魔女の本領
精神の聖者である須賀を思い出したい…

須賀敦子

 

『須賀敦子の方へ』


たおやかな文章の裏にある確固たる意思。私はそれを夫たるぺッピーノと活動した「コルシア書店」の仲間から得たのだと思っていた。

『須賀敦子の方へ』松山 巌著 をよむ。

著者松山巌は須賀敦子と毎日新聞の書評者として知り合ったそうだが、須賀敦子が作家として活躍したのは僅か7年に満たなかった。松山は須賀敦子没後『須賀敦子全集』刊行の際に詳細な年譜を作成した。松山はそれで自分の役割は終わったと考えていたが、没後10年の命日に墓を詣でた時、亡き須賀さんと対話が出来ないことに衝撃を受けて、あらためて、もう一度彼女の作品と生涯に向き合いたいという気持ちが湧きあがって来たのだという。須賀敦子は60歳を過ぎて突然私たちの前に登場した。『ミラノ 霧の風景』である。私にも思い出深い本なのである。1990年、私は母の介護に疲労困憊し、意識不明となり入院し、約半年間記憶を失ったままでいた時、イタリアから帰国した知人が届けてくれた本であった。とても心の深い所が温まるような気がしたのを憶えている。その時は、須賀敦子とは何者かは全く知らなかった。その後出版された『コルシア書店の仲間たち』で彼女の姿の一端が分かったつもりでいた。実は『須賀敦子全集』も買ってあったのだが、引っ越しで手放している。

その須賀敦子の詳細な姿と彼女の精神の在り様をこの著作で初めて知らされた。そして今まで以上に須賀敦子と言う作家の人間性に深く感動した。それは戦中戦後をはさみ、厳しい社会状況の中で女性が自立して学び、また悩みながらさらなる高みを目指しながら、足許の厳しい状況に目を凝らし、しっかりと自分の足で立ち、弱い者への眼差しを失うことなく社会との関係の中で活動し、作家として生きたことに深く心を打たれたからである。須賀はカトリック教徒であり、聖心女子大学で教育をうけることが出来たいわばお嬢様である。しかし、彼女の作品やエピソードからはカトリックの宗教的な匂いや抑圧的な印象はまるでない。そのよう在り様はどこから来たのかは、私が思っていたイタリアでの「コルシア書店」での社会運動から来たのではなく、もっと早くに悩みながら身につけて行ったもので、その先にイタリアがあったのだと云う事が理解できた。

筆者の松山巌は『乱歩と東京』という著作があることでも知られるが、土地と人間の精神との関係を描くという作法に長けている。この作品も須賀が暮らした場所場所を辿りながら、須賀がその地で生きた姿を追体験するような章建てになっている。そして、須賀がフランス留学に船で出発した時点で終わっているのである。本書によって私が気づかされた視点はいくつかあるが最も大きいものは戦争の影である。須賀は6歳でカトリックの小林聖心女子学院小学部(宝塚市)に入学する所から出発した。戦時中、学校は工場となり川西航空機の機械でジュラルミンの板を折り曲げたり、ドリルで穴をあける仕事に従事していたという。僅か14,5歳の子供までが、戦争に駆り出されていたのである。須賀家は幸運にも死者は出さなかったが、終戦後の食糧難も経験している。とはいえ彼女は戦後は聖心女子大学へと再編される大学へ進むのであるが、かなり早い時期に洗礼を受けているが、教会は戦火を受けていて時期は確定できないということである。終戦による新しい日本はしかし数年で朝鮮戦争、自衛隊の創設へと動き、須賀はこの時期から社会との関係を強く意識したようである。彼女は聖心女子大学の自治会委員長などもやっていたらしいが、自主的に動いたのはカトリック学生連盟というカトリック左派の組織であった。この組織には、須賀が師と仰ぐことになる松本正夫先生がいた。彼は慶応大学で中世哲学を教えていて、後に述べるように須賀が聖心女子大学を出てから慶応の大学院へ進む契機を作った。このカトリック学生連盟には武者小路公秀や有吉佐和子がいたという。武者小路とは深くは関わらなかったようだが、有吉佐和子とはローマオリンピックの時に有吉が特派員(朝日新聞のようだ)でイタリアに来た時に再開し、須賀が夫に先立たれ帰国した時に須賀に翻訳を勧めたらしい。しかし須賀の翻訳(それはイタル・カルヴィーノであったという)は世に出なかった。どうも有吉が仲介の労を取るという約束を果たさなかったらしいことが匂わされているが、明白ではない。須賀の翻訳が出ていれば、カルヴィーノは須賀訳が今に残っただろう。このカトリック学生連盟でカトリック左派の思想を知り、自分の信仰の途を確定した。そしてこの経験がイタリアに渡った時にコルシア書店の活動に共感することになるのである。私は今回初めて須賀が大学院は慶応の社会学研究科であり、その慶応の大学院もわずか2年で退学し、フランスへの留学に踏み切ったのだと云う事を知った。聖心女子大学での学習に飽き足らなかった須賀の関心は社会を深く知らなければならないという焼けつくような欲求があったようだ。それを須賀はこう書いている

「ヨーロッパの知識人の多くが抵抗運動に深くかかわっていたことは、戦後いちはやく日本には伝わってきたが、そのなかでカトリックの人たちがどんな位置をしめていたのかについての情報は、ほとんど手に入らなかったし、たまに手に入れることができても、こちらの知識不足もあって、内容がはっきり掴めなかった。慶応で中世哲学を教えていられた松本正夫先生のお宅で、何人かの先輩があつまって、読書会のようなものが開かれていたところへ、ぶらさがるようなかたちで顔を出していたけれど、哲学の素養もない私などは、まさに、目が見えないゾウを撫でている思いだった、(「世界をよこにつなげる思想」『本に読まれて』)

そして松本邸に出入りし、持ち前の話好きと明るさから、大学4年の頃すでに松本の教え子である慶応のカトリック研究会やカトリック学生連盟のメンバーと知り合った。大学卒業直後の彼女は様々な悩みを抱え、抱えながらも彼らから信州旅行に誘われ、救われ、やがてカトリック学生連盟に参加し、有吉や武者小路さんとも出会う。・・・須賀の生涯を辿るとき、カトリック学生連盟への参加は彼女の生涯を貫く生き方にも、彼女の後の人生を綾なす人々との縁にも、大きな、新たな基点となった。須賀派は「松本先生のいったことで面白いとおもったのは『共産党の仕組みがよくわかるのは、我々カトリックだ』という言葉です。クレムリンとバチカンには同じように中心があるからいろいろな派閥も生まれる。そのなかで誰かが抵抗しなければといわれまして」

この背景には当時、日本共産党もフランス共産党もソ連に無条件に追随していた状況と、各国の実情を無視した当時のバチカンの硬直化があった。

松山がインタビューした武者小路は次のように語ったという。
「キリスト者が、世俗社会の中に、キリスト者として、しかし、他の人びとと共に、共同の社会(シテ)の中で働かなければならない。我々や須賀さんがモデルとしたのは、労働司祭です。教会内部にとどまらず、労働者になって労働組合に入ってミサをする司祭のあり方です」。当時須賀が考えていたのは、社会と密にきり結ぶキリスト教であった。須賀はサン=テグジュペリの言葉をかりて「建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者である」と考え、社会そのものを変える夢、つまり伽藍の基礎作りを学ぼうとした。まずは多様な人間たちが作り、生き続ける社会と、社会を構成する多くの人間とはなにかを知るために社会学を学ぶ途を選んだ。その先にあるのは「新しい共同体」への思いであった。

しかし、須賀は慶応大学の社会学が哲学を学ぶ場ではなく、多くの時間地方の社会の聞きとり調査をして分析するような学問であることに直ちに自己の意識との乖離に気づく。そして、同じ戦争中ヨーロッパでは同じ年代の若者を含むあらゆる年齢層、社会階層に属する多くの市民が、まずなによりも人間らしさを大切にするという理由のために、抵抗運動に参加していたことに衝撃を受ける。自分は唯々諾々と戦争を受身で生きて来てしまったという精神の貧しさに愕然とする。そして、そこにヴェイユの存在が自らの灯台のように出現した。知識人であること、しかも信仰の問題に深くかかわり、結婚よりも自立を選んだことが、きらきらと輝いて見えた。決断は早く、フランス留学へ直ちに踏み出してゆく。「彼女がフランス留学を決めたのは、ヴェイユへの憧れ大きいだろうが、それだけではないだろう。カトリック左派の人たちは、その後、どう活動しているのか、なによりもサン=テグジュペリが書くように伽藍を土台から創る人になりたい、自身が信仰を、そして文学を根本から考えたい、すべて基礎からやり直したいと求めたのだ。彼女の生涯を手短に辿ると、須賀は困難にぶつかる度に、常にすべて一から始めている。コルシア書店への参加、日本文学のイタリア語訳、東京でのエマウス運動、大学教師、そして作家。何ごとも偉ぶらず基礎から考え、学び、自問する。これが彼女の自分らしさだ。」

須賀の文学にも触れる必要があるだろう。私も気がついていたのだが須賀の文体には堅苦しい言葉や漢字が極端に少ない。これは須賀がナタリア・ギンズブルクの『ある家族の会話』と『マンゾーニ家の人々』を邦訳し、はなやかで、感情的で、はてしなく饒舌な文体に接した所から来たようである。須賀は「好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それにまもられるようにして自分の文体を練りあげる。いまこう書いてみると、ずいぶん月並みで、あたりまえなことなのに、そのときの私にとってはこのうえない発見だった」と記している。またとても興味を持ったのは須賀が父親に読むように促された森鴎外の「渋江抽斎」に感銘を受けていたという点である。私も手をつけたが全く歯が立たないというより、何が面白いのか分からなかったのだ。ところが、後半に出て来る4度目の抽斎の妻五百が須賀の生き方を大きく位置ずけたと言うのである。

松山は「なぜなら抽斎の四人目の妻、五百の登場からこの史伝は蛾然、面白くなる。鴎外の筆も急に生き生きとしはじめると感じる。五百は、他に縁談があっても当時としては珍しく、抽斎の妻になりたい、知識のある人に嫁ぎたい、と自らのぞみ、はっきり主張する。商家の娘でありながら、武芸も習い、『渋江仲斎』のなかでは三回も武勇伝が紹介される。気丈でありながら常はつつましく、裁縫料理も書も絵も和歌や音楽もこなし、古典を読み、晩年には息子にアルファベッタを習い、一年足らずで英文の歴史や経済の本を読んだ。何よりも情に篤く、父親の妾など憎みながらも憎しみを情に変え、身寄りのない女を救った」というそんな女性が描かれている「渋江抽斎」を須賀の父豊治郎は理想の女に思えたに違いなく、大学院に入ったばかりの娘に一つの進路を与えようとして『渋江抽斎』を読めと命じたと考えられる。

須賀自身もこの史伝を二度読み、二度目に「つよい感銘をうけた」のは、五百の生き方が知的で、それまでの日本文学にはあらわれない女性だったからである。そして松山も又「五百の物語と読む人も多いはずだ。私も須賀と同じように読んだ。それでも「五百は、あの煩雑な渋江家のしがらものなかに組み入れられたとき、いっそうの光彩を放つのだ」とまで読み込むのは、須賀ならではの読み方だと思う」。と書いている。これは須賀の家庭に生じた両親の不仲などが反映しているようである。

今ふたたび日本に戦争の暗い影がきざしている。そういう事を言っても、多くの人の耳には届かない。だからこそ、精神の聖者である須賀を思い出したいと思うのだ。

須賀が訳したサバの詩を最後に。

ウンベルト・サバ

他人のために 灯をともし まだ 意地をはる
精神と 傷だらけの人生への 愛が
おれを 沖へと 突き返す(「ユリシーズ」)

魔女:加藤恵子