魔女の本領
研究者の良心―阿部先生を思いだして…

笛吹き男

『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』阿部謹也


本書が出版されたのが1974年のことだそうで、当時センセーショナルな出来事であった。歴史というものは、マルクス主義の発展段階理論に則り、下部構造としての経済と上部構造としての政治・社会の研究にあるという堅固なアカデミズムの世界があったところに、子供メルヘン「ハーメルンの笛吹き男」を社会史として提示したことの衝撃は本人にも予想しない影響を及ぼしたのであった。当時阿部先生は小樽商科大学の教員であり、その直後に東京経済大学へ、さらに一橋大学へと移られ、学長を務められて、2006年亡くなられた。私は、先生が東京経済大学に移られてから公的・私的に親しくさせていただいた。先生から当時脚光を浴びていた秋元松代作『近松心中物語』蜷川幸男演出、太市喜和子、平幹二郎の挿入歌を森進一が歌った「それは恋」が発売になる前にカセットテープでいただいたのである。先生と秋元さんが近所に住んでいたということだった。

今回文庫になったので改めて読んでみて、当時の印象と違ったところで心打たれたのである。それは先生の伝説と云うものに向かう合う姿勢である。本書にはこうある

「知識人がいろいろ努力を重ねて民衆伝説をとらえようとする場合、そこにはどうしてもその知識人がおかれた社会的地位が影を投げる。歴史的分析を史実の探索という方向で精緻におこなえば行なうほど、伝説はその固有の生命を失う結果になる。伝説を民衆精神の発露として讃えれば政治的に利用されてしまい、課題意識や使命感に燃えて伝説研究を行なえば民衆教化の道具となり、はてはピエロとなる。民衆伝説の研究にははじめからこのような難問がつきまとっているのである」と。

「ハーメルンの笛吹き男」の話は既に、メルヘンとして世界的な普遍性をもっているが、実は明確な事実から伝説として伝承され後に物語化されるという道筋が在るのだ。まず存在した事実は、1284年6月26日ハーメルンで130人の子供たちが失踪したということである。このように明確な年代、日時、人数が伝えられているか、すなわち「昔々・・・」と語られるメルヘンではない。ハーメルンの古文書には、子供たちが失踪してしてから、何年、何日めという日時が記された古文書が残されていて、この事実を伝承しているのである。研究者によって、研究が進められて、東ドイツへの植民説が出された。このころ、土地の飽和や飢饉などから、農民の移住が最も盛んに行なわれたことから、これまでかなりの研究者が両者の関係に着目し「子供たちの失踪」という謎の解明にのりだし、それを集団植民であると考えた。「笛吹き男」は事実上の植民請負人であり、彼が法的な植民請負人たる貴族のために、その個人的な魅力を通して若者たちに働きかけ、その貴族の植民領域であった遠くハンガリーの彼方、オルミュッツイ司教ブルーノ・フォン・シャウムブルク(1281没)が開発した植民領へ連れていったのだという。「笛吹き男」はここでは背後に立っていた貴族の使者、宣伝員としての役割を果たしていた。すなわち植民勧誘の準備行為は、1284年6月26日に青年男女65組130名が東部へ入植する前の集団結婚式において頂点に達する。中世に置いても集団結婚式は教会暦の特定の時期にしばしば行なわれた。市民の結婚式は通常三日かかるが、ハーメルンでは二日が普通であり、6月24日のヨハネ祭の日にはじまった結婚式が翌25日(日曜日)に終わり、その翌日のヨハネとパウロの日に皆が出発したという説である。しかし、これの説ではその後の子供たちが全く現れてこない点に疑問が残り、植民の途中、事故死したのではないかと云う説が加わった。

阿部先生はこの説に違和感をもった。伝説に漂う悲劇の雰囲気である。そこから、次に出てきたのが、「笛吹き男」は伝説の源初には関係がないのではないかと云うことである。6月26日、当時の民衆は何をしていたかを詳しく調べて見ると、キリスト教徒ではあるが、それ以前のゲルマン的な原始的な民衆の祭りが交錯した社会で、26日には民衆はどんちゃん騒ぎをする古来の祭りの日であり、また山に火をともす風習があるという。この説はヴォエラー女史によって紹介されている。彼女はこの話の貫いている悲劇的な雰囲気は、何らかの不測の事故を予測させるものであると考え、東ドイツ植民のような計画的な行動がこの事件の背景とはみられないという。

ヴォエラー女史はヨハネ祭の日に、夏至の火を、町から2マイルほど離れたポッペンブルクの崖の上に灯す習慣があったことから、子供たちは大勢で祭りの興奮のあまりこの火をつけに出掛け、その湿地帯にある底なし沼にはまり込んで、脱出できなくなったのだと結論した。ヴォエラー説のなかで重要なのは、中世において「笛吹き男」の属する遍歴芸人の階層が、教会や社会から差別された賎民であり、悪行の象徴としてあらゆる不幸な事件の責任を転嫁されていたということの指摘である。したがって中世においては「笛吹き男」の行為には動議づけは不要とされていた。ハーメルンにおいても、市民の不注意の結果が「笛吹き男」のせいにされたにすぎないとするヴォエラーは、この伝説のなかに「笛吹き男」がいなくても良いと考えるのである。それでは、なぜこの出来事が今日まで伝説として伝えられたのか、と云う点について、ヴォエラ-は次のように解説している。すなわちこの事件の知らせが、おそらく難をまぬがれた少数の子供によって伝えられたにもかかわらず、幼い子供の説明はたどたどしく、また自分の子供の安否を気づかう親たちが激しく問いつめたために、戻ってきた子供も恐怖のあまり唖になるしかなかった。いうなれば、事件発生当時からすでに事件の全貌をつかむことが困難だったのであり、そのことがかえって人々の想像力をかきたてて、様々なファンタジーを生みだしてきたのである。

阿部先生はこの説にのっとり、「笛吹き男」のような遍歴する賎民の分析に力をそそぎ、彼らの悲惨な社会的状況を描き出した。その後の先生の『中世を旅する人々』『中世賎民の宇宙』『刑吏の社会史』等の社会史の展開になって行くのである。

70年代、西洋中世史にはこの阿部先生、日本中世史には網野善彦先生がおられ、いわゆる下層民への視点が明確に実を結びつつあった。歴史が大局から見下ろすものではすまないという方向に舵がきられたのであった。しかし、現在はどうなのであろうか?社会の階層分化はより激しくなり、生活保護受給者への冷たい視線、非正規労働者が労働者の半数を占める社会。そのような社会に目を向ける研究者はいるのか?阿部先生の下層労働者だった私を平等に扱って下さった、穏やかに澄んだ瞳を思いだしている。

魔女:加藤恵子