情熱の本箱
特攻隊の生き残りが明かした特攻隊の真実:情熱の本箱(93)

特攻基地

特攻隊の生き残りが明かした特攻隊の真実


情熱的読書人間・榎戸 誠

我が国が「戦争ができる国」への傾斜を強めているこの時期に、この政策に賛成か反対かを問わず、広く読まれるべき本がある。特攻隊員として2度も出撃しながら、エンジン不調のため帰投した桑原敬一が、特攻の真実を明かした『語られざる特攻基地・串良(くしら)――生還した「特攻」隊員の告白』(桑原敬一著、文春文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)である。

「『強者が弱者を矢面に立てる』。それが戦争の現実であり、弱肉強食の自然の摂理そのものであることを目のあたりにし、痛いほど体験した私たち。今なおその心底にあるもの、見たり聞いたりしたことを、私たちの言葉で、しかも、他におもねない腹蔵ない意見を加えて吐き出そう」という並々ならぬ覚悟が、本書の全篇を貫いている。

「現代の人たちにとって、かつての大戦はもう遠い昔の出来事で実感が湧かないかもしれない。しかし、しかと心に留めておいてほしいことがある。それは、戦争には必然的に筆舌に尽くしがたい悲惨な犠牲が伴う。しかも犠牲になるのは常に例外なく弱い立場の人たちばかりなのである。私が十代にして体験した、あの心身にわたった名状しがたい苦しみ、今にしても、よくぞ狂いもせずに耐え抜いたものだと思う。しかしながら、私は生き長らえることができた。そして今日がある。それに比べて同年代の多くの人たちが、前途の無限の可能性を無残に摘み取られ、命ぜられるがままに修羅場に散った。私は時折考えることがある。それは、紅顔の少年期のまま征った彼らがもし現在生きていたならば、どんなに素晴らしい人生が開けていたことか・・・と。それだけに、あんな体験は次世代の人たちには絶対にさせたくないとの思いが殊更に強い」。

「特攻体験は私にとって、すべてが宿命と諦めるには、あまりにも矛盾に満ちた悲惨な体験だった。それだけに、建て前抜きの本音を語るのは、一種の使命感のようにすら思ってきた。こんな前提があって、日の目を見た数多くの戦記や記録が、はたして人間の本能に逆らうことなく真実を伝え、描いているものかどうかに強い興味を抱き、つい私の原体験と比較してしまうくせがしみついてしまった。このような感情の奥底には、自らが経た痛恨の思い出は、愛する子や孫にけっして体験させてはならないという、切実な願いがこめられている。過去を勇ましさ一辺倒に語ることは易しいことだ。だがむなしい。瞬時の勇ましさは、はたしてあの多くの矛盾の思いを記憶の外へ追いやるほど、大きく私たちの心を支配しているものだろうか。私にとっては、自分の生死の鍵を他動的な意思に委ね、唯々として従わなければならなかった無念の思いは、決して小事ではなかった。もし輝かしい未来を背負った人たちに、いつくしみの目を向ける思いやりがあるならば、不幸な時代が生み出した異常さをけっして誇大に偽装して伝えるべきではない。私はむしろ誰もがいつどこでも持つ本音を伝えることこそ真の勇気ではないかと思っている」。特攻を美化する風潮に、体験者という立場から怒りを表明している。

特攻隊員の指名(実質的な命令)を受けた著者の心情が赤裸々に綴られていく。「人はだれでも最悪の事態は考えたくないものだ。忍び寄る死の影などは努めて意識しまいと陽気に振る舞う」。「日中は、たわいのないことにはしゃぎ回るので気は紛れる。だが、夜は違う。ひっそり静まりかえった夜半、特別扱いの異常な生活は、いやがうえにも『その日』を意識せずにはいられない。・・・私は夜ごとに、自分の征く日を考えていた」。「ああ――、生きていたい。こんな悩み多い私が、はたして人並みに死ねるだろうか? と思った。このような夜を重ねて、日時は容赦なく過ぎ去っていった」。「仮想の敵として標的を定め、内面の苦悩を抑えてひたすら自らの死を完成させるために、神経をすり減らしている若者たちがいたことを知る人は少ない」。「攻撃隊の昼夜を分かたぬ雷撃行、特攻隊の出撃と基地の明け暮れは荒々しい。そのたびに男たちはいっさいの感傷を振り切ってこの基地を後にした。せっかく顔見知りとなって、束の間を惜しんで人生を語り合った先輩や同期生が、片道の旅路へあっけないほどサラリと飛び立っていった。私も、心は暗く重くとも、先に征った人たちにならって、人目にはさわやかに映る旅立ちをしようとひそかに心に期すのであった」。ここに添えられている写真の「実用機の訓練を受けた姫路航空隊で乙飛の先輩や同期生たちと。前列左端が著者。ここに写っている三分の一の者が沖縄戦で戦死した」というキャプションが胸に迫る。

著者よりも先に特攻としての出撃指名(命令)を受けた同期生のHが、出撃前夜、「ポツンと、『俺はまだ死にたくない。頼むよ桑原代わってくれ!』と言った。私はギョッとして彼を見つめて絶句した」。「誰が言うともなく『アーア、とうとう俺たちも弾代わりか』という自嘲にも似た言葉が飛び出した」。

「3日夕刻、とうとう来るべきものが来た。4日早朝を期して、菊水五号作戦が決行されるという。沖縄周辺の(敵)艦艇に特攻をかけるというのだ。残っている人はもういない。次の作戦が実施される以上、出撃者が私であることは明白であった。いざ正式に指名されてみると、試行錯誤の中で固めたはずの覚悟はもろくも吹き飛んで、一瞬息がつまり、ずるずると奈落の底に引きずり込まれるような絶望感が全身を包んだ」。「私の(18年という)短い人生もいよいよ終局に近づいている。あと半日の生命だ、と思うと、人の世のはかなさや、人間の心理的機微を今さらながらに思い知るのだった」。「私の暗い胸中をよそに、派遣隊員として私たちに付き添ってきた先輩たちは、間違っても出撃(指名を受けること)はあり得ないので気が楽である。『クワちゃんもとうとう征くか。明日は敵艦と激烈なキスだな』『ガン! とやれよ。ガンとな』などと勝手にいきまいて、滅入っている私を元気づけてくれていた。私は、そんなありきたりの言葉に、ただ力なく硬い笑顔を返すしか応える術はなかった」。「この多数の(出撃間近の)人たちの胸の内を、国を動かし軍を動かす一握りの権力者はどう思っているのだろうか・・・」。「誰も本心は特攻などに出たくないのだ。それなのに、一方的な命令という絶対権に支配され、『諸君だけをけっして見殺しにしない。我々も必ず征くであろう・・・』との言葉を一途に信じて奮い立ち、死地に飛び込まなければならない若輩下士官の悲哀を思うと、悲しみはいつか憤りに変わり、『おえら方に特攻の何たるかがわかってたまるか。特攻請負の特攻知らずめ!』。私は心の中で何回となくそう叫んでいた」。

エンジン・トラブルで基地に戻ってきた著者たちを待っていたのは、死とは異なる地獄であった。「私たちの生還は、必死隊が恥を忍び、鉛の塊を飲み込んだような息苦しさに耐えての帰投であった。生きながらにして神の座を約束され、それと引き換えに鬼籍に入ることが決定づけられた特攻隊員・・・。行為の成否はとにかく、死は栄光であり、生還は恥辱以外の何ものでもなかった。私の心は鬱々として晴れなかった」。「(尋問が行われる)指揮所に居並ぶおえら方は、明らかに苛立ちの表情であった」。「私は、口惜しさに身を震わせていた。こんなボロ飛行機に乗せやがって、古参搭乗員だったらだれが乗るものか」。「昭和20年5月4日の特攻行は、こうして私の心に生涯消し去ることのできない数々の傷跡を残して終わった」のである。

著者の憤りは、特攻出撃者選考・指名のプロセスの不透明さ、不公平さに向かう。「姫路空にも、私たちの遠く及ばない、豊富な経験と優秀な技量を持った先輩搭乗員が多数在籍していた。特攻の目的が『一発必中』『一機必殺』と少ない犠牲で高い効果を望むというのに、この有様は何を物語るのか・・・。口ほどにもなく上層部ほど本音は死にたくないのでは? と思わすのに十分な事実が存在していた。こんな不合理が黙って見すごされていいものか・・・」。「軍歴、搭乗歴、経験、技量、家庭環境、このらのどれ一つをとってみても、残留の教官、教員に比べて優るものはなかった。まして喧伝される特攻の意義からおしても・・・。それなのに、なぜ? 隊員選考の基準はいったいどこにあるのか」。

「当時の私たちにとって最大の不満は、肩で風を切って気負っている飛行科エリート士官の言動にあった。末期的戦況の中において、皮相的なゆき足(元気なさま)などはどうでもよかった。職業軍人の最たるその人たちがなぜ出撃しないのか、それが不思議でならなかった。・・・残留士官の一挙手一投足がことさらに鼻持ちならぬ見かけだおしに思えてならなかった。・・・出撃する士官といえば、(著者たちのような)予備学生、予備生徒出身者がそのほとんどで、しかも若年層に限られていた。『特攻』といえば聞こえはいいが、つまるところ肉弾そのものである。気取りも勢いもいい。だが、人に先がけて中古機に飛び乗り、私たちと行動をともにするエリートの姿はもう見られなかった。私たちを納得させる行動の伴わない彼らに、私たちは憎悪の目を向けることはあっても、上級者に対する尊敬の念はもはや一片もなかったし、溝こそ深まれ(心が)通い合うなにものもなかった」。徴兵制が復活したら、これと同じことが繰り返されるだろう。

とかく美化され、感動的に語られがちな特攻の真実が暴かれていく。「搭乗員の忌憚のない意見として、特攻は一種のさげすまれた戦術であり、これに出されることは、未熟練搭乗員のレッテルを貼られたも同然とする暗黙の気配があった。当然に多少のキャリアがある者にとって、指名は納得しがたい措置であり、輝ける戦歴、技量を無視され、自尊心を傷つけられたと思うのは、ありふれた人間の感情であった」。同期生Mの言葉――「その行為はいろいろ賛辞をもって称えられているが、しかし、しょせん特攻は弾代わりである。ということは技量未熟なるがゆえにその役を命ぜられたのである」。「自らが練達の域にあると自負していた古参搭乗員が、『(特攻は)技量未熟な者の唯一の使い道』とひそかに口にするのを耳にしなくもなかった」。

要注意人物扱いされていたある搭乗員が、禁を破って開封した自分の考課表にはこう書かれていた。「『要注意人物。適宜処置願いたし――』と。簡明直截的に言えば、特攻に出して消し去れということである」。「命令は、一片の紙きれのように乾いた血の通わないものであり、一方的、片務的なものである。戦争末期の命令権者の人となりの多くも、また同様であった」。許されないことだが、こういうことも少なくなかっただろう。

最後に衝撃的なシーンを2つ紹介しておこう。「こういう目撃談がある。三四三空時代、特攻を次々と出撃させる心痛を告げた参謀に対して、(特攻の起案に深い関わりを持ったとの説がある)源田(実)は言い放った。『そんな気の弱いことでどうするか。囲碁にも捨て石、将棋にも捨て駒がある』と」。「三四三空司令の時、源田は特攻隊を出すことを求められたと参謀に告げた。参謀は言った。『いいですよ、私が先に行きましょう。司令、最後はあなたも行きますね』。源田は沈黙するのみだった(『日本「軍人」列伝』<栗原正和・那由他一郎・桃井四六編著、宝島社、2006年>)」。いつの時代も、時の権力者が戦争を辞さないのは、自分たちには累が及ばないことを知っているからである。