魔女の本領
ロシア革命って本当は何だったの…

ロシアとソ連

 

『ロシアとソ連 歴史に消された者たち —古儀式派が変えた超大国の歴史』


本書を読んでいたら途中に何気なく書かれたこの一文。

「革命にフリーメーソンが関与していたというのは今では歴史学会の常識であろう。
モスクワの権力者たちもまた、1916年末までにはツァーリ退位への各種の工作に関与しだしていた。ボリシュビキ党員の中でもモロトフやグリゴリー・ペトロフスキーといった有力党員もまたフリーメーソンであった。このような古儀式派系がフリーメーソンなどを通じ、歴史家のミリュコフ、アレクサンドル・ケレンスキー、ミハイル・ロジャンコら進歩派リベラルと組んで、ツァーリ政権を追いこんだのが2月革命の核心だったとみている。シベリア出身の怪僧グリゴリー・ラスプーチンをめぐるツァーリ一家の醜聞も、彼らの工作の一部でもあった。フリーメーソンに関する研究によると、歴史家でもあったミリョコフを含め、政府の約10人はその関係者であったと言う」

じぇじぇじぇ、常識だったのか。

とはいえ、本書の中心は、フリーメースンではなくて、古儀式派というキリスト教異端がロシアの歴史にどう働いたか、特にロシア革命に果たした役割について書かれたものである。

この古儀式派とはフョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の『罪と罰』の主人公の姓ラスコリニコフ(文字どおりに分離派)として有名である。17世紀半ば以降、正確には1666年にロシア正教会の中で生じたテクストと儀式改革をめぐる紛争のなかで儀式「改革」に反対した潮流だ。2002年に『古儀式派の世界観』を書いた哲学者ミハイル・オレゴビッチ・シャホフの定義を借りるなら、古儀式とは「17世紀に総主教ニーコン(1609-1681)の採用した改革を拒否し、古いロシア正教会の決定や伝統を維持しようとするロシア正教会の聖職や俗人の全般的呼称」ということになる。

学魔高山が見たら喜ぶであろう。1666年。666とは悪魔の数字であるから。それはともかくとしても、言わばキリスト教の保守派として古来の儀式を守ったということだけなら、単なる宗教の分裂でしかないのだが、これがロシアの帝国主義的な拡大を図るピョートル大帝の帝政ロシアのバックボーンとしようとした改革派のニーコンに対して、純粋ロシアを守ろうとしたのが古儀式派と言う構図である。ニーコンとピョートル大帝の意識の背景に、イスラム教徒によって陥落したコンスタンチノープル、すなわち第二のローマの最終的には奪還するといった政治的、宗教的背景がある、と古儀式派の源流となるモスクワのエリートは見た。ニーコン改革には、この半カトリックであるウクライナとの統合といった宗教的な背景があると、少なくとも旧来の信仰を守った人々は考えた。彼らは、修道士フィロフェイらが提唱した「モスクワは第三のローマ」といった教義を信じていた。モスクワがツァーリのいる都市であるなら、何もコンスタンチノープルの奪還は必要ない。言葉を換えて言えば、彼らには半カトリック的ウクライナとの統一帝国にも、南進による第二のローマ奪還にも否定的であった。その後30年に亘って、拡大したロシアか純粋ロシアかのロシアとしての国をめぐる複雑な精神的な動きが続くことになる。

この古儀式派はロシア正教から弾圧されたが、むしろそれによって、ニーコン派のように政治と関わることがなかったことで純粋に宗教性を保持し、更に常にアンチの位置にいたことから、教徒の結束は固く、モスクワに置いても周縁部の墓地を中心に共同体を形成し、教会を建設することが許されなかったために、司祭すら置くことのない無司祭派という最左翼集団も生まれた。彼らは、時代の精神には敏感であったのは、地下組織のネットワークが強力に機能していたためである。ヨーロッパにおけるピューリタンのように、勤勉、清貧、蓄財と言うような宗教意識から、次第に企業家が出て来て、かつその工場には同じ古儀式派の労働者が働くというようになるが、いわば家族のような職場環境を作っていた。これが「ソビエト」である。ソビエトは生産と生活を包括したもので、未来のソビエト国家の範型が信徒集団のヒエラルキーという形で存在していた。同志とか、ビューロー(局)とかいうロシア革命後の党の組織の名称も、すでに古儀式派組織に存在した。

ロシア帝国は、人民、正教、そして軍隊という三要素からなると言われた。だが古儀式派という存在は、この帝国から構造的に排除されていた。言ってみれば彼らは第二級臣民としての扱いである。しかし日露戦争に始まる20世紀の世界戦争は、否応なしに彼らをも総動員体制に呑みこんだ。それ故に古儀式派とそのネットワークは、農民へのアピール力、そして急に大量動員を通じて膨張する巨大軍隊、そしてその下層、一般兵士の中で確実に反対派的運動の結節点となった。

1917年以前の革命の動向にはこの古儀式派の財力とネットワークが大きな働きを成した。特に地下組織としての印刷所と印刷物のロシアへの運搬は古儀式派のルートが使われ、レーニンらの活動を支えた。さて、レーニンに限らず、ロシア革命と宗教の関係はどうなのか?これまでほとんど関心がはらわれなかったようであるが、近年、この問題が無視できないと考えられるようになったらしい。「宗教はアヘンだ」として、すべからく弾圧されたという一文では律しきれない、複雑な動きがあることが分かって来たらしい。ロシア革命の評価もレーニンは認めても、その後の激変、特にスターリンによる変質という評価はどうも単純化し過ぎているようだ。レーニンも古儀式派に再三助けられ、テロから身を隠した場所は古儀式派の家であったと言う。しかし、宗教弾圧はスターリン以上に激烈で、数千人の宗教者を銃殺にしていたことなどは近年になって判明したということである。レーニンは古儀式派の多い農民、農村からの革命を計って、道半ばにして倒れたのに対して、スターリンは重工業に重点を移しそうとした頃には、古儀式派はすでに革命政府の反対派となり、弾圧され激減していた。また、不可思議であったレーニンとトロツキーの対立も、トロツキーがユダヤ系であったことで、宗教的な反目があったことがうかがえる。

ともかく、ロシア革命、その後のソ連の政治権力中枢に必ず古儀式派の人物の影が付きまとっている。そしてソ連の崩壊はなんとあの1666年への先祖がえりだと言うのである。ロシアがソ連邦を手放し、純粋ロシアへと縮小したことで、古儀式派の世界に戻ったのである。さて、このロシア史はあまりにも衝撃的で、頭がくらくらしたが、マルクス主義歴史学では追い切れない、新しいロシア史なのであろう。

魔女:加藤恵子