魔女の本領
明治初年の日本が、そのまま生きている…

下岡蓮杖

『下岡蓮杖 日本写真の開拓者』東京都写真美術館


明治初年の日本が、そのまま生きている。写真てすごいなー。

『下岡蓮杖 日本写真の開拓者』東京都写真美術館を読む。

タイトルだけでアマゾンで買ってしまったのだ。研究書だと思ってみたら、何んと展覧会のカタログであった。しかし、下岡蓮杖について、意外なことを知ることになって、其れなりに面白い本ではある。

日本写真の開拓者ということになっているが、研究によると、下岡以前にも写真に挑戦した人物はいたようなのだ。鵜飼玉川といい、万延元年頃、アメリカ人オーリー・フリーマンから技術を学び少なくとも文久元年8月19日以前から開業していたことが、松平春嶽の福井松平江戸藩邸の日誌から明らかになった。彼こそ現在判明している日本人最初の営業写真師である様であるが、弟子が存在せず、詳細は不明のようだ。また、女性の写真師もいたらしいが、これも詳細が分からないと言う。とても気になる存在である。

そんな中、日本の写真の開拓者は東西に出て来る。一人は、長崎で開業した上野彦馬(天保9年8月27日―明治37年5月22日)である。彦馬は医学伝習所に設けられた舎密試験場でポンペ・メーデルフォールトとの関わりから写真を知り、学友の津藩士・堀江鍬次郎と共同で研究した。この地を訪れたスイス人写真師ピエール・ロシエに最終的な指導を受けると、鍬次郎の主君である藤堂高猷から出仕を受けて写真機材を購入する。この縁で文久2年に津藩の有造館洋学館で教鞭を執ることになる。この折に鍬次郎と執筆した化学の教科書が『舎密局必携』(前編3巻)であり、この三巻に補遺として「撮形術 ポトガラヒー」を著した。これはコロディオン湿板方式の制作に関して詳細に述べられた日本発の写真技法書である。この執筆を終えて長崎に帰郷し、年末頃に「上野彦馬撮影局」を開業した。当時、西洋知識を手にするべく日本人が訪れる留学の地であった長崎で開業したことから、化学研究・写真技術習得のために多くの藩士が訪れ、彦馬のネットワークは関西圏にまで及ぶことになる。この写場で坂本龍馬をはじめとする多くの志士が撮影され、彦馬によって西南戦争の戦跡写真が制作された。彦馬は上海、香港、ウラジオストックに支店を構え、撮影の営業だけでなく写真感材の輸入販売も手がけた。

このように外国人との交流と化学研究に出自を持つ彦馬に対して、画家としての出自を持つもう一人の開祖が下岡蓮杖(文政6年2月12日―大正3年3月3日)である。蓮杖が画家生活の中でダゲレオタイプの肖像写真と出会い、写真技術習得を志したのち写真との接点を見出すまでに10年を遥かに超える時間が必要だった。20才で写真の存在を知ったときに写真感材の原料が間近にあった彦馬とは、まったく異なる出自の初期写真師なのである。

下岡の聞き書きである『写真事歴』が史料として付されている。これについては、これまでホラが多いと言う評価であったのだそうであるが、現在再検証が進められ、かなりと程度事実であると評価されるようになったということである。

下岡は下層の出であるが、下田奉行の下層役人として、幕末の外国船が入港する緊迫した状況下に下田に勤務し、一枚の鏡面に写された男性の立体写真を見せられた。これこそがダゲレオタイプであった。その時の印象をこう書いている。「此れは何かと訊ねると『筆で書いたものではない、器械で写して薬で現したもので、今度初めて長崎へ渡ってきたものである』ということを教わった。尚、家人が言うには『此の絵が臭気を掛けると絵が消えてしまう』と言うので、手拭を口に当てて臭気の掛らぬ様、恐れ恐れ大切に見ました」。初めて写真に興味を持った日本人の印象として面白い。下岡は後に下田で暗殺されるヒュースケンから写真術を学ぼうとするが果たせず、そのうち横浜が開港されると言うことで、横浜に出る。下岡は横浜居留地で雑貨貿易商を営むラファエル・シャイヤーの元で働くことになった。幼い頃から画を好み自らも学んでいたショイヤーの妻アンナは、蓮杖の日本画を高く評価し、ショイヤー夫妻から特別な寵愛を受けた。ショイヤーの妻は、蓮杖から日本画法を学び、蓮杖は西洋画法を習った。万延元年(1860)年の遅くとも9月までに来日していた、写真師ジョン・ウィルソンがショイヤーの家に寄寓することになった。彼こそ、蓮杖に写真術を授けた人物である。ウイルソンは文久元年12月末日(1862年1月末)に日本を離れ、よく年5月頃にロンドンでパノラマ画の展示会を開催している。出国前に、ウイルソンは写真機材や薬品類と蓮杖が描いた日本の景色風俗86枚を交換していた。しかし、薬品類を理解できなかった、下岡は、その後自力で薬品を使用できるまでに多くの時間を費やしたようである。上野彦馬がいわば其の原理を科学的に理解し、撮影を始め、多くの志士たちのような上層の人物を撮影したのに対して、下岡蓮杖は自力更生で撮影を成し遂げたようである。また彼は横浜に初めて写真館を開業し、居留地の中国人や外国人の客を相手にしたようで、そのエピソードもなかなか面白い。外人客は着物を着たり、鎧兜をつけたりして写真を撮りたがった。しかし着物が左前であったり、刀を反対にさしたりしたが、それを直そうとしても聞き入れないために、おかしな風体の写真が多くできたと言う。これはいわゆる外国に渡った時、なんか変な日本となったであろう。サイードがいうオリエンタリズムだ。また外国の客たちは日本娘の写真をたいそう喜んだそうである。モデルを使って撮影したらしい。彼の写真の風俗写真の意味がそこにある。また、残された写真には色がつけられている。とても不思議な感じがするが、上岡が画家としての修業を積んでいたところからして、自ら彩色したようである。初期写真はガラスなのだと思っていたが、鶏卵紙とか、洋紙に塩を塗ったものが既に使われていたと言うのは知らなかった。鶏卵紙というのはどんなものなのか判らないが、よく現在まで残ったものである。

下岡は写真師として成功するのだが、早くに画家に回帰して行く。特にパノラマ画を描いているのが興味を引く。函館の五稜郭の戦いや台湾戦争の図。かなりの大きさのものである。このパノラマ画は浅草で興行にかけられ、客にコーヒーを振る舞ったとかで、有名になった。また彼はいわば新し物好きで、大きな風船(アド・バルーン)にオルゴールをつけて音を出す仕組み、菊花雨庇といった見世物の企画、半弓屋、大弓屋の営業などを手掛けていたという。また人力車を考案していたのだが、いつの間にか他の人に先を越されたという話もある。

ともあれ、下岡蓮杖の写真のカタログであるから、彼の残した明治期の庶民の姿が写真として見られることは、素晴らしい。ついでながら、このカタログの後ろの広告に少なからず驚いた。それは『大久保家秘蔵写真 大久保利通とその家族』というものなのだが。大久保利通関連の写真が2500点も未公開で残されていたとのことなのである。現在なら分かるが、明治初年の人物は意外と写真に写りたがっていたのではないか。日本人は新しい文化を好むものなのだと思い知らされた。

魔女:加藤恵子