ばれる勾留の実態だった」。

「僕が取材をしていた2003年から2007年、痴漢事件で現行犯逮捕された被疑者は、否認して無罪を争えば、裁判で被害者尋問が終わるまで勾留が続くことが多かった。その間、3〜4カ月。そもそも痴漢事件で捕まったサラリーマンが『住居不定』ということはあまりないだろうし、隠滅する証拠があるとも思えず、会社も家族も捨ててどこかへ逃亡する可能性も考えにくい。それでも、否認していればほぼ間違いなく勾留された。しかし、罪を認めて『自白』すればすぐに釈放だ。したがって身に覚えがなくとも、自白する人がいる。そうすれば会社にも事情を知られず、平穏な日常生活に戻れるのではないかと思うのだろう。99パーセントを超える有罪率のもと、無罪を争って裁判を闘うリスクを考えると、仕方ない選択なのかもしれない」。

「痴漢事件に限らず、無罪を争う裁判の取材を始めると、軽微とされる事件で被疑者となった人たちの多くが、取調官に『罪を認めたら出してやる』と言われていた。つまり、勾留を自白獲得の手段にしていると指摘されても仕方のない実態があるのである。さらに、起訴後も勾留が続くことで、被告人が弁護士と打合せできるのはアクリル板越しの接見の時だけということになる。身体の自由を奪われる苦痛が続く上に、裁判の準備を行うことも不十分となるのだ。こういった現状を弁護士たちは『人質司法』と呼んでいた」。

最後に、警察・検察関係者の基本姿勢について、触れておかねばなるまい。「特別部会がスタートして2年半以上が経っても、改革を進めているという手応えはなかった。それは、端的に言えば、警察・検察関係者が、今までの捜査のやり方を、自ら客観的に、批判的に見ようとはしていないからだ」。

著者と同じ一般有識者委員として会議に参加している村木厚子の会議での発言は、自らの体験に基づいているだけに臨場感があり、かつ説得力がある。「『私自身も同じように取調べを受けたので、ああいうことになってしまうプロセスというのは非常によく分かるんですね。捜査で分かったことを取調官からたくさん教えられてしまうとか、それから例えばですけれども、<君だったらどうする>とか<どういうふうに想像するの>と聞かれて、一生懸命捜査に協力しようと思って答えたことが自分の発言として調書になってしまうとか、あるいは、<こんな客観証拠があるのだよ>と言われて、うそつきだと言われたくないと思って、一生懸命それにつじつまを合わせて話を作ってしまうとか、あるいは、・・・他の人の調書なんかも見せられて、<この人はうそを言っていると思うか>と聞かれて、<彼はそんなうそなんかつく人ではありません>というと、それが<君の証言も彼のと同じでいいね>といって調書ができてしまうとか、やはり<否認していると長くなるよ>とか<裁判がひどい結果になるよ>と繰り返し言われるとか、そういうことが起こっているわけです』。・・・だからこそ、録音・録画制度が必要なのだと村木さんは主張した」。これでは、警察・検察のやりたい放題ではないか。今後、万一、自分が取調べを受けることがあっても、本書のおかげで敵の出方を予め知ることができたので、そう易々とはその手に乗せられないぞ。

「会議の最中に、どれくらい呆気にとられるような警察、検察関係者の発言を聞いてきただろうか」。

「この会議を通して、僕には(警察・検察・法務省関係者から)一体何本の釘が刺されたことであろうか。おかげさまで、穴だらけになったような気分だが、(一般有識者委員の)5人で意見書を出すことで、この会議の方向性について、今度は委員、幹事の皆さんに釘を刺したわけである」。いいぞ、いいぞ。

「村木さんは、身体拘束は非常に大きな負担であり、裁判の準備をしなければならないときに電話もパソコンも使えず、資料も手に入らずにどうして裁判の準備ができるのか」。

「(法律を)使うほうの都合でどうにでもなるような法律は改められるべきだという素人の率直な思いを無視するように、・・・とだけあった」。

「あまりに安易に勾留が行われていると考えられる現状を打開するための規定は、そうした現状はないとする意見と、被疑者勾留、すなわち起訴前勾留の要件の実質的変更はできないという意見によって、設けられないとされたのである」。

「今回の会議における村木さんの存在の大きさを、あらためて思わずにはいられなかった」。

著者にとっては、改革を阻止しようとする人々との苦闘の連続であった。「もともとは検察の不祥事が原因で開かれた会議であったはずなのに、その不祥事に対する批判も反省も忘れている人たちを相手に、改革の必要性を訴える日々は、虚しさに満ちたものだった。言葉を重ねても、手応えなく素通りしていったり、強く跳ね返されるばかりで、およそ意見を闘わせたという実感はない。それでも最後まで諦めずに言葉を尽くした。そうするよりほかなかった」。

「絶対に真犯人を逃してはいけない、という思いが強い人は、知らぬ間に被疑者を巧妙に嘘をついて罪を逃れようとする『真犯人』だと想定して(会議で)発言していたのではなかろうか。そういう人たちにとって、最も重要なのは、罪を免れようとする『真犯人』を逃さないための司法制度だ。そして一方、えん罪を恐れる人は、被疑者が『無実の人』であったらと思い、たとえ無実の人が逮捕されても、その人の身の潔白が明らかになるような司法制度にしなければならないと考え、意見を述べていたのだ。いわば、有罪推定と無罪推定の争い。これでは、議論がかみ合うはずもない」。

「しかしながら、まったく意味のない会議ではなかった。理念に違いはあっても、少なくとも裁判員裁判対象事件と検察独自捜査事件では、取調べの全過程が録音・録画されることになったのである。・・・これからの運用が鍵となる。せっかくの『取調べの録音・録画』が例外規定によって骨抜きにされないようにすること。『証拠のリスト開示』が被告人側の証拠開示請求の『手がかり』となるように運用されること。そのためには裁判所の公正な判断と弁護士の努力が不可欠である。ぜひ、多くの方に、そのことに注目していただきたいと思う。もちろん、僕も注意深く見ていく覚悟でいる」。

著者らは、自ら語っているように、苦闘の末に一定の成果を勝ち得たのであるが、その成果はこれに止まらない、と私は考えている。本書の出版によって、警察・検察関係者の手の内が白日の下に曝されたのだから。