情熱の本箱
鄙とは、都によって「あらかじめ位置づけられた犠牲の地」だ:情熱の本箱(49)

鄙への想い

 

鄙とは、都によって「あらかじめ位置づけられた犠牲の地」だ


情熱的読書人間・榎戸 誠

『鄙への想い――日本の原風景、そのなりたちと行く末』(田中優子著、石山貴美子写真、清流出版)は、恐ろしい本である。添えられている鄙(ひな)の写真に癒やされることを期待して読み始めたが、ほんの少し読み進んだところで、鄙とは、都(みやこ)によって「あらかじめ位置づけられた犠牲の地」だという表現に出会い、その恐ろしさに気がついた。

福島原発に対する著者の考察は、鋭く、厳しい。「(高速増殖炉『もんじゅ』と六ヶ所村の再処理工場の)実用化は無理だと、3月11日以前にすでに考えられていた。永遠のリサイクルが実現してこそ核のゴミが出ることは正当化できたのだろうが、結局ゴミだけ抱え込むことが明らかになっていた。原発のコストの安さと立地への(鄙への)潤沢な助成は、『絶対の』安全と『永遠の』リサイクルができてこそ、計算が合うはずである。そうでなければ終わらぬ事故処理と終わらぬ実験と、そして最終処分に莫大な金がかかるので、原発のコストは膨れ上がる。一方の(原子力)ムラの夢が破綻すれば、もうひとつのムラの(地域の発展という)夢も破綻することは明らかなのである。3月11日以前に、じつはどちらの夢も破綻していたのだ」。

グローバル企業に対しても容赦がない。「グローバル企業が国家をも浸食してゆく今日、ブータンは国家的な結束すらも危ういであろう。それはどの国も同じで、今の日本がそうであるように、ナショナリズム的な結束が現れるよりも早いスピードで、グローバル企業化した大企業による国家の奴隷化が起こる。原発の再稼働は、最も象徴的な出来事である。原発を造って海外に売り込む日本企業はすでにグローバル企業化していて、その利益はアメリカにも落ちる仕組みになっている。『社会保障と税の一体化』という題目の改革が、社会保障を骨抜きにした消費増税として突き進むありさまも、輸出で利益を得ているグローバル企業の思惑通りだ。大企業は消費税の負担を負わないどころか、仕入れにかかった消費税が輸出還付金で返ってくるので、消費税で儲けることになる。国家の政策はグローバル企業の利益のために作られるようになったのである。輸出TPPは、その最もあからさまな現れである」。

「水俣湾への有毒物質の排水と、原発稼働のための排水は、すべて同じ考えのもとでおこなわれている。生命の宝庫である海が、都合良く毒物をどこか見えないところに運んで行ってくれるはずだ、という思いこみだ。いや、思い込んでいるのは地域住民で、それを誘致する首長や行政は確信犯だ」。確信犯だから、質(たち)が悪いのだ。

「原発を容認する(広域)システムの内側には、核兵器と軍事化がある」。このことに気づかない、あるいは気づいていても、気づかない振りをしている人の多いことには驚かされる。

オウム真理教に関する考察には、正直言って、目を剥いた。「藤原新也は『黄泉の犬』で、70年代中ごろから好んでインドに旅行したり信仰に入ってゆく青年が増え、その延長線上に『空中浮遊』があったと分析している。『この誇大妄想というのはインドの現実の重さを直視できなかったり、それを十分に消化できなかった場合、妄想に逃げ込むことで自己の保存をはかるひとつの現実逃避であると考えられる』と。そしてその弱さが逆に自己陶酔的な自己過信につながるのだと、麻原彰晃とオウムの信者たちを分析している。その自己陶酔の象徴が空中浮遊であった。その手品同然の空中浮遊で、頭脳明晰なエリートたちを虜にした麻原彰晃が水俣病の患者であった可能性について言及したのも『黄泉の犬』である。実際に後天的弱視の松本智津夫は、後天的全盲の兄とともに、水俣病の申請をしている。近代の『鄙』の矛盾はまず水俣に現れ、それを拡大したかたちで地下鉄サリン事件があり、さらに拡大して福島第一原発事故があった。その背景には一貫して、沖縄の米軍基地という鄙が存在し続けていた。私は連載2回目から、鄙を自然や共同体や祭の根源として捉えられなくなっている。鄙は日本の美であるどころか、日本の矛盾のしわ寄せが集中する場所になっていたのだ」。ここで、沖縄、水俣、福島と続く鄙の負の系譜が指摘されている。こういう考察を進めるに当たり、他の著者・著書を明記する田中の姿勢には好感が持てる。

「放射能汚染でも同様なことが起きたように、病は差別を生み出す。極悪非道の悪人が同じ病であると確定されたら、待ってましたとばかりに差別に飛びつく人間がいるであろう。マスコミがそれを助長する。水俣は地域で最もひどかったが、商品流通という点では国全体にその差別が拡がった。原発事故は、チェルノブイリもそうであったように、世界中に差別を拡げる。松本智津夫水俣病患者説がとっさに抑えられたのは、そのような事情を考えれば当然の措置だったかもしれない。しかしそれは同時に、オウム真理教の出現とその行動の理由を社会問題として考えていく方法をも、切り捨てたのではないだろうか」。

「松本智津夫が水俣病であることが明確になったら、大企業と社会が引き起こした問題の犠牲者が、腕の良い治療師であったにもかかわらず、なぜ『空中浮遊』という現実逃避の手品に逃げ込み、犯罪者になっていったか、その全体を社会的問題として明らかにできたのではないだろうか。今はその逆に、精神的な病であるとされて収監され、まもなく死刑が執行されれば、すべては闇に葬られる。私たちの社会はそれを好都合とみて、社会とは無縁な『悪』の『自己責任』というゴミ箱に捨て去ろうとしている。極めて質の高い自然環境と、優れた生産技術。にもかかわらず、搾取され続ける鄙。鄙の内の差別は、じつは鄙のこの矛盾から生まれ、最後は個人に押しつけられて闇に葬られている」。この視点は、私にとっては新鮮であった。

著者は、鄙の現状を嘆くことで終わってはいない。「自然を消費するだけの観光的商業主義や、土地を原発に貸すだけの利益主義では鄙を生きることはできない。鄙を生きるとは、鄙を都会と同じにすることではなく、むしろ正反対だ。自然環境を、人間がそこに寄り添い、結びつき、熟知し、それによってより良く生きるための場所にする方法である」として、続けて具体案を述べている

「空間、時間、個性や風土の多様性、これら相互に関連の無いすべてのものが、あるひとつの頂点に奉仕するよう仕組まれている。より良い社会に対して、ではない。特定の条件をもった人々が恵まれた住居と安定した生活と健康と権力を得られ、それが継続するような仕組みに向かって、である。その条件とは、仕事においては官僚や大企業のサラリーマンであり、空間においては大都市であり、それを得るために上位ランク(とされる)大学を出ることであろう。そのような裕福な層が広がれば、その富は再配分されて全体が豊かになるなどと、そういえば新自由主義者が唱えていた。しかしそうなったことはない。ますます富が集中しただけのことだった。新しい産業が興ると思われたが、若者の成金たちはすぐに追い落とされ、より民主的な政府ができると思ったが、同じ仕組みの中に取り込まれただけだった」。敢然と、ここまで言い切る田中優子に、私は目を瞠っている。