かぶく本箱
フォルモサ:敗北者たちの島

一九四九

しつこく台湾。勢いで揃えた(正確には、借りてきた)書籍等々を、何冊か斜め読み。結果、台湾の抱える様々な「襞」を知ったのだけれど、あの映画と同じく、何が正義で何が悪なのか、とても一口で要約や断定ができないことばかり。ただ、ひとつ言えることは、アジアの今は本当に面白い。台湾でも、もっと刺激的なことが起きそうな気がする。

それにしても、先日大河『八重の桜』を映画も一緒だった娘と観ていたら、「『セデック・バレ』を思い出すなあ」と彼女が呟いた。その日は‘二本松少年隊の悲劇’、次の日曜は‘白虎隊出陣’の回。まったく、やるせない。負けることが判っていながら、子供たち・少年たちまでもが戊辰(会津)戦争に参加していくのだ。大義のために死んで行く、魏監督が語ったように、日本人と台湾原住民は同じ「求死の民族」なのかしらん。

さて台湾を知るなら、まずは簡単な歴史概略を。評価の高そうな、‘老舗’的一冊がこちら。

台湾―四百年の歴史と展望 /伊藤 潔 (著) /中公新書

コンパクトにまとめられ数百年の核を正確に掌握してわかりやすく、その上文体に迫力がある。著者が1937年台湾生まれ、と解説を読み納得。霧社事件については解説も少なく、特殊な例だったように位置づけられていた。出版が1993年と古く、巻末の年表は以下で終わっている

  1993年 李登輝は国民党政権の「党」「政」「軍」「特」を全面的に掌握。4月に政治犯皆無状態

李登輝氏は数年前に来日講演を聴きに行ったことがあるが、80歳を超えてなお、おそろしく迫力のあるかたでした…。歴史本は併読した方が理解が進むので、もう1冊。

増補版 図説 台湾の歴史/周 婉窈 (著),  濱島 敦俊 (監修, 翻訳)他/平凡社 (2013/2/18)

図説 台湾の歴史原住民について述べた内容が多い。霧社事件については10頁ほどを割いており、原住民側に同情的だ。その上でなお、蜂起蕃の討伐に味方蕃が利用されたことなどに対しては断言を避け、「願わくは、切実に理解を深めるのみ」としている。

歴史書のはずなのに、表現は、情緒的でノスタルジックな著述で占められている。歴史エッセー書のようでもある。ほかに台湾アートの紹介が出色。図録が多く装丁やデザインレイアウトがたいへん美しいので、読みやすく、台湾のイメージが膨らみやすい。本国ではベストセラー、ロングセラーとなっているようだ。

●オーストロネシア語族の人々

2冊から抜粋すると、台湾原住民はオーストロネシア語族に属する。この語族の範囲は西はマダガスカルからスマトラ、マレー半島、ボルネオ、ジャワ、ニューギニア、サモア諸島、東のイースター島に至り、南限がニュージランド、北限は台湾やハワイ諸島になる。

個人的には、片言の言葉を憶えたインドネシア語と同じ語族ということで、親近感を覚えた理由に納得がいく。セデック語の発音とリズムが、とても気持ち良かったのだ。実際に、豚=babiなど、共通語も多いようだ。生活のために一生懸命覚えた言葉と同心円にある音の響きには、理屈抜きで脳味噌が反応するのだと思う。(統治時代に愛憎入り交るノスタルジーを抱く台湾人高齢者の感情も、記憶再生のからくりが関係するのかもしれない)

一方、前者の『台湾―四百年の歴史と展望 』では、同じ語族の中での明暗にも触れていた。

 オーストロネシア語族の中で、マレー・ポリネシア系の民族は東南アジアの島嶼部に広く分布し、インドネシア、マレーシア、ブルネイなどの主要民族として、その文化と伝統を発展させてきた。

一方台湾の原住民に関しては、大航海時代以来、常に抑圧されつづけ、平野部から山岳地帯という僻地に押しやられて、独自の文化と伝統を洗練させる環境にめぐまれなかった。外来政権のオランダ、鄭氏政権、清国、日本、国民党政権のいずれもが、先住民を移住民から隔離し、「分配支配」の策を弄してきたばかりでなく、先住民の「蛮性」を意図的に印象づけてきたのである。

そんな中で映画が大ヒット。老若男女、あらゆる台湾人が観たそうで、これまで差別を恐れて出自を隠していた原住民も、カミングアウトできるようになったそうだ。そこまで現実を変える力のある映画なのだ(観たから言える)。

●台湾の「歴史」は1600年ごろから始まる

2冊を読みだした時、何故、歴史書なのに「途中」からの解説なのか、と違和感を感じた。後者では最初に、歴史という視点よりも文化人類学的な原住民文化の解説はあるが、両者とも具体的なクロニクルは、15世紀以降のポルトガル人やオランダ東インド会社の登場、そして鄭成功の詳細からになる。

やっと理解したのは、台湾原住民は「暦も文字も持っていなかった」ので、台湾の歴史は「ヨーロッパ人が台湾を‘発見’した時から始まる」のだった。「歴史」とは西洋人の感覚であり、侵略者の概念だったのか。なので、台湾の歴史は、まだ400年しかないそうだ。前者の副題(四百年の歴史と展望)の通りだ。アメリカ合衆国も類型であることを思い出す。

そして読み進めるうちに、台湾という国にはこれまで、「歴史を知る、歴史を語る土壌」がなかったのだとおぼろげにわかってくる。だから歴史書も少ないのかもしれない。

「白色テロの時代の時代には、過去に対して沈黙を守ることが強いられた。数十年間、‘二・二八’はこれ以上ないほどの政治的タブーであり、語ることが憚られた話題であった。」(『図説 台湾の歴史』 256頁)

歴史データが薄かった上に、歴史に蹂躙され、歴史を語ることも叶わなかった台湾。それが戒厳令解除からある程度の時が経ち、人々が自由に語れるようになったときに、台湾独自の「物語」が求められるようになった。そこに登場したのが、異なる民族同士の共存を希望として描く、内省人であるウェイ・ダーション監督の作品だ。日本人からみれば、心理描写の詰めがいまひとつ粗いようにみえた『海角七号』も、2部で4時間半という異例に長い『セデック・バレ』も、彼らの琴線直撃の背景があったから、台湾史上記録的な大ヒット作品となったのだろう。少なくとも二・二八を生々しく語るよりも、心理的に前向きになれるのだろう。でもさすがに懐の深い台湾、その二・二八を生々しく語る苦行を始めた人もいたのだった。

●民国百年だからこそ出版できた本

『台湾海峡一九四九 』[単行本] 龍 應台 (著), 天野 健太郎 (翻訳) /白水社 (2012/6/22)

この本を読むと、台湾は実は親日などという甘い幻想や、あるいは映画のような日本軍VS原住民という単純な構図は、吹き飛んでしまう。最初に斜め読みした時に、あまりに複雑な関係性に???となり、改めて上記2冊の該当箇所に眼を通してから読み直して、またまた茫然とした具合だ。台湾の年号:民国は、辛亥革命から数えられていることも初めて知った。

台湾史の簡略な要約をウィキペディアから。

オランダ統治時代、鄭氏政権時代、清朝統治時代、日本統治時代を経て、1945年10月15日に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が発した一般命令第1号に基いて中華民国軍が進駐し、同年10月25日以後は中華民国政府が実効支配している。

1949年10月1日の中華人民共和国成立に伴い瓦解した国民党が政府機能を台湾に移転してからは、中華民国政府の実効支配範囲とほぼ重複するため、国共内戦後の中華民国の通称としても用いられている。現在も中華民国と中華人民共和国の双方で係争中(台湾独立運動)である。

現在の台湾社会を構築するすべての要素が出揃った一九四九年を中心に、戦争、内戦という苛烈な社会情勢のなか、著者の家族や当時の若者がいかに決断し生き延びてきたかを描き、さらにこの最果てにある島、台湾まで逃げ延びた彼らが六十年間誰にも言えないまま抱えてきた痛みを語っている(「訳者あとがき」より要約) 。

無知な私は、独裁支配者の外省人、弾圧される内省人というイメージを抱いていた。しかし共産党との内戦に敗れて命からがら台湾に渡った国民党のうちの多くの一般人は、家族と生き別れ、故郷に帰ることができなかったのだ。そして彼らを受け入れた台湾人たちも、日本統治の時には日本兵として中国などと戦った揚句に今度は弾圧と虐殺を受け、言論も言語も統制された。

この本は、そんな台湾を巡る人たち(日本人も西洋人も含まれる)、その多くは名もない老兵たちを徹底的に探し出し、記録に残された事実のみを描いている。加えて、その中で著者:龍應台(ロン・インタイ)の家族を重ねて描いて、息子へ語る物語としている切り口が、まずは白眉だろう。濃密な描き方ではないし、ある意味、エッセーとも散文集とも断片的ルポタージュともいえる型だ。けれどもその幹に流れるものはあまりにも重い。

この本もまたイデオロギーを排して正か悪かを定めず、客観的な切り口で、戦後史の壮大なつづれ織りとなっている。そしてその語り口は、とても温かく優しい。解説を読まなければ、著者が80年代の戒厳令末期から言論で政府に挑み一世を風靡した、「イコン」的な存在とは思えない柔らかさだ。しかし彼女は2012年5月に発足した2期目の馬英九政権での文化大臣であり、名実ともに今の台湾を代表する一人なのだろう。

龍應台氏はこの本を書き上がった後、これは「失敗者」たちの物語だ、と気がついたという。誰もが弾圧され、虐げられ、利用され、負けて逃げのびて、悔恨の日々を過ごす。歴史の負を晒したこの本は、中国では「革命史観」の否定であることを理由に、禁書になっている。

これからも中国は、「革命の成功者」の視点しか受け入れないだろう。「失敗者」の視点で歴史を観る方法は、アジアも世界でも無かったのかもしれない。しかし次に掲げる作者の言葉は、国家という枠組みでなくても、とても価値があるように思えるのです。

敗者」はどこが間違いだったかゼロから考えようとします。日本もドイツも、そして台湾もそうです。我々は軍事力や抑圧とは別のものを求めようとしました。「失敗者」が生み出した価値を、世界はもっと大事にするべきかもしれません。

龍應台氏が語る言葉は、そのまま魏徳聖監督の目指す「歴史の和解」に当てはまる。魏徳聖の監督次回作は、オランダ人と海賊と原住民をそれぞれ主軸に、鄭成功の上陸で終わるという三部作。いよいよ台湾のおおもとに迫って行くのだろう。

そこで思い出したのだが、蒋介石のみならず、鄭成功こそが、「失敗者」「敗北者」だったのだ。抗清復明を掲げ、清国との戦いに何度も挑みつつも敗北し、致し方なく台湾の基地化を目指してオランダを駆逐後、すぐに急死した台湾の英雄。父親の海運王・鄭芝竜の妥協をなじり袂を分かち、漢民族・明王への忠義を最後まで掲げた、日中混血の国姓爺。

美しい島=フォルモサ、とオランダ人から呼ばれた台湾は、敗北者たちの島だったのか。そして鄭成功と同時代のそのほかの敗北者たち、たとえば朱舜水が渡った日本。こちらの長い歴史を持つ島は、どんな島なのだろうか。

 by 牛丸