魔女の本領
本当は怖い経済―経済学者って何している人なの…

経済ジェノサイド

『経済ジェノサイド フリードマンと世界経済の半世紀』


『経済ジェノサイド フリードマンと世界経済の半世紀』中山智香子著 を読む。

私はお釣りの計算もワリカンの計算も出来ない馬鹿だが、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』には本当にショックを受けたのだ。つまりフリードマンという経済学者を首領としたシカゴ学派が私たちの今ある社会に与えた甚大な影響には無関心ではいられないと思ったのである。

本書は経済学者によるフリードマン経済学とは何なのかを歴史的に辿った解説書である。新自由主義というものに世界中が前のめりになっている現在、それに対抗する経済学理論は、これまであったのか、そしてその弊害に対して私たちはどう対抗していったらいいのかを示している点で、単なる経済学の本というわけではない。

ショック・ドクトリンとは「社会全体が破壊されるような惨事の後、人々がまだショックから立ち直れないでいるときに、政治はこれに便乗し、通常では行なえないような強圧的な経済制作を進めようとする。あるいは逆に、そのような制作を施した最初の一撃でショック状態をつくり出し、これを強行しつづけていく。その際に必要とあらば軍隊の出撃も辞さない。しかしそうやってきわめて政治的に遂行されて来た経済政策の方向性は、統制経済でも計画経済でもなく、自由と市場を軸とする自由主義的な経済」のことである。さて、自由主義といわれれば、経済的な自由で市場は開放され活発な社会的な発展が印象ずけられるが、フリードマンの経済学は自由を表看板にしながら、逆に国家のための経済システムを構築するイデオロギーである。この逆説が、めちゃくちゃ怖い。フリードマン主義=新自由主義の国家のめざすものは「新自由主義のもとでは一般に、ある種の監視社会が形成されて行く傾向がある。軍事予算はいわゆる「外敵」に対する「国防」に用いられるだけでなく、平時に国家の秩序、つまり国家システムを守るために用いられる。広義の「軍事」は、もしその秩序やシステムを危機にさらす者が国内に、たとえば国民のなかに存在すれば、警察を通じて、その国民に向かって発動されるのである。これが「国家は廃止」されるどころか強大になるということの、実質的な意味である。

フリードマン主義、新自由主義の国家は、この市場原理を中核にした「自由な」国家システムの維持・存続のためにある。システムはまた、国外との貿易の自由を原則とするため、国有という形で国民の手中にあったものをあえて外国資本に売り渡すことが、むしろ国家の役割となる」。誰のための自由なのか。ここまで来れば私にもわかる。少なくとも私にとっての自由ではない。最も大きな問題は、「政府の公共支出を抑える」という政策である。福祉・健康・教育などが市場に売り出されるのだ。そこに市場原理が介在することで、あまりにも卑近な譬えではあるが「金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏に」なる。こんなものが経済学者によって勧められていいものだろうか。

経済に規範とか倫理とかは求められないのであろうか。この点から本書はフリードマンに対抗した経済学者を紹介している。フリードマンに真っ向から反対したフランクはチリのシカゴ・ボーイズの新自由主義を批判してチリを「軍産学メディア複合体」として支配し、ファシズム期スペインやナチズム期ドイツの秘密警察関係者らの影が見え隠れしていて、それは、表向きは「自由」を謳いながら実質的にはファシズム国家、国家と大企業が労働者から自由を奪って経済を機能させるという協同主義国家(コーポラティズム国家)への再編にほかならなかったと批判した。フランクはさらに、マスメディアすなわち新聞と政治の癒着と、これに絡むアメリカの大企業との関係も指摘した。現在の日本の状況を感じ取れるものである。フランクはしかしながら、フリードマン派による妨害で、職を得ることが出来なかったということである。

著名な学者ではドラッカーがいる。彼は利潤の追求は必ず格差を生み出すという当たり前の理論を展開した。しかし、ドラッカーは経済学者としての評価は低く、マネージメントという概念で経済を捉えている面だけが受け入れられたようである。日本での受容もその点であろう。

これとは別の基本的概念をもって経済を捉えたのがカール・ポラニーの経済人類学である。私の認識ではカール・ポランニーと表記していたようなのだが、ポラニーとなっている。ポラニーは市場社会と異なる社会のあり方を模索した。彼は弟子たちと共同でさまざまな時代・場所における権力と財の分配制度を考察したのだ。しかし、ポラニーの経済人類学は歴史的な経済システムに多様なあり方があり得たことの証明はなされたが、現在の経済をどう構築すべきかの議論へと展開しなかったことは事実である。同じ時期のイヴァン・イリーチにもいえる。地域社会における別途の経済システムの存在を志向する試みとしての視点は理解し得たが、グローバルな経済システムにどう対抗すべきかの答えは得られなかった。

しかしながら、新自由主義のひずみが明白になっている今、私たち(私だけとは思いたくない)はやられっぱなしで言い訳がない。普遍化に乗ればいい思いをすることが出来るけれども、下には苦しむ大多数がいる雲の上に自分を置くことはできない。まずはその誘惑に「NO」をいい、「不服従」に身を置いて見る。すると隣の人の手に触れることが出来るだろう。中山は結論をこう書いている。「グローバルな世界システムのなかの人間にとって重要なのは、いきなり個と全体という図式で考えるのではなく、傍らにいるひとりは自分ではないゆえに、つまり自分とは異なるからこそ大切であり、また異なるからこそ理解したい、理解できると考えることである。それは「同化」を求めるフマニスタに対する「不服従」の基本線であり、またアントロポスの経済思想にとって、譲ることのできない一線である」、と。

追記:中山は首相官邸前の原発抗議に参加しながらこの本を書いたそうである。私自身抗議に参加するのは「個」としてであるが、いまや大切な繋がりが出来ているのを私は実感している。「野たれ死んでたまるか」。

魔女:加藤恵子