情熱の本箱
横暴を極める軍部に勇敢に立ち向かった気骨ある政治家がいた:情熱の本箱(91)

斎藤隆夫

横暴を極める軍部に勇敢に立ち向かった気骨ある政治家がいた


情熱的読書人間・榎戸 誠

横暴を極める軍部に勇敢に立ち向かった「粛軍演説」で知られる気骨ある国会議員・齋藤隆夫という人物についてもっと知りたいと思い、『齋藤隆夫 かく戦えり』(草柳大蔵著、文春文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)を手にした。

そもそも粛軍演説とはどういうもので、いかなる背景を持つのか。齋藤が亡くなった時、朝日新聞の「天声人語」(筆者は、名文家として鳴らした荒垣秀雄)はこのように記している。「齋藤隆夫は尾崎卒翁(行雄)に次ぐ最古参の議会政治家だった。・・・二・二六事件直後の粛軍演説や日華事件処理の質問演説などはわが議会史の花であり、憲政擁護の闘将として高く評価されるべき存在であった。鼠の殿様などといわれ首をふる格好はどうみても勇姿とはいえなかったが、軍にも官憲にも首を縦にふらぬ気骨はそなえていた。平素はヨボヨボしていても、議政壇上に立つとシャンと腰がのびて、原稿なしで2時間くらいの演説は理路整然、しかも敵の肺腑をえぐる迫力があった。『日本のアントニー』と外字誌に形容された粛軍演説にしても、『聖戦の美名にかくれて』の演説にしても、当時軍閥がのぼせ上がって極右暴力団も横行している時だっただけに、生命の危険を覚悟するだけの勇気を必要としたわけだ。軍人の鼻息をうかがい、ひざまずいてその長靴を磨いていた翼賛議会は、齋藤氏の演説を速記録から削除したのみか、寄ってたかって彼を議員除名に付し、言論の府から追放してしまったのであった。あの当時の議会を顧みて、もし一人の齋藤もいなかったとしたら一抹の寂しさを感ぜざるを得ない。齋藤氏は尾崎氏に似て政界の主流からはいつも離れて孤立的な存在であったが、大事のあるカナメカナメには猛然と正論を持して釘をさすだけの役割は果たしてきた。戦後の政界には党内闘争の雄しかいないようにみえるのは心細い次第である」。

草柳はこの「天声人語」を高く評価しながら、「もっとも、『日本のマーク・アントニー』と外字誌に評されたのは『粛軍演説』ではない。自他ともに認める齋藤の三大演説は、大正14年の普通選挙法案に対する賛成演説、昭和11年の粛軍演説、そして昭和15年の『支那事変の処理を中心とした質問演説』である。この最後の演説により齋藤隆夫は民政党を除名されたうえ、本会議でも懲罰動議が成立、議席を失うに至る。私には、この『齋藤罷免』の昭和15年3月7日が戦前の政党政治が『死に体』に入った日であると思えてならない。いや、単に政党政治だけではなく、常識が情動のために口を圧しふさがれた日であるようにも思われる」とコメントしている。

粛軍演説は二・二六事件直後の、第69特別議会で行われた。「『粛軍演説』の主調音は、政治集団と化した軍部の暗部を衝くことにあった。彼は『軍部』を攻撃したのではなく、軍部の『政治性』を批判したのである。・・・このような『青年軍人の思想は極めて純真ではありまするが、また同時に危険』なのに軍部当局は、いったい、いかなる対応策を講じて来たのかと、齋藤は次第に主調音を鮮明にしてくる。軍部当局は事件を『闇から闇へ葬る行為』を繰りかえしたこと、さらに、いくつかの不祥事件を起しながら立憲政治への介入を継続させたこと、この2点がうねりを伴って演説の中に展開する。その展開の過程では、もはや民政党を代表する代議士の姿はなく、一人の真摯な良識家と軍部の政治性との対決という光景があらわになる。だからこそ、軍部は怒り狂ったのである。軍部にしてみれば、寺内陸相が『二・二六事件』については粛然たる態度で陳謝したことを以て、議会での政治日程は終了したとの感触を抱いている。それなのに、『ねずみの殿様』と渾名された小男の代議士は軍部の秘所に容赦なく踏み込んできたのだ」。

粛軍演説の一節を見てみよう。「此の事件に関係致しました所の青年将校は20名であるのであります。公表せられる所の文書に依ると20名である、所が此以外により以上の軍部首脳者にして此事件に関係して居る者は一人も居ないのであろうか。個より事件に直接関係はして居らぬでありましょう。併しながら平素是等の青年将校に向って或る一種の思想を吹込むとか、彼等が斯る事件を起すに当って、精神上の動機を与えるとか、或は斯る事件の起ることを暗に予知して居る、或は俗に謂う所の裏面に於て糸を引いて居る、斯う云う者は一人もなかったのであるか、私の観る所に依りますると云うと、世間は確に之を疑って居るのであります」。草柳は、「このように、齋藤は軍部の秘所に言論の刃を突き刺したあと、一転して、それでは軍部以外の政治家は全くイノセントなのかと、痛烈な一撃を加える。・・・この演説の反響は大きかった。衝撃の波は、議事堂から国内へ、国内から海外へと拡がっていった」と説明している。二・二六事件は青年将校が起こしたものであるが、彼らを裏で操り、唆した軍部の大物たちがいると、齋藤に一番痛い所を衝かれたので、軍部は怒ったのである。

粛軍演説はもちろん注目に値するが、今日の我が国の政治状況を考えるとき、三大演説には入っていない演説「国家総動員法案に関する質問演説」の重要性も看過できない。齋藤は昭和13年の第73議会で、政治・経済・社会に亘る戦争体制を整備するための国家総動員法案に断固反対したのである。「今や外にあっては百万の皇軍が生死を忘れて国家の為に戦って居る。のみならず既に数万の将兵は戦場の露と消えて居るのである。是は法律の力に依るものでありましょうか。決してそうではありますまい」。この国家総動員法成立後、日本はまっしぐらに戦争拡大に走り、この無謀な戦争が国民に凄惨な結果をもたらしたことは周知のとおりである。

こういう勇気ある演説を行った齋藤の人物像は、なかなかユニークである。「齋藤隆夫氏は反軍思想家でもなければ反戦政治家でもない。いわば、戦前の『平均的日本人』である。天皇を敬愛し、家族の健康をねがい、いつまでも郷里の但馬を懐しみ、適当に教育パパで、娘の婚期がおくれるのを心配し、宴会用の歌曲を習い(これは大失敗だったが)、息子たちの学徒出陣の際には『お国の為になるんだぞ』と日の丸の旗を肩にかけてやっているのである」。「齋藤隆夫氏のニックネームは『ねずみの殿様』である。奇才岡本一平氏の命名によるもので、これ以上の表現はまたとあるまい。いや、風采ばかりではない。議政壇上から降りるや否や無類の話し下手になる。親分子分をつくらない。資金活動をしない。選挙区のために働かない。酒も煙草もやらず、宴会では居眠りばかりしている。まったく以て、現代の政治家のネガフィルムのような存在なのである。それでいて、当時の政界にこれくらい存在感のある政治家はいなかったのだ」。

命を奪われかねない危険を冒してまで、軍部の専横と政党の腐敗に抗して堂々たる論陣を張った齋藤隆夫のような政治家――軍部の全盛時代に言うべきことを言った政治家――が、現在の日本に現れることを祈るや切。