情熱の本箱
同じ実験小説でも、『ユリシーズ』より『ダロウェイ夫人』のほうが面白い:情熱の本箱(44)

ダロウェイ

 

同じ実験小説でも、『ユリシーズ』より『ダロウェイ夫人』のほうが面白い


情熱的読書人間・榎戸 誠

ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』(ヴァージニア・ウルフ著、丹治愛訳、集英社文庫)は、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の影響を受けていると言われているが、私の好みとしては『ダロウェイ夫人』に軍配を上げる。

1923年6月13日、水曜日、第一次世界大戦の影響が残るロンドンで、下院議員夫人の51歳のクラリッサ・ダロウェイが、自宅で開くパーティのため花を買いに街に出かけるところから、物語は幕を開ける。

瑞々しい生命力に溢れるロンドンを舞台に、クラリッサの意識は現在と過去を自在に行き来する。彼女が青春時代を共にした、恋人のピーター・ウォルシュ、旧友のヒュー・ウィットブレッド、夫となるリチャード・ダロウェイ、そして、クラリッサが同性愛的感情を寄せていたサリー・シートンなど個性的な人物たちが登場し、彼らの意識も、これまた現在と過去を自由に往来する。彼らが30年の歳月を隔てて、クラリッサのパーティで一堂に会し、やがて総理大臣の出席が得られた宴も終わり、客たちが帰っていく場面で幕が下りる。この作品には、ある一日の朝から晩までが描かれているが、多くの登場人物たちが入り乱れ、しかも彼らの現在と過去が止め処なく語り継がれていく多彩かつ重層的な一日なのである。

さらに、パーティに出席した医師から患者――クラリッサの知らない青年、セプティマス・ウォレン・スミスが戦争の精神的な後遺症を患い、窓から身を投げて自殺したという話を聞き、彼女がその青年に共感を覚えるという物語が絡まってくる。

「ボンド・ストリートは彼女(クラリッサ)を魅了した。社交シーズンの早朝のボンド・ストリート。風にはためく旗の波。商店の連なり。けばけばしいものとかどぎついものなどない」。

「わたし(クラリッサ)が恐れるのは時間そのもの。・・・年をおうごとに自分の持ち分が薄く切り取られてゆき、わずかに残っている余白さえも、生活の色彩や刺激や雰囲気を、もう若いときのようには拡大したり吸収したりできなくなっていることを痛切に感じる。若いときのわたしは、部屋に入ると、その部屋を自分の存在でみたしたものだった。・・・でも突然、自分が老いてしなびて、胸のふくらみをなくしてしまったと感じ、窓から流れこんできたあくせくと活動をはじめた一日、はなやかに開花してゆく一日が、逆にこの家の外へ、この窓の外へ、衰えをみせるわたしの肉体と頭脳の外へ流れ出してゆく感じがする」。

クラリッサの美しい一人娘・エリザベスの家庭教師で、狂信的な信仰心の持ち主であるドリス・キルマンとクラリッサの女性同士の確執が、私に強い印象を残した。「しかしミス・キルマンはミセス・ダロウェイを憎んでいたのではない。大きな灰緑色の目をクラリッサに向け、彼女の小さなばら色の顔や、きゃしゃな体や、生き生きとしたしゃれた身なりを観察しながら、ミス・キルマンは思った。愚か者! 間抜け! 悲しみも喜びも知らぬ者! 人生を無為に過ごす者! 彼女の心のなかにこの女を打ち負かし、その仮面をはぎとりたいという圧倒的な欲望が立ちのぼってきた。もしもこの女を打ち倒すことができたなら、さぞや胸がすっきりするだろう。でもわたしが打ち負かしたいのは、恐れ入りましたと言わせたいのは、肉体ではなく魂、この女の嘘っぱちな魂なのだ。ああ、もしもこの女を涙させ、破滅させ、恥入らせ、膝を屈して『正しいのはあなたです!』と叫ばせることができたなら。でもそれは神のご意志であって、わたしの意志ではない。それは宗教的な勝利となるべきものだ。そう思って彼女は怒った目でにらみつけた。クラリッサはほんとうに衝撃をうけた。これがキリスト教徒ですって、こんな女が! こんな女がわたしから娘を奪ったとは! この女が目に見えぬ存在に触れているですって! 鈍感そうで、醜く、平凡で、優しさも上品さもないこの女が、人生の意味を知っているなんて!」。

「恋愛は――しかしそう思ったとき、べつの時計、いつもビッグ・ベンより2分遅れで鳴る時計の鐘の音が、こまごまとしたつまらないものでエプロンをいっぱいにし、ひきずるような足どりで入ってきて、抱えていたものをあたりにどっと投げ落とした。・・・わたし(クラリッサ)はあらゆるこまごまとした仕事(パーティの準備)を忘れずに果たさなければならない」。

「わたし(クラリッサ)たちは年をとってゆく。だけど大切なものがある――おしゃべりで飾られ、それぞれの人生のなかで汚され曇らされてゆくもの、一日一日の生活のなかで堕落や嘘やおしゃべりとなって失われてゆくもの。これをその青年はまもったのだ。死は挑戦だ。・・・でも自殺したこの青年――彼は自分が大切に思っているものを抱えたまま飛びこんだのだろうか?」。この一節は、この作品を発表してから16年後の著者自身の入水を予感させる。享年59。