魔女の本領
つぶてとはなんだ…

つぶて

『つぶて』中沢 厚


本書はかなり有名な本なのである。つぶてというものを文化史的に論じたものは日本には少ないということと、筆者がかの中沢新一の父親であるということにおいて。

中沢厚については中沢新一の網野善彦氏について書かれた『ぼくの伯父さん』に網野氏と親しく論議していた姿が描かれていて、すでに親しんでいた。山梨県の出身で郷土の歴史、特に道祖神の研究を続けた民間研究者で、付けたりとしては、共産党員であったらしい。筆者はつぶてについて書くことになった契機について、昭和42年9月7日、時の首相佐藤栄作の台湾訪問を阻止するために学生と機動隊が衝突し、そこで激しく礫が飛んだことに啓発されたという。この感覚は当時の実経験から私にも思い当たる。中沢厚はこれを恐怖したのではなく、かつて自分も少年時代礫を投げたという懐古の情を抑えがたく、「つぶてとはなんだ」という問いにいたったのだという。

中沢厚の本書の半分は武器としての石の系譜が書かれている。特に西洋の神話に描かれた神の石による闘い。さらに古典古代の武器としの投石機。初期の石投げの方法が何かにくるんで振り回し反動をつけて遠くへ投げる方法は、世界共通のものである。それが中世に城攻めの大型の投石機などへと発展する様子は、武器の歴史として興味はあるが、さして面白いものではない。やはり圧倒的に面白いのは、日本における石なげの文化・風俗である。本書において書かれる視点は2つあり、一つは石そのものの意味。第二は投げると言うことの意味である。

記録にあらわれた始めは「飛礫は三宝の所業」として右大臣藤原実資の日記。『小右記』。長徳3(997)年4月16日であり、日本人の以後千年の庶民習俗や兵戦の場に不思議な展開をみせる石投げの、最初の記録である。この時点で、石が飛ぶのは仏の意思であり、争いの手段と言うわけではないという認識が社会の根底にあったようだが、これを利用しての武力衝突に双方が利用して、礫がとびかったことは想像に難くない。その後、その危険性から政治的判断で禁じられることが繰り返されたということは、止むことは無かったと言うことの証明でもある。鎌倉時代にも北条氏が禁令を出しながら、礫を禁じると、災害が起こる事を意識して、なにやら禁じているのか奨励しているのか分からない法令が出されていたりする。つまり「飛礫は三宝の所為」という古代の言葉には、つぶてが単なる石ころではなく、神仏の意志がこもっているものとの理解があった。また、つぶてには悪霊を清める力があり、こらしめの呪力があると信じられたのである。中世京都においては河原での石投げ、いわゆる「印地」が盛大に行われていた。その初期のものは中世に限ったことではないのだが、大飢饉とか疫病流行など、また天災や政治的社会的異変に遭遇した際の祭事としてのものだ。庶民の現世利益の願望をになう辻神の祭りに力がこもり、諸社寺の祭礼も熱をおびる。祭りというものの性格上当然の成り行きである。おそらく、京の巷の印地打ちにはそうした世相の背景があり、それが習俗化して京都の一風俗となり、時に一段と狂乱の態をむき出しにした。かつて、三宝の所為かと天台座主にいわしめたのも、つまりは、つぶてに破魔・破邪の呪力のあることをみていたからにほかならない。祭礼の飛礫は、そうした庶民的な伝統信仰に根ざすものがあってみれば、その狂乱的事態の現出は当然の成り行きである。しかし、中世とくにこのことが盛行したのは、統治者が手を焼く悪党勢力の台頭とか、京の巷で遊手浮食の輩が徒党を組むとか、男伊達の横行とか、そうした時代的風潮を背景にした中世の一特色であることは間違いない。したがって、飛礫の問題は、「平安後期以降の社会的分業の発展に伴って起こってきた新しい都市の問題」でもあった。この飛礫について網野氏の場合、飛礫の問題を、「都市下層民」の問題に限定せず、もっと日本社会に広く深い根をもっているものと見、印地の遊戯化の転換点が南北朝期にみとめられる点に、「日本の民族誌を考えるさいの重要な問題の一端」を捉えようとしている。それは、非農業民の古代・中世史を貫く位置づけという大きな問題とかかわっている。また、下層民の研究を続けた横井清氏が、「印地というのは、」それを得意とした隷属民たちによってになわれていたにせよ、また町人や農民を包括していたにせよ、それ自体が中世庶民の大らかさ、たくましさの表現であったといえるだろう。敏捷に身を運び、腕をふるって庶民たちの心には、激しい闘争意欲とともに、烈日のもとでのおおらかな喜びが唸りを立てて炸裂する。民衆が二つに分かれて傷つけ合う『野生』がその本領だったが、散開するまでは、矢を射かけてでも侍所の軍勢の介入をはばむに価する、彼ら自身の世界がそこに開けていた。たった数刻のことだったけれど、『権力』の立ち入ることのできない世界が成立していたのだといってよい。敵の礫をかわしつつ、敵中に礫を打ち込む時、おそらく彼らの精神の内から、ある何かが打ち払われていったに相違ない。傷つき倒れても行なうに価する行為であった」として、「印地ごのみの精神的風土」をそこにみた(「庶民の遊戯」、『日本の古典芸能』5、平凡社)と書いているという。

そのような一揆の活力を支えた飛礫の開放的要素は、こののち次第に衰退しながらも、近代に至っても民衆の手に武器がない時には、人々の生活の表層に露出して来た。

この一方で、五月の節供、正月などに行なわれた「印地」はいわば神の零落した姿と考えるか、逆に子どもの遊びに神の姿が残って命脈を保ったと言えるかもしれない。中沢厚の山梨県においてだけではなく、各地に昭和30年代まで、子どもの遊びとしての「印地」は行なわれていたようだ。その「印地」も河原で行なわれたということは小石があるという物理的な問題もさることながら、網野が後に河原は「アジール」であるという認識での中世史を展開したことと関係があるようにも思えるのである。

もう一つの問題、投げる行為についてもその精神が追求されている。天と地の間を介在せしめるために人は投げるのである。神に詣で、投げてささげる賽銭が金銭故に、授かるはずの後利益の代償のように思われ勝ちだが、実際は金額にそんなに高下のないのをみれば別の意味があると思うべきだ。賽銭はやはり手向けである。私たちが神と交流をもとうとするとき、その橋渡しに手向けの心と、物としての賽銭の用意を必要とする。そして。銭のなかった時代、人は石ころ一つをもって神の前に立ったのである。

神が人間に交渉を持とうとするとき、合図につぶてが飛んだ。故に、人が神と交流しようとするときもやはりつぶてを投げる。どうもそういうふうに人と神の間を石ころはとびかったのではないかと、そうおもってみると、はじめて、手向けの小石や賽銭の謎がとける。そして庶民の葬送儀礼において野辺送りに先立って捲かれる銭の意味や、上棟式にまく投げ餅の意味も分かって来ると中沢は書いている。

さて、私自身にとって投石の記憶はなかなか複雑である。69年頃、敷石を剥がして投げた方なのだが、実はそこでなんと多くの女性が気がつかされた。フェミニズムである。男性たちが、投げる石を運べと指示された女たちは、なぜだかへんと思ったのである。役割分業が露呈したのだ。多分男女差の力の差は歴然としていたから、無理もないのだが、石運びをさせられた女性たちは、何かしら違和感を持ったのだ。

さいごに、印象的な石投げの写真を思いだす。サイードがパレスチナで石を投げている写真である。武器を持たないパレスチナ人民の抵抗の象徴として、心に残っている。

魔女:加藤恵子

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