学魔の本函
『大江戸視覚革命』T・スクリーチを読む!

大江戸視覚革命

『大江戸視覚革命 18世紀日本の西洋科学と民衆文化』T・スクリーチ


お江戸の熊さん八っつあんは「蘭」僻で、とても新し物好きだったんだ。
『大江戸視覚革命 18世紀日本の西洋科学と民衆文化』T・スクリーチ著 田中優子・高山宏訳 を読む。

日本人だからといって、自国のことを良く知っているということは無いとはいえ、外国人に斯くまで詳細に江戸の文化について書かれてみると、心底唖然としてしまう。ともかく、江戸時代が太平楽な社会で、それは鎖国によって維持されていたなどということは天から信じてはいなかったが、江戸時代は長崎を窓口にかなりの程度世界に開かれていたようである。

スクリーチの視点は学魔高山のいう、いわゆるニュー・アート・ヒストリーで、これまでの狭隘な江戸学なる歴史・文学・美術を粉砕し、一挙に世界的規模の文化構造を展開して見せてくれている。阿蘭陀からの科学機器の流入は、なんの障害もなく長崎から江戸へと伝わった。特に光学機械の流入は江戸人士の見るという行為の大変革をもたらした。一般に考えられるこれらの高価な機械は上流の文化人に伝わり、学問の変化、いわばパラダイム・チェンジがなされたと思いきや、我が江戸の庶民はどうも世界の庶民とも一筋も二筋も上をいっていたようなのだ。つまり、光学機械をみせもの(奇器)として、たいそう喜んで迎え入れたらしいのである。スクリーチは黄草紙や浮世絵から大量の見ると言う行為にかかわるものを提示してみせた。田中優子も後書きで書いているが、黄草紙を史料にする研究者も文章に捉われて、ほとんどその価値を見極められなかったらしい。ところが絵の方を解読した時、そこには、「蘭」の豊富な事例が特別ではなく、そこここに描きだされていたというわけである。「蘭」とは阿蘭陀の事ではあるが、各種機械はオランダに限定されるものではなく、イギリス、ドイツなどの光学機械、時計、眼鏡なども「蘭」という象徴で流布されていた。

この新しい見る機械を前にした江戸人の姿勢は、外国品への崇拝と云うことよりは、その文化を取りこんで拡大解釈し、遊んでしまうという文化のありようがひどく新鮮で、賢明な姿を見せてくれるのである。

江戸での阿蘭陀の参府の宿であった長崎屋には阿蘭陀人を見ようと群衆が押し掛けているし、それをまた絵にして売りだしている。阿蘭陀人の特徴を庶民は鋭くとらえていて、目の人(阿蘭陀大目)として、浮世絵にわざわざ、目を添え書きしたものさえあった。しかし、このような絵画を私は、今まで見たことがなかった。つまり視覚ということに焦点をあてて解読されてこなかったから、目が宙に浮いた絵などは日本史では教えられもしんなかったわけである。

西洋絵画の技法も確実に入ってきていて、遠近法や銅版画を模した浮絵なるものも書かれている。司馬江漢はオランダから移入されたであろう油絵を模写したと思われる絵を描いている。秋田蘭画という佐竹藩主による保護のもとに描かれた蘭画の存在も近年明らかになって来た。

顕微鏡、望遠鏡の有りようもヨーロッパとはかなり異なっていて、顕微鏡で見た蚤を巨大絵画にしたりするし、望遠鏡は完全に遊里ののぞきの道具であったりした。

この文化の構造の在り様はすなわち、江戸時代の学問が官学としての朱子学が固定化していたために蘭学はいわば異端の学問である故に、学問として「蘭」が取り入れられる事は極端に少なかった。もちろんなかったわけではなく、謹厳で、堅物の典型とされた松平定信も実は裏の顔は阿蘭陀伝来の品々を自邸に隠し持っていたらしいことは、スクリーチの『定信お見通し 寛政視覚改革の治世学』に詳しい。

その他、当時の江戸に入っていたヨーロッパの先進文化、熱気球による見降ろす視線の変化、凝視することから内部への興味とか、江戸が閉じた世界ではなかったことが理解されるのである。

ともかくも、黄草紙のぐにゃぐにゃ文字なんか全然読めない私には、スクリーチが読み解いていた史料がこれまでアカデミックな歴史学や文学では外縁に置かれていたものがみごとに江戸を新たに、活気ある庶民の姿を通じて見させてくれたことに、驚かざるを得ない。

なお、私はこの本にスクリーチと学魔のサインをもらっているのである。誰にもあげないよ。

魔女:加藤恵子