魔女の本領
忘れられたダダイズムの姿が…

ダダ

 

『京城のダダ、東京のダダ 高漢容と仲間たち』


『京城のダダ、東京のダダ 高漢容と仲間たち』吉川 凪 著 を読む。

日本と韓国の文学者の間に一瞬、深い友情が交錯した瞬間。彼らが見ていたのは、国家とか、主義とかを超えた純な魂であった。忘れられたダダイズムの姿が心を打つ。

日本のダダイスムと言えば辻潤と高橋新吉しか知らないし、それもアナキズムとの関係でしかほとんど関心を持っていなかった。そこへ、韓国のダダとの関係が書かれた本書に虚をつかれたのである。もちろん韓国との関係を持ちだす時は心してかからねばならない。ダダが一瞬開花した大正時代、韓国は日本の植民地であった。3・1独立運動が起こった頃である。その当時、文学者のレベルであれ、日本と韓国との間で真に信頼と友情が成り立っていたのかという感情がどうしても働いてしまう。しかし、在ったのである。

現在、日本でもダダイスムの研究は皆無だし、韓国においても同様らしい。「京城」つまりソウルのダダ、高漢容(コ ハンニュ)と表記すべきであるが、当時は漢字表記であったのでこれを使用する)は、日本の文献においても僅かに秋山清の者の中に書かれているのみだそうである。しかも、韓国に在住の遺族も祖父がダダで在った事実を知らなかったということだ。この本も、高漢容の作品の分析とか、韓国のダダの姿とかが記されているわけではない。主として書かれているのは、辻潤、高橋新吉の姿と、意外なことに当時、朝鮮人が多数留学して来ていた日本大学の事が興味を引いた。現在の日大芸術学部、当時の日大美学科と日大社会科の存在である。実は私の父親もほぼ同じ頃の日大出身なのだが、亡くなった時、役所に経歴を書かなければならず、かなり真剣に調べたのであるが、日大の構造がどうなっているか良く分からず、どうも夜学ではなかったかと思ったりしていたのだが、それが氷解した。当時私立大学の卒業生にも学位を授与するようになり、1918年の「大学令」によって、慶応、早稲田、明治、中央、法政、日本の各大学がこの「大学令」による大学となった。日大は後発大学ではあったが、美術、演劇など芸術に才能の或る学生を教育するという点で当時としては斬新な発想であり、自称天才と称する学生たちが集まったようだ。また教授陣も多様で、森鴎外、阿部次郎などが出講していた。学部は本科と選科があり、細かいことは理解しがたいが、本科は卒業すれば文学士が得られたが、当時卒業しても就職の道があるわけでもなく、学費の安い選科生が非常に多かったらしい。ここへ朝鮮人の留学生が多数在籍していた。高漢容もまたそうであった。なぜ高が日本へ留学してきたのかは明白ではないが、高の家は開城(ケソン)(北朝鮮の工業団地がある事でときどき耳にする)の裕福な家庭で、没落後京城に移ったが実家は広大で、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた場所になったということである。

この本のもう片方の日本側のダダイスト辻潤については、伊藤野枝の夫で、シュテルナーの『唯一者とその所有』の訳者として知られるが、尺八を吹きながら放浪し、終戦を待たずに餓死したということは知っていた。それに野枝との子どもまことのこと。しかし、辻潤のきちっとした評価を読んだことがなかった。この本にはその点で長所短所をあわせて、きちっと述べられている。辻潤は多くの著作を残したというわけではないが、真に理解したのは萩原朔太郎で、彼は「思想上や感覚上で、深く文学上の一致と友情を感ずるのは貴下の辻潤一人です」という手紙を送っている。また強く影響を受けたのは、小野十三郎、岡本潤、永末定(さだむ)、太宰治も十八歳の時辻潤に心酔したと告白している(「虚構の春」)。また1960年代には瀬戸内晴美が「私は彼の一冊の書物を読みあげる度、深い銘酊感に襲われて、足許がふらつくほど泥酔してしまった」(「私にとっての辻潤」)と書いている。吉行淳之介は父親エイスケがダダイストで辻潤を見知っていて、悪感情もあったらしいが、「辻潤に関しての記憶は、歳月が経るにつれて、嫌な感じが薄れて、いい方だけが残って来る」とその不思議な魅力を語っている。また30歳頃の辻潤について平塚らいてうは「芸術的な要素と哲学的な要素を等分にもったいたって真面目な、見るからに神経質な渋みのある青年」と書き、望月百合子も「辻潤もとてもいい人で、野枝さんを人間として遇して束縛しなかった」と書いている。辻潤の業績には当時の新しい文化のプロデューサーとしての働きもあるようだ。もちろん高橋新吉をダダイスト詩人として広く世に紹介したのは彼の業績であり、無名の詩人宮澤賢治の『春と修羅』をいちはやく認めて絶賛したのも彼であった。また『青鞜』を認め、伊藤野枝を平塚らいてうの元を訪れさせたのも辻潤であったようだ。この野枝が大杉栄の元に走り、その後の彼の行動に大きな影を落としたことは否めない。それは何度も妻たる人が変わり、最後の伴侶であった松尾季子は「辻さんの後姿は貧しく見えて、まともに見られぬ思いをしたこともありますし、聖者のように貴くみえることもありました」と語っている。

辻潤の本質をどう評価するかが非常に難しい所だが、秋山清は「人間の生存と生活を侵している一切の社会組織、そのなかの一番強力な国家という権力にもっとも反抗の態度を示しつづけた」人物であると言い、「ニヒリスト辻潤」に次のような文章を引用している。

「時代時代の国家組織や社会制度に適合して、服従して、それらのための手足になって
働く人は安全な生活を送ることが出来る。すべて犠牲的な精神は美徳である。家族の犠牲になる息子は親孝行、国家の犠牲になる者は忠義者、主人のために己を犠牲にする者は忠僕、みな美徳として讃えられる」。

「戦前の思想統制時代、忠君愛国が日本人の道徳的指標であった時代には、これは驚倒に価する発言であった」と評している。革命によって生まれた国家であっても、民衆を抑圧する権力になれば、辻は、当然のことながら、嫌悪した。それで、左翼青年たちが革命国家ロシアに憧れを抱いていた時代にも辻はボリシュビズムへの反感を表していた。辻のニヒリズムは集団的、社会的人間生活にいかなる期待も持たないという点で、アナキズムと異なるだろう。道徳、すべてのナントカ主義を捨てて自らの自我を「唯一者」とする反権力的否定精神において、辻潤ほど徹底した思想家はいなかった。「出来るなら、国籍をぬいてもらいたい」、「何処の国の人間にもなりたくない」という辻潤は、人間の自由を束縛するすべての体制―それが封建制度であれ、国家主義であれ、社会主義であれ、アナキズムであれーに対する、屹立した一個の巨大なアンチテーゼであった。辻潤以外の誰が、すべての権威を否定しつくして生きることができたか。辻潤のマネは、誰にもできない。挫折したダダイストたちはその否定精神において不徹底だったのであり、マネできないからこそ、辻潤はある人々にとっての偶像であり続ける。戦時中、軍国主義に染まった世相の中で、全く戦争に協力しないで生きていくことは、ほとんど不可能に近かった。誰しも何パーセントかは妥協しなければ、生き残ることは難しかっただろう。節を全く枉げなかった人が、果たしてどれだけいるのか。まことは父のことを「私の知るかぎり日本人のなかでたった一人、一人の人間としてけっして負けなかった人間だった」と言い、終戦を待たずに死んだ辻潤の、世間的には悲惨な最期を、「彼の死は、一つの魂の勝利だったと感じている」と評価した。

この純真な魂に引き寄せられたのが高漢容であった。実は辻潤に恋人を奪われたのか、同時に同じ人物を愛したのかは本当のところは分からないが、高は朝鮮にダダを起こしたのち、日本のダダイスト、高橋新吉、辻潤を招待することになるのである。実に暖かい歓迎であったようである。韓国の1924年に始まり26年にはほぼ終わっている。1923年には関東大震災があり朝鮮人虐殺があったその当時に、日本のダダイストは大歓迎され、そればかりではなく、殆ど乞食同然の身なりで朝鮮を放浪しながら、朝鮮の人びとから食事を与えられ、はだし同然で歩いているのを気の毒がり、自分の自転車を貸してくれて、貸した本人はそのあとを追って来たという。このエピソードに嘘ないだろう。現在の日本と韓国の感情のすれ違いを思うと、なんという豊かな心の交流なのかと思うのである。

この本のクライマックスは1926年(大正15年)4月、秋山清、辻潤、高の三人が酒を飲んで後、赤坂溜池で、別れたシーンを秋山清が書いた文章である。「ふらふらと歩いて行く辻を私たちは立って見送った。その夜の切りはますます深く、辻はその白い霧の中に埋もれてしまった。(中略)一番りりしい男前の高漢容は、私と並んで赤坂溜池の方へ向かって無口になり、両手をポケットにつっこんで、大股に歩きながら、言った。

「辻って、さびしいやつね」
それからしばらくしてまたいった。
「もう逢いませんね」
辻とか。私とか。それは知らない。

魔女:加藤恵子