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『ロビンソン・クルーソー』の作者はミーハーだった? 『赤毛のアン』の訳者が原作を捩じ曲げた?:情熱の本箱(254)

英米文学

『ロビンソン・クルーソー』の作者はミーハーだった? 『赤毛のアン』の訳者が原作を捩じ曲げた?


情熱的読書人間・榎戸 誠

『名作英文学を読み直す』(山本史郎著、講談社選書メチエ)は、『秘密の花園』、『ロビンソン・クルーソー』、『ホビット』、『赤毛のアン』について、著者独自の考察が提示されていて、読み応えがある。

『ロビンソン・クルーソー』については、主人公のモノに対する強い執着にスポットライトが当てられている。

「ロビンソンは(難破した)船に備わっていた可能なかぎりのモノ――食料、衣類にはじまって、武器弾薬、大工道具、工具、金貨や銀貨、さらには帆布にいたるまで、ごっそりと(無人島へ)運んでいく。まるで船の殻だけ残して、その中に完結している一つの文明社会をまるごと引っ越しさせようとしているかのように見える。・・・船の中で見つけたモノが次々と名付けられてゆき、その数量がしっかりと把握されていく。まるで街に出かけていって、あの店からは食料品、こちらの店からは大工道具、そっちからはハンティング用品などと、お婿入り前のショッピングを楽しんでいるようにすら見える。たしかに、ロビンソンが無人島に婿入りするにあたって、このようにたっぷりと世帯道具と持参金を持っていくことができたという筋立ては、この小説にとってきわめて重要な意味合いを持っている。もしここにずらずらと羅列されているモノがなければ、あわれな主人公はたちまち餓死して、この物語はあっけなく終わってしまったはずだ」。このような学者らしからぬ物言いが、本書の魅力の一つとなっている。

モノの羅列は、この箇所だけでなく、小説全体を通じて繰り返される。それはなぜなのかというのが、著者の問題意識を刺激したのだ。

「(作者の)デフォーと同じ世代の人々にとっては、商品、消費財、あるいは様々なモノが豊富に存在するという事態は生まれてからずっとそうだったというわけではなく、自分の生きている間にはじめて経験する出来事であったのだ。だから、あふれるモノに対して、この時代の人々はある種とまどいやためらいを感じるとともに、ワクワクするような、肯定的なまなざしを注いでいたのではないだろうか。モノはただそこにあるだけで輝いていたのではあるまいか。・・・デフォーはこのような変化、すなわちイギリスの社会が近代的な消費社会へと急速に移り変わろうとしているのを、まさに目の前に見ながら、変化そのものを空気として吸いながら生きた人物だったのである」。18世紀は、人類史上初めて社会の多数の人々を巻き込んだ消費文化が誕生し、それが成熟へと向かっていった時期であり、日常生活の必要を満たすための買い物ではなく、買い物そのものが楽しいという、レジャーとしての買い物が始まった時代だったというのだ。

「デフォーはジャーナリストであった。ミーハーだった。1719年のミーハー風俗にデフォーも熱狂していたからこそ、目の前のモノモノモノが輝いて見えていたのだ。だから、モノをいちいち描き出さないことには気がすまなかったのだ。舶載されてきたモノモノモノが燦々ときらめいているので、それをただひたすら列挙するだけで楽しかったのだ」。『社会科学における人間』(大塚久雄著、岩波新書)の中で、大塚はロビンソンを第一級の経営者と称賛している。この大塚説には目から鱗が落ちたが、本書の著者が描き出したデフォー像は、新鮮かつ説得力がある。

『赤毛のアン』については、訳者・村岡花子の狙いに焦点が絞られている。

「村岡版『赤毛のアン』には大きな疑問がある。すなわち、ある一つの章で、原作が大きく省略され、書き換えられている部分があるのだ。村岡花子はなぜそのようなことをしたのだろう? それによって、村岡版『赤毛のアン』と原作の間には、どんな違いが生じているのだろうか? このような疑問から、この問題に切り込んでいくことにしよう」。村岡の訳では、第37章で原文の一部が大胆に削ぎ落とされ、簡略化されているというのだ。

「モンゴメリーが書いた『アン・オヴ・グリーン・ゲイブルズ』は、(孤児のアンを引き取って育てた)主人公マリラ・カスバートの心がアンとの接触によって徐々に成熟していく物語でもあるのだ。『アン』は物語のタイプとしては一種の『シンデレラ物語』だと言った。たしかに、もらわれてきた子どもであるアンの視点に立てばまったくその通りだ。だけど、もう一人の主人公であるマリラの視点に立つなら、『成長物語』というもう一つの顔を持っていると言わなければならないのである」。

「翻訳者にとっては、目の前のテキストの様々な部分を値踏みして取捨選択するよりは、何も考えずにすべてを翻訳するほうがはるかに楽なことは、お分かりになるだろう。頭を使わないですむほうが楽に決まっている。事実、『赤毛のアン』には、37章以外にこれほどまでの大手術が行われている箇所は見つからない」。村岡には、これだけの大手術を行うだけの強い理由があったはずだと、著者は考えたのである。

「シンデレラ物語にとって、大人の視点は夾雑物というか、邪魔者以外の何ものでもない。この観点から言うと、大人の視点はできるだけ少ないに越したことはない。そのほうが物語が単純になって若年の読者には理解しやすいからである。したがって、『小公子』で老伯爵の視点を削ぎ取ったのと同じ考え方に基づいて、『赤毛のアン』でも、マリラの視点を全部すっかり消してしまうというような大手術は妥当ではないにしても、多少なりとも間引こうとしたのだろうという推測は成り立つ。これが、村岡が『マリラの告白』(が描かれている部分)を抹殺したことに対する、一つの説明の仕方である」。

「モンゴメリーの書いた『アン・オヴ・グリーン・ゲイブルズ』には2つの顔がある。すなわちアンの『シンデレラ物語』とマリラの『成長物語』がそれである。貧しく虐げられていた孤児が土地屋敷のある家族にもらわれていって、愛情を注がれ、実の子以上の存在となっていくという物語は一種の『シンデレラ物語』である。それに対して、純真で感受性の豊かな子どもとの接触によってかたくなな大人の心が開かれてゆくというのは、典型的な『成長物語』である。『アン・オヴ・グリーン・ゲイブルズ』にはこの2つの要素が渾然一体と混じり合っている」。

「『アン・オヴ・グリーン・ゲイブルズ』を少年少女が読んだ場合、自分自身をアンと重ね合わせて読むだろう。つまり、そのような読者にとってこの物語は『シンデレラ物語』なのだ。それに比して、もっと成熟した読者はマリラの心の成長をたどっていくことにも喜びを見出すだろう。つまり、大人の読者は『アン・オヴ・グリーン・ゲイブルズ』に『成長物語』をも読むのである」。

著者は村岡を貶めようとしているわけではないと、強調している。「『赤毛のアン』は原作よりも単純なかたちで『シンデレラ物語』を見せてくれたおかげで、このような読書体験をより容易に手に入れることが可能になったのだ。すなわち、村岡は十代前半の少女が読んだらこのように読むだろう(読みたい)という読み方を、翻訳で表現したのである。これが、日本における『赤毛のアン』が圧倒的な人気をかちえた一つの大きな理由だったのではないだろうか」。

『赤毛のアン』シリーズを全巻読み通した私には、村岡版でも、マリラの心の変化、特にアンに対する心の変化(本書の著者が言うところの「成長」)が印象に強く残っている。私が『赤毛のアン』を読んだのが、相当、年齢を重ねてからだったからかもしれないが。