情熱の本箱
親鸞とその若き弟子・唯円による、仏教・人生・恋愛を巡る想定会話集:情熱の本箱(25)

出家と弟子

親鸞と、その若き弟子・唯円との仏教、人生、恋愛を巡る想定会話集


情熱的読書人間・榎戸 誠

倉田百三『出家とその弟子』『愛と認識との出発』は、大正、昭和の青年たちの必読書であった。私もその流れの中で、大学3年の時、この2冊を読み、たちまち百三の心酔者となってしまい、彼の他の作品にまで手を伸ばす仕儀となった。

今回、数十年ぶりに『出家とその弟子』(倉田百三著、新潮文庫)を再読して、意外の念に打たれたことが、3つある。第1は、この作品は『歎異抄』を下敷きにしているが、著者が浄土真宗だけでなくキリスト教の影響も強く受けていること。第2は、浄土真宗の開祖・親鸞が、目前にした死を恐れる場面も描かれていること。第3は、本書は宗教をテーマにした戯曲であるが、青年の恋愛も重要なテーマとなっていること。

第二幕の、師・親鸞(75歳)と弟子・唯円(25歳)の会話。ご存じのとおり、唯円は『歎異抄』の作者である。「親鸞:おまえの寂しさは対象によっていやされる寂しさだが、私の寂しさはもう何物でもいやされない寂しさだ。人間の運命としての寂しさなのだ。それはおまえが人生を経験していかなくてはわからないことだ。おまえの今の寂しさはだんだん形が定まって、中心に集中してくるよ。その寂しさをしのいでからほんとうの寂しさがくるのだ。今の私のような寂しさが。しかしこのようなことは話したのではわかるものではない。おまえがおのずから知っていくよ。唯円:では私はどうすればいいのでしょうか。親鸞:寂しい時は寂しがるがいい。運命がおまえを育てているのだよ。ただ何事もひとすじの心でまじめにやれ。ひねくれたり、ごまかしたり、自分を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え。それだけ心得ていればよいのだ。何が自分の心のほんとうの願いかということも、すぐにはわかるものではない。さまざまな迷いを自分でつくり出すからな。しかしまじめでさえあれば、それを見いだす知恵がしだいにみがき出されるものだ。唯円:あなたのおっしゃることはよくわかりません。しかし私はまじめに生きる気です」。

続いて、恋がテーマとなる。「唯円:では恋をしてはいけませんね。親鸞:いけなくてもだれも一生に一度は恋をするものだ。人間の一生の旅の途中にある関所のようなものだよ。その関所を越えると新しい光景が目の前に開けるのだ。この関所の越え方のいかんで多くの人の生涯は決まると言ってもいいくらいだ。唯円:そのように重大なものですか。親鸞:二つとないたいせつな生活材料だ。まじめにこの関所にぶつかれば人間は運命を知る。愛を知る。すべての知恵の芽が一時に目ざめる。魂はものの深い本質を見ることができるようになる。いたずらな、浮いた心でこの関所に向かえば、人は盲目になり、ぐうたらになる。その関所の向こうの涼しい国をあくがれる力がなくなって、関所のこちらで精力がつきてへとへとになってしまうのだ。唯円:では恋と信心は一致するものでございましょうか。親鸞:恋は信心にはいる通路だよ。人間の純なひとすじな願いを突きつめていけば、皆宗教的意識にはいり込むのだ。恋するとき人間の心は不思議に純になるのだ。人生のかなしみがわかるのだ。地上の運命に触れるのだ。そこから信心は近いのだ」。

遠方から親鸞に教えを乞いにきた者たちに、親鸞が語る。「親鸞:およそ真理は単純なものです。救いの手続きとして、外から見れば念仏ほど簡単なものはありませぬ。ただの六字(=南無阿弥陀仏)だでな。だが内からその心持ちに分け入れば、限りもなく深く複雑なものです。・・・私の心を著しく表現するなら、念仏はほんとうに極楽に生まるる種なのか。それとも地獄に堕ちる因なのか、私はまったく知らぬと言ってもよい。私は何もかもお任せするものじゃ。私の希望、命、私そのものを仏様に預けるのじゃ。どこへなと連れて行ってくださるでしょうよ」。これぞ、『歎異抄』(唯円著、金子大栄校注、岩波文庫)に「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひと(=親鸞の師・法然)のおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」とある「他力本願」である。

第三幕の、親鸞と唯円の会話。「親鸞:四季の移り変わりの速いこと。年をとるとそれがことに早く感じられるものだ。この世は無常迅速というてある。その無常の感じは若くてもわかるが、迅速の感じは老年にならぬとわからぬらしい。もう一年たったかと思って恐ろしい気がすることがあるよ。人生には老年になるぬとわからない寂しい気持ちがあるものだ。唯円:世の中は若い私たちの考えているようなものではないのでしょうね。親鸞:『若さ』のつくり出すまちがいがたくさんあるね。それがだんだん眼があかるくなって人生の真の姿が見えるようになるのだよ。しかし若い時には若い心で生きていくよりないのだ。若さを振りかざして運命に向かうのだよ。純な青年時代を過ごさない人は深い老年期を持つこともできないのだ」。同感である。

第五幕では、唯円が親鸞の高弟たちから、遊女との恋を糾弾される。「唯円:・・・けれどあの女を振り捨てる気にはなれません。あの女に罪はないのですもの。振り捨てねばならない理由が見つからないのですもの。私はどうしても恋を悪いものとは思われません。もし悪いものとしたらなぜ涙と感謝とがその感情に伴うのでしょう。あの人を思う私の心は真実に満ちています。胸の内を愛が輝き流れています。湯のような喜びが全身を浸します。今こそ生きているのだというような気がいたします。ああ、私たちがどんなに真実に愛し合っているかをあなたがたが知ってくださったら! 私は自分の心からわいて起こる願いをたいせつにして生きたいと思います。その願いが悪いものでない以上は、けっしてあきらめまいと思います」。唯円、頑張れ!

第六幕の、親鸞(90歳)の唯円(40歳)への言葉。「親鸞:恥ずかしながらこのわしも、この期に及んでもまだ死にともない心が残っている、それが迷いとはよく知っているのだがな。あさましいことじゃ。わしは一生の間煩悩の林に迷惑し、愛欲の海に浮沈しながらきょうまできた。たえず仏様の御名を呼びながら、業の催しと戦ってきた。そして墓場に行くまでその戦いを続けねばならないのだ。唯円、このたいせつな時に私のために祈ってくれ。わしはそれを必要とする。わしは心をたしかに保たなくてはならない。一生に一度の一大事をできるだけ、恥をすくなくして過ごすためにな。わしはそのために祈っている。空澄み渡る月のように清らかな心で死にたい」。こういう人間らしい親鸞て、いいなあ。