かぶく本箱
戦前を辿る一冊『大本襲撃―出口すみとその時代 』

 

 

oomoto

終戦記念日をいちおう意識して読んでみた

終戦記念日を挟み読んでいたのが『大本襲撃―出口すみとその時代 』。終戦記念日といえば、自分が思春期の頃は居心地の悪さを覚えたものだった。悲惨な歴史だったということは認識できても、普段は流行り事ばかり煽っているマスコミが(バブルの頃までそんなイメージ)、その前後だけ、一斉にうなだれたような文体になるのが解せなかった。

しかし気が付くと、バブルは弾け9.11のテロ、リーマンショック、そして3.11の後も尖閣問題と、逆に浮かれた記事が欲しくとも見つからないような日々になったのかしらん。今年、終戦記念日前後の報道や記事をとても間近に感じたのは、外交問題がどんどん捻じれているからだろう。もちろん、自分が年を取ったこともあるのだろうけれど。

「もはや戦後ではない」どころか、戦後処理問題はますます声高になりそう。困ってしまうのは、自分があまりにも理解不足なこと。歴史好きになったり明治維新を調べたり昭和の大陸浪人のことを読んでも、大戦の理解までは遠い遠い。それでも、三大タブー的な「戦争」「天皇」「宗教」についてせめてもう少し知りたいと、あれこれ気にはしている訳です。

ボース

この本を手に取ったのは、第一には、NHKで見た『日本人は何を考えてきたのか』の大本教の回が、ずっと頭から消えなかったから。中島岳志氏が解説したのも意外だったが、若い者さんの視線が面白かった。教祖の出口なおが毎日商いに歩いた道を自らが踏みしめて、どん底の貧しさを想像する。『中村屋のボース』と同じく、主人公の横にひっそりと同じ目線で佇む優しさと、読者をわかりやすく物語に導いてくれるやり方で、ほっとした。

 

弾圧における「数」のリアリティ

第二には、相変わらずの映画からの影響で、歴史の「数字」が気になるようになったからだ。霧社事件の映画『セデック・バレ』で、皆殺しにされた日本人が300人、日本軍の鎮圧の戦いで死んだ日本軍兵士は(映画描写とは異なり)20数人、原住民の死亡者と自決者は計約700人。その数百人が死んだリアリティに圧倒されていた。

その後別件で天草・島原の乱を調べていたら、霧社事件との相似が多いことに気がついた。蜂起と鎮圧には「型」があるのだろうが、「数」は桁違い。3万7千人の蜂起者に対し、12万4千軍の征伐軍が全国規模でやって来て、キリシタンたち蜂起者はほぼ皆殺し。

そして大本教。戦前の一時期、一説には800万人の信徒や会員的共感者がいたそうだが、あまりに多すぎるので、これは調べてみよう。かれらは第一次・第二次大本事件の弾圧によって壊滅的なダメージを受ける。特に後者は凄まじく、ほぼすべての幹部・関係者、主要信徒の逮捕拘束(拷問を伴った)、全建物・施設のダイナマイトによる徹底的な破潰(裁判前)が行われた。現在の信徒は20万人弱だそうだ。合気道の祖、植芝盛平も大本に入信していたという。

ちなみに、大本のHPでは、概要のトップに「大本は、宇宙万物を創造された主神の愛善と信真にもとづく地上天国建設を目的としています。」と記しているが…うむむ、もう少し、自分なりの言葉で理解したいところ。

平成に読む「大本」

『大本襲撃―出口すみとその時代 』は、大宅壮一ノンフィクション賞も受けたことのあるジャーナリスト、早瀬 圭一が、大本事件について述べた本だ。大本について語った宗教本ではないし、学術本でもない。一口でいうと章ごとにばらばらの内容でもある。しかし、だからこそ2007年出版、2011年文庫化という意味がある。

目次は以下の通り。

目次

~プロローグ~

第一章 国家の影

第二章 創成から繁栄へ

第三章 襲撃と弾圧

第四章 法廷闘争

第五章 すみの昇天と大本のその後

~エピローグ~

過去から未来へ― インタビュー ―
宗教学からみた大本 島薗 進
暦を受け継ぐ者として 出口 紅

第一章は弾圧する国家側、取り締まる側の担当者の視線を松本清張っぽい語り口でまとめて、そそられる。しかしその後の章は一貫して大本側の解説や弾圧の推移になる。後半になればなるほど、著者が二代目教主、出口すみに魅かれていき、大本に肩入れしたい気持ちになっているのが滲み出ている(笑)。しかしそれは経典や教義からというより、教主のキャラクターに依ることも明白。
二代目夫妻のキャラクターが出色

この本は表面的にはともかく、「大本とは一体何ぞや」という根本的疑問には答えてくれない。島薗氏へのインタビューでも、一般論の域を出ていない気がして少々不満。しかし、ジャーナリストの著者が思わず客観性を欠いてしまうぐらいのオーラを持つ、出口すみとその夫で教団の立役者、出口王仁三郎の魅力の描写には成功している。

現代でも垣間見られるような強圧・陰険・醜悪な弾圧が6年にわたり、その実態は「戦前の一部の日本人の気味悪さ」のイメージ通り。けれども「第四章 法廷闘争」では、司法側もそれなりにまともだったようだ。私個人は、法廷記録の出口王仁三郎と裁判長の会話を読み、爆笑してしまった。自分が明日死刑になるかも、という時に、こんなアホなことを語れるおっちゃんがいたとは!もしかしてかぶいてる人かも、である。

そして影の主役の出口すみといえば、天然っぷり全開!なんとも天真爛漫なおばちゃんなのだ。その背景が、幼いころの凄まじい苦労と貧乏を経た人徳であることも語られる。出色だったのは、表紙の、恰幅の良い出口すみが微笑む写真が、何を意味するのかが明かされる箇所。これには素直に感動した。只の肖像写真ではない、信仰の凝縮の笑顔なのだった。日本の女のモデルって何なんだろう、と時々思っていたけれど、何があってもどーんと構えてにこにこ乗り切る、こういうお手本もいいなあ。

おそらく、この夫妻は高齢であったこと、のらりくらり術に長けていたことで、拷問は免れたようだ。その分、彼らの娘婿、日出麿へはリンチは度を超えていたようで、6年を経て彼は精神に異常をきたしたそうだ。昭和20年(1945)、無罪判決で第二次大本事件は終わる。終戦とともに、不敬団体としての裁判自体も無意味になったのだろう。

出口王仁三郎が作った茶碗の写真を観たことがあるが、次元が違う、と形容できるほどのアート。この本を読み、出口王仁三郎像からすぐに北野武を思い浮かべた。そういえば、大本もタブーかもしれないけど、ビートたけしも、誰も語りたくても語れない人物だなあと思ったり。

こういうリアルな糸口を感じられただけでも、この本の価値があると思った。複数の切り口がある分客観性を持ちやすいし、少なくとも新興宗教に感じていた、得体の知れない思い込みは消えた。タブー現象にはそそられる面白さもあるので、気が済むところまでもう少し調べてみたい。ちなみに文庫本の解説は原武史氏。学生時代に『霊界物語』を読み耽っていたそうだ。

 by 牛丸

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