かぶく本箱
『海景』のある茶室

アートの起源

 

茶道の稽古をはじめて、少し経ちました。ガサツな私が場違いな方面に身を投じたきっかけは、達人のお勧めの言葉「江戸を知るには必須」。白状しますと、稽古中は師匠の語る用語が全く理解できず、「フロ」「カマ」という言葉が飛び交う横で、「どうやって風呂釜で茶を点てるのだろうか」と首を傾げておりました。

それでも「フロ」は「風炉」(夏季に湯を沸かす火鉢のような道具)だと知るようになった頃には、師匠のお点前は綺麗だな、茶室の空間って落ち着くなあと、人並みに心境が変化。茶の奥深さの体感には程遠いものの、利休の破天荒なマーケッターぶりには興味津々。利休は、今の時代まで色褪せないミニマリズムアートを、いきなり完成形で放った人。ダークサイドから観れば、詐欺と紙一重のマネー市場開発を成し遂げ、世の権力を操り、そしてその相手から死を宣告された、稀有な人なのかも知れない。

とその頃、師匠から耳元で囁かれた宿題が「マイテーマ茶会」。師匠は、「茶」からあらゆる可能性を見出そうとしている人。私が実技方面での成熟までには10年でも足りないことを早くから見極め、興味の持てる歴史背景やアート方面から切り込めるよう、舵を切ってくれました。その頃、私は1本の映画を観たのです。

杉本博司氏のドキュメンタリー映画『はじまりの記憶』。それまで『ジオラマ』『海景』『劇場』と、彼の作品を断片的には目にしていたけれど、受けるイメージは雑誌広告で眼にするような、ファッションブランドの一断面に近かったのです。がしかしこの映画は、杉本博司というアーティストを解読し、私達と杉本氏、そしてその向こうの世界との関係線を、全開にさせてくれる内容でした。フィルム中の同氏は、時空の旅人なのでした。

WEBでの杉本氏の言葉や著作『アートの起源』に辿り着いた私は、そこでやっと「マイテーマ茶会」の意味、自分と茶道との接点を発見。杉本氏は利休についてこう語ります。

◎そもそもは、利休の「見立て」とデュシャンの「レディメイド」に共通点を見出したりしたのがきっかけだったようだ。

◎デュシャンが考えたこと、やったことは400年も前に日本で利休がやっている。

「見立て」とは、こういうことだったんだ。相変わらず茶道の敷居の高さにびびっていた中ながら、自分なりのアプローチも可能なのかと納得できた次第。そして文中で描かれた、杉本氏の茶会のめくるめく世界に見とれました。

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森美術館での『杉本博司 時間の終わり』展にあわせた[三夕茶会]は、三夕の和歌に仮託した三つの茶会を編集したもの。

さびしさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮法師

にあわせ、皇居前の松林を撮影した『松林図』をお軸に。本人の解説によると、

 「長谷川等伯を本歌取りしたもの。皇居前の松林を早暁に淡い影として映した松林図を槙立つ山の風情として見立て、天皇制の行く末にまで思いを馳せるのはおそらく亭主(※杉本氏自身)だけであろう。」

そして、

見渡せば花も紅葉ももなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家

この「無」にあわせられたお軸が、『海景』だったのでした。

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更にNYの杉本氏のスタジオに設けた茶室「今冥途」の茶室披きでは、高山右近をテーマとして、茶人でありかつキリスト教徒であった彼が設けたかも知れない、空想上の茶会を開いたとのこと。古美術商としての経歴もある杉本氏が床に用意したのは、イエズス会のものと思われる「切支丹文漆絵箱に納められたキリスト磔刑像」。

そして翌朝、花を入れるために用いられたのは「旧帝国陸軍製 陶製手榴弾花入れ」。(以下一部抜粋)

 私は(茶室の)床に、一輪の椿を入れた。花入れは昭和19年に瀬戸で作られた焼物である。昭和19年は戦況ますます厳しさを増していた頃。国内のあらゆる金属類は改修され、使い古されていた頃である。軍部はこの期に及んで、金属製の手榴弾を諦め、陶製の手榴弾に苦肉の策として切り替えたのだ。おそらくは沖縄戦で使われるために作られたこの手榴弾を、私は靖国神社の境内で開かれていた蚤の市で見つけた。利休が朝取りの竹を切って花入としたように、私はこの手榴弾をもって鎮魂の花入れとした。

利休が大陸渡来のモノたちを茶道具に見立てたこと、日本が「シルクロードの終着点」といわれることと合わせると、茶室はシルクロードのショールームだわ、と私は考えていました。そして更に『アートの起源』のおかげで、茶室は、時を圧縮したカプセルにもなり得るし、記憶や物語やデータの3D版に仕立てることもできるはず。と、わくわくと妄想が発展していったのでした。

by 牛丸