情熱の本箱
兼好のよく知られている出自や経歴は、ある人物が捏造したものであった:情熱の本箱(228)

兼好法師

兼好のよく知られている出自や経歴は、ある人物が捏造したものであった


情熱的読書人間・榎戸 誠

兼好は、鎌倉時代後期に京都の吉田神社の神職である卜部家に生まれ、六位蔵人、左兵衛佐として朝廷に仕えた後、出家し、『徒然草』を著した――という、今日、よく知られている出自や経歴は、兼好没後に、ある人物によって捏造されたものであると主張する刺激的な著作が出現した。『兼好法師――徒然草に記されなかった真実』(小川剛生著、中公新書)がそれである。

捏造した人物は誰なのか。著者は、兼好より150年ほど後世の神道家・吉田兼俱(1435〜1511)を捏造犯と名指している。

兼俱はなぜ捏造する必要があったのか。神道家である吉田家の先祖に名を残した人物がおらず、他家より見劣りするため、当時、有名となっていた『徒然草』に注目し、その著者・兼好法師を自分の系図に取り込み、家格を上昇させ、朝廷での官位昇進に役立てようとしたのである。兼俱は、兼好以外の有名人も系図に取り込んだり、吉田家の弟子筋だったと偽った、いわば常習犯・確信犯だったのである。この兼俱の歴史捏造工作は、実証的に明らかにされている。すなわち、「卜部兼好」は存在したが、「吉田兼好」は実在しなかったのである。そして、兼好が後醍醐天皇の朝廷に仕え、六位蔵人の職を得たというのも、兼俱のでっち上げであった。「こうして兼好が吉田家の出身で後醍醐の時代の人という説は、近世を迎える頃には動かし難いものになった。・・・『吉田兼好』とは兼俱のペテンそのものであり、500年にわたって徒然草の読者を欺き続けたのである。・・・(魅力的な『徒然草』の)作者兼好法師は、名前こそ伝わっていても、いかなる人かはよく分からなかった。そこで少しでも作者の生涯を明らかにして、この作品を考えてみたいという願望は常に強かった。それを吉田兼俱が利用したわけだが、兼俱とて自身の悪だくみがこれほど長期に及ぶとは思っていなかったであろう」。

本書が類書を圧倒しているのは、兼俱を捏造犯と告発するだけでなく、同時代史料に基づき兼好の実像を生き生きと甦らせているからである。「右筆(秘書)としてさまざまな公私の文書作成に携わるほか、主人のために雑用を弁ずるのが常であった。そして(高)師直の前に兼好が奉仕していたのが、北条氏一門の実力者で短期間鎌倉幕府執権も務めた金沢貞顕であった。つまり兼好が武家権力者に奉仕する生き方は一貫しており、鎌倉・室町両幕府においてまったく変化していないのである」。

「兼好の遁世は延慶2(1309)年から正和2(1313)年までとなる。その間、応長元(1311)年春には京都の東山に住んでいたことが確実である。恐らくそれ以前に出家したと見られる。出家後の兼好はやはり『遁世者・遁世人』とすべきであろう。遁世は山林などに閑居して仏道修行に努め、特定の寺院にさえ属さない生き方である。しかし中世社会における遁世者は、身分秩序のくびきから脱することで、権門に出入りし、あるいは市井に立ち交じり、時々の用を弁じていた存在であった」。

「以後、兼好の活動は、若干の空白の時期は遺しながら、ほぼ京都において展開する。まさに『市中の隠』であるが、もちろん後世の人間が憧れた隠者とは異なる。その実態は『侍入道』とでもいうべきであろう。公家・武家・寺院にわたり幅広い知己を有して活動するもので、経済的な基盤にも支えられ、清貧とはほど遠い生活を垣間見せる」。

「兼好は公家社会の正式の構成員ではなかったのであろう。たしかに徒然草には数多くの廷臣が登場し、摂関・大臣の談話も記録されるが、しかしそれは多く伝聞や書承であり、師事した歌道師範を除いては、双方向的な対話はほとんど見られないのである」。「蔵人所、使庁、院庁あるいは摂関家などの組織にごく軽い身分で仕えた後、出家後は遁世者の立場を活かして内裏に自由に出入りしたり、洛中の人々を惹きつけてやまない宮廷文化への先導役を担ったりしていたと見ることができる」。

「徒然草は、鎌倉時代後期の文学作品である。作者兼好法師は大半の章段を鎌倉幕府滅亡の直前、元徳2(1330)年から翌年までの間に執筆していたと考えられている」。

「元弘・建武(1331〜1336)の間、歌人としての活動を除き、兼好の動静は伝えられていない」。鎌倉幕府が滅亡したのは、1333年5月22日のことである。

「康永・貞和(1342〜1349)年間は室町幕府の要人間に交際が広がったためか、兼好の足跡は(同時代史料に)比較的よく遺されている」。「徒然草には、明示されている訳ではないが、権力者の依頼に応えて故実を教示されたり自ら探索したりした結果、得られた知見を記し付けた章段がかなりある」。「兼好は、権力者の関心話題にふだんからよく通じており、いま何が必要かを的確に見抜いていたといえる。人脈と知識を活かした働きは有能なブレーンのそれとしても評価できよう。何より晩年の兼好が、水面下ではあるが、南北朝の歴史の一局面に携わっていたことには興味が尽きない」。

「(二条)為世(藤原定家の曽孫)は門弟の(歌道)指導には熱心であった。廷臣ばかりではなく、武士や僧侶、あるいは格別の出自を持たない地下(じげ)にも及んだ。そして、とくに優れた地下門弟4名を四天王と称した。この為世門の四天王、門弟に俊秀が多い上に、為世が長命であったためメンバーに出入りがあったらしいが最も標準的な組み合わせは、正徹物語が定めたところの、頓阿・慶運・浄弁、そして兼好となっている」。

『徒然草』ファン、兼好ファンとしては絶対に見逃すことのできない一冊である。