情熱の本箱
何げない日々の生活の中で、幸福の断片を見つけよう:情熱の本箱(73)

幸福論

 

何げない日々の生活の中で、幸福の断片を見つけよう


情熱的読書人間・榎戸 誠

ずっと年下の読書仲間の西尾将史から「非常に奇妙な幸福論で、掘り出し物を見つけた気分」と紹介された『幸福論』(春日武彦著、講談社現代新書)を読んでみた。西尾の言うとおり、これまで出会ったことのない、何とも奇妙な幸福論で面食らったが、読み進むにつれて、普段、私が感じる小さな幸福感と相通じることに思い至った。

著者は、自分の幸福論が世に溢れている幸福論とは異なっていることを自覚している。「多くの『幸福論』は、嫉妬や野心や闘争心を捨てて身の丈に合った状況を受け入れよと説く。それは正論だろうが実現は容易でない。困ったことに、全面的な幸福を得るには聖人君子となるか、さもなければ徹底的に無反省となるしか方法はないのである」。「視野狭窄的な幸福、見せびらかすための幸福、自分自身を欺くための幸福、意趣返しとしての幸福、妄想としての幸福、安直な幸福、マゾヒストにとっての幸福、不幸の前兆としての幸福――さまざまな幸福が世の中にはある。究極の幸福といったものはおそらくないだろう」。

それでは、どうすればいいのか。「我々は幸福と無縁に暮らさねばならないのか? まさかそんなことはない。レディメイドの幸福ではなく、自分で見つけ出した幸福、しかも断片としての幸福を得ることで人生を送っていくのがもっとも妥当な方法ではないのか。断片としての幸福を点綴していくことで、かろうじて『この世もまんざら捨てたもんじゃない』と思える境地を目指すしかあるまい」。丸ごとの幸福、何から何まで幸福といった状態は幻想に過ぎないのだ。

著者の言う幸福の断片、幸福の片鱗とは、具体的にどういうものなのだろうか。「わたしは学生時代から、漂流瓶に関する新聞記事を蒐集している。何年かに一度くらいの割合で、手紙を封入したガラス瓶が大洋を渡って外国へ流れ着いたといったニュースが報じられる。それを切り抜いて集めているのである。特に理由はない。ただしこういった切り抜きを眺めていると、気持が落ち着いてくるのは確かである。レシート程度の大きさしかない切り抜きに、ぷかぷかと海を渡って行った漂流瓶の顛末が記されている――するとわたしは、漂流瓶という明瞭なイメージを出発点として、世界を組み立て直すことが出来そうに感じる。瓶が投げ込まれた海岸、手紙を封じた人物の感情、瓶が拾われた場所、拾った人物とその生活ぶり。家族。そういったものを介して、わたしを脅かさないような居心地の良い世界を想像力によって新たに構築していくことが出来る。少なくとも、出来そうな気がするゆえに、漂流瓶の切り抜き記事は安らぎをもたらすのである」。

「おそらく本当の幸福とは、さりげなく、淡々として、自然で穏やかな状態であるに違いない」。

著者は、散歩者の喜びについても語っている。「(散歩における)発見や思索は、まぎれもなく心に豊かさをもたらすだろう。そうした発見や思索が快感といえるほどの強烈な何かをもたらすとは信じられないが、静かな幸福感へとつながり広がっていくことだろう。騒々しい幸福、えげつない快感、安っぽい勝利感といったものとは違った喜びが、人生には明らかに存在する」。散策好きの私としては、全く同感である。

著者は、散歩についての思索をさらに深めていく。「大仰な言い回しに聞こえるかもしれないが、それは『世界の構造』を垣間見たという実感と、世界と和解するという予感とが混ざった感覚で、おそらく幸福と言い換えても良いものではなかったのかと思うのである。世界の構造、そしてそれを垣間見た実感とはどのようなことか。街へ通うバスの停留所がその道にあったことを知ったとか、そんなプラグマティックな話ではない。日常の事物にはすべて意味があるという感情を抱いたときに、取るに足らない日々の光景であろうとそれらのディテールは深いところで互いにつながっていて、たとえ秘められた関係性とか相関性を理解することは出来ないにせよ、すべてが尊重され大切にされるべきであると感じられる――そんな精神状態の別称である。角度を変えて言い直せば、どんなに卑俗でちっぽけなことであろうと、すべては詩となり得るだろうという確信のことなのである。いっぽう世界と和解するとは、自分がこの現実で生活を送っていくことを認め、その事実において世の中には嫌なこともあろうが楽しいことだってちゃんとあるだろうと希望を抱く心性を指す。・・・世界の構造を垣間見たという実感や世界と和解するという予感は、不意に訪れる。ただしそこには相応の準備状態が心の中に用意されていた筈で、むしろ潜在的な希求といったものだろうか。それに加えて、一見下らないものや無価値に映るものにも意味の奥行きを見出せるだけの想像力が必要だろうし、しばしばそうした想像力は閉塞感や絶望感によって活性化される。さらに、たとえ屈折していようともある種の素朴さ(ああ、そうだったのかと素直に驚く気持も含まれる)が必要な気がしてならない。なぜなら、詩的なものとは無防備なほどの素朴さに感応する存在に他ならないからである」。散歩は、世界の構造を垣間見たり、世界と和解する契機になるというのだ。

著者の考え方の基底には、「死」が横たわっている。「我々は、所詮は死を待つばかりの儚い存在でしかない。遅かれ早かれ訪れるであろう死を強く意識したとき、退屈な日常は濃密なものに変わり得るのではないか? ・・・凡庸や退屈こそが実は幸福を裏書きしているといった考え方があるいっぽう、絶望や恐怖があってこそ幸福は際立つといった考え方もまた成立してしまうところに、一筋縄ではいかない幸福論の難しさがある。そして幸福について論じたがる者に幸福な者などいないといった類の小賢しい警句がいくらでも思いついてしまうあたりに、我々自身の不幸が息づいている」。自分の死を切実に認識しているからこそ、限りある日々を真剣に生きたいと願う、そういう思いがあるからこそ、幸福の小さな断片に気づき、それを味わうことができるのだと、私は考えている。

執筆当時の著者がなりたいと述べている「老人」状態が、昨年9月末の企業人卒業以降、私自身に訪れているという現実に複雑な思いを禁じ得ない。「わたしはもはや仕事に行かなくても構わない自分、責任を負わなくても良い自分、時間に追われない自分、ノルマを課せられていない自分というものを存分に味わうための手段として、風邪をひいた老人になってみたいのである。もう、発熱でふらふらになりながら当直をしたり、鼻水を垂らしながら外来診察をしたり、だるさと眠さで倒れそうになりながら暴れる患者を説得したりせずに済む(著者は精神科医)。そうした喜びを、つくづくと噛みしめたいのである。『風邪をひいたわたし』とは、死や後遺症の恐怖とは無縁のままに、あえて自分を不自由な状態に置き、そのことと引き換えに過去の辛さや苦しさを反芻してみたり(ただし今はもうそんなものとは無縁だという楽しいオチがつく)、ほぼ時間が停留した状況において普段とは違う感覚や発見を味わう営みにほかならない。いくぶんマゾヒスティックな気もするが、これを楽しむ前に死ぬわけにはいかない」。

読書好きの友を持つ幸せを実感した私であった。