情熱の本箱
貴族社会の中間管理職として苦悩し続けた藤原定家:情熱の本箱(270)

貴族社会の中間管理職として苦悩し続けた藤原定家


情熱的読書人間・榎戸 誠

『明月記を読む――定家の歌とともに』(高野公彦著、短歌研究社、上・下)のおかげで、藤原定家の冷然とした和歌の大家というイメージが崩れ、貴族社会の中間管理職として苦悩する定家に親しみが湧いてきた。

「明月記は。いふまでもなく藤原定家の書いた漢文日記である。記述は治承4(1180)年(数え年で定家19歳)から嘉禎元(1235)年(74歳)まで、足掛け56年の長きに亘つてゐる」。

明月記の内容は、●社会・世相について述べたもの、●公的生活について述べたもの、●家庭・家人について述べたもの、●私的感情を記したもの、●病気に関する記述、●自然描写、●和歌関係の記述――と、多岐に亘っている。

「明月記を読むと、定家のいろいろな側面が見えてくる。全体を通して、まづ、孜々として公務に励む定家の人間像が浮かんでくる。しかし体は頑健ではなく、ときをり発熱したり種々の病気にかかつてゐる。経済的にも裕福ではなく、みづからの貧を嘆く記事がしばしば出てくる。一日一日の出来事や巷間の噂などを克明にしるしてゐるのは、几帳面でちよつとモノマニア的な性格を示してゐよう。遊興にはあまり興味がなかつたやうで、深酒をして酔ひ潰れたといふ記事もない。あまり口数の多い人ではなささうだ。もしも、こんなマジメ人間が隣に住んでゐたら付き合ふのはしんどいだらう。・・・しかし、もし定家が酒のいける人だつたら、一緒に飲みながら話を聞いてみたいとも思ふ。酔へば定家は、不羈奔放な後鳥羽院のふるまひを批判したり、宮仕への辛さを嘆いたり、あるいは歌人だれそれの歌の下手さ加減をなじつたり、といふことになるに違いない」。

建久3(1192)年(定家31歳)3月13日に後白河法皇が崩御する。「(この日の)明月記の叙述は、客観的で冷静である。何の感想も、差し挟んでゐない。治承5年、高倉上皇の訃報に接した時に定家はひどく悲しんだが、ここでは何の嘆きも記してゐない。・・・ずつと御所に詰めてゐても、定家は後白河の遺骸を直接見てゐない。そこに集まる身分の高い人々の後ろから事の成り行きを見守つてゐる下級貴族の一人、それが定家なのである」。

定家と、定家の和歌の才能を認めた後鳥羽院との関係が深まっていく。「『老若五十首歌合』が開催されたのは建仁元年2月の中旬であつた。その前後、定家は後鳥羽院の水無瀬御幸に幾度か随行してゐる。つまり、このころから院が意識的に定家を身近に召して用ゐるやうになつたのである。・・・定家は手持ちぶさたの様子であるが、院は遊女を呼んで郢曲をうたはせたり、また奈良の僧形芸人に猿楽を舞はせたり、大いに別荘生活を楽しんでゐる。・・・その夜10時ごろ、定家はやつと解放され、隣町の山崎の油売小屋で眠つた。離宮に泊まれるのは、上級貴族だけなのであらう。『遊び大好き人間』の後鳥羽院に振り回される定家が何か哀れである。・・・さりげない顔つきで、まはりの二十数人の服装を観察し、それを記憶して明月記に記した定家は、何といぢらしい人物であらう。かうした記録は、歌人定家にとつては必要なくても、生活者定家にとつては大事な心覚えなのである。・・・定家は帰宅後、沐浴して体を清め、また御所に出かけて伺候しなければならない。そして夜になつて家に帰る。寝る前に明月記を書いたであらう。まるで大企業の課長クラスの人(とても重役になれさうもない人)が、会社のために粉骨砕身働いてゐるやうな、そんな印象がある。このとき定家40歳」。

「院は遊び好きな人間である。翌年は、遊蕩三昧の状態になる。遊山・博奕・遊女遊び・蹴鞠・琵琶・闘鶏・賭弓・競馬・水泳・囲碁・将棊など、さまざまな遊びを楽しんだ。院にとつて和歌も遊びの一つであつた。定家にとつても和歌は心の遊びであつただらうが、しかし同時にそれは職業であつた。院の好んだ種々の遊びには無関心な、きまじめな歌詠みにすぎない。院のやうな多面的人間に随行して一日中、いや何日もそばに侍つてゐるのは、歌の家を背負つて生きなければならない歌詠みには苦痛であつただらう。ストレスは、溜り通しであつたに違ひない。定家は何によつてそれを解消したのか、私にはよく分からない。定家はあまり酒は飲めなかつたやうだ。あるいは、明月記といふ日録を克明に記すことが最大のストレス解消法だつたのかもしれない」。

定家は後鳥羽院から『新古今集』の撰者に指名される。「元久元(1204)年11月、(父・藤原)俊成が没した。しかし定家はゆつくりと喪に服してゐることはできなかつた。後鳥羽院が新古今集の完成を急いでゐたのである」。「(新古今集の完成後も)次々と院から指令がくだり、新古今の切継ぎ(=収載歌の追加や削除の作業)が果てしもなく続く。撰者としての面目は全く無い。これでは院の下働きにすぎない、と定家は嘆く。・・・後鳥羽院は『飴と鞭』によつて定家をこき使ふ。ただし、小さな飴と大きな鞭によつて、である」。

どちらも和歌に自信のある定家と後鳥羽院の間に隙間風が吹き始める。「この一首(=秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の杜の露の下草)は定家の自信作だつたらしい。だが院は慈円の歌(=白露のしばし袖にと思へども生田の杜に秋風ぞ吹く)を選んだ。このことが定家と院のあひだに確執を生む一因となる」。

定家は、周囲の人間に比べ自分の昇進が格段に遅いことを思い悩む。「定家は昇進を願つて前大納言良輔のもとへ行き、さらに太政大臣頼実の邸へ行き、<人を以つて所望の事を達す>といふふうに必死になつて頼んで回つた。・・・自分よりも劣つた人間が昇進するのが口惜しくてならないのだ。そして7月10日、定家は自分が除目(=官職の任命)から洩れたことを知り、<誠に是れ不運の専一、恥辱の無双か>と記す。・・・京を目指して歩き続ける定家の胸中には、今なほ除目に洩れた悲嘆、恥辱、忿怒、絶望の余炎が燃えてゐたであらう。しづかに感情を押し殺して、冷たい風の吹きすさぶ西国街道をひたすら歩く初老の男を想像すると、おのづと同情の念を禁じえない」。長い企業人生活を経験した私には、定家の苦悩が我が事のように迫ってくる。

あまり恵まれない日々を送っている定家に小さな光が射してくる。承元3(1209)年、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝(18歳)が自作の和歌30首を定家(48歳)に送り、批評を乞うてきたのである。初めて見た実朝の歌に非凡な才を感じ取った定家は、合点(=いい歌に印を付ける)を行うとともに、自分が著した歌論書『近代秀歌』(=『詠歌口伝』)を贈る。「この『近代秀歌』を贈られて実朝は作歌に打ち込み、4年後(建保元年12月ごろ)に家集『金槐和歌集』をまとめた。ほかに歌の師はゐなかつたやうだから、定家が歌人実朝に与へた影響はかなり大きいはずである。のちに定家は実朝に万葉集を贈る」。

定家の晩年はいかなるものであったのか。「すでに定家は老大家であり歌壇の大御所であるが、歌人としてピークを過ぎてゐたことは否めない。承久の乱(=承久3<1221>年、定家60歳)のころから定家は歌詠みであることを徐々にやめ、その代り写本に打ち込むやうになつた。歌集や物語を精力的に書き写した。また、写経にも熱心であつた。すなはち、『詠む人』から『写す人』に変貌していつたのである」。

嘉禄2年、定家65歳のこの年、明月記の中に何となく不思議な記事がとびとびに現れる。「歯ガ痛いとか、手が痛いとか、下痢をしたとか、写経してゐて腰を痛めたとか、ぐづぐづ言ひながら、老定家は召使の女を抱いてゐたのである。病気がちであつたことは確かだが、さうでありながら同時に定家は精力ゆたかな男だつた」。同じ男性として、定家に親しみを覚えるエピソードである。

「定家はさほど酒も飲まず、気晴らしの娯楽も趣味も持たなかつた。明月記は子孫のために書いた日記、といふ性格を持つが、しかしこれほど日々欠かさずさまざまな出来事を綿密に記録したのは、尋常なことではない。おそらく定家は書くことに没頭することで内なる『鬱悒(いぶせ)さ』を打ち払はうとしてゐたのではないかと思はれる。この『鬱悒さ』から生まれた二つの作品、その一つが和歌であり、もう一つが明月記であつた、と私は思ふ。なほ、定家はこのあとも生き、仁治2(1241)年80歳で亡くなつた」。『明月記』を扱った書物はいろいろあるが、管見では、本書ほど、定家を身近に感じさせてくれる著作には出会ったことがない。