魔女の本領
現代にユートピアは可能か…

理想の村

 

『理想の村マリナレダ』


現代にユートピアは可能か?ユートピアとはどこにも存在しない所の意味ではあるが、その模索はいつの世にもある。そんな本、『理想の村マリナレダ』ダン・ハンコックス著 プレシ南日子訳 を読む。

殆ど奇跡としか言いようのないこの実在する村はスペインのアンダルシアにある本当に小さな村なのだが、この村を舞台に現在に至るある一人の指導者の下に結束した農民の強固な戦いによって、ユートピアが実現されたと言うのである。その村の名前がマルナレダというのであるが、スペインと言う国は、信じがたいことに未だに貴族による大土地所有が残っているのだそうだ。農民の困窮はひどく、餓死者が出るほどであったという。それが1970年代後半のことまで続いていたのだそうだ。スペインを語る際には当然スペイン内戦とフランコ将軍の独裁政治が前面に出る。しかし、フランコ死後のスペインについてはどうも、民主主義の復活や左翼政権の動きなどに興味が動いていて、実際の農村の悲惨さのような問題を読んだことがなかった。しかし、今回は初めて、フランコ死後においても大土地所有と農民の極貧状況は変わらなかったのだと知って、実は驚いた。そのアンダルシアの農村で農民解放に全精力をつぎ込んだのが、このユートピアの運動を牽引した主人公である。後村長となったサンチェス・ゴルディーヨである。その歴史は1970年代後半から始まる。

マリナレダの奇跡の第一部は、1970年代後半、極貧状態にありながら、ユートピアをつくり出すための戦いに乗り出したことだ。独裁者フランシスコ・フランコ将軍の死後、スペイン情勢は混迷し、泥沼状態がつづいていた。当時、マリナレダは60パーセントを越える失業率に苦しんでいた。農村でありながら耕せる土地がなく、住民は数日間何もたべられないこともしばしばだった。マレナレダの奇跡の第二部は、その後30年にわたり並々ならぬ努力を重ね、ついに勝利を収めたことである。努力と犠牲のたまものである成功への旅路を少し進んだ1985年、村長のサンチェス・ゴルディーヨは『エル・パイス』紙にこう語っている。

「われわれは、ユートピアはどうあるべきかを定義し、反動勢力と戦うだけでは不十分だということを学びました。今すぐここにユートピアを築く必要があるのです。長年の夢をかなえられるまで、忍耐強く、着実に一つひとつレンガを積み重ねていくしかありません。すべての人々にパンが行き渡り、市民が自由を手にし、文化を享受し、「平和」という言葉を尊敬の念をもって口にすることができるようになるまで。われわれはいかなる未来も現在に根ざしていると心から信じます。」

この運動はアンダルシアという土地柄によるものも多い。アンダルシアは昔から反体制的な農民が多く、フランコ将軍が体現していた中央権力に批判的で、1936〜39年のスペイン内戦でもフランコ将軍と対立してきたため、フランコ将軍はアンダルシアが荒廃しているのを知りながら喜んで放置していた。

独裁者死後の混乱の中、フランコ将軍の支持者と政的が政治の空白を埋めるべく策をろうしているあいだ、スペインの民主主義体制への「ラ・トランジション(移行)」に並行して、ほとんど小作農からなるマリナレダの貧しいコミュニティも独自の移行を模索しはじめていた。当時、スペイン語で「ホルナレロ」と呼ばれる、土地をもたない日雇い労働者の90パーセントは、一年に2カ月程度しか仕事がなく、その収入で家族を養わなければならなかった。

スペインがおもむろに独裁主義から自由民主主義へと移行しはじめたとき、マリナレダの人々は政党と労働組合を設立し、土地と自由を手に入れるために戦いをはじめた。その後10年間にわたり、絶え間なく闘争が続く。住民は空港や駅、農場や宮殿を占拠し、ハンガ―ストライキを行ない、道を封鎖し、デモ行進やピケを行ない、再びハンガーストライキを行なったが、そのかいなく繰り返し撃退され、逮捕され、裁判にかけられた。ところが驚くべきことに、1991年、彼らはついに勝利を手にした。彼らの反抗に疲れ果てた政府は、スペインでも特に長い歴史をもつ裕福な貴族、インファンタド公爵の土地1200ヘクタールを彼らに与えたのだ。

農民自身の思考性がアナキズム的であったことに加えて、サンチェス・ゴルディーヨの哲学も又独特であった。たんなる組合主義ではなかったということである。1980年に出版した著書『Marinaleda:Andaluces,levantaos(マリナレダーアンダルシア人よ、立ち上がれ)』をはじめ、いくつものスピーチやインタビューで語られているように、サンチェス・ゴルディーヨの哲学はアンダルシアの小作農の村が繰り返してきた歴史的闘争と反乱や深く染みついた無政府主義的傾向に根ざしてはいるものの、彼独自のものである。これらの共産主義者がストライキを行なうのは、彼らが単に反権威主義だからというだけでなく、あらゆる権威に反対しているからだ。2011年のインタビューでもはっきりとこう述べている。「私は鎌と槌の旗を掲げる共産党に所属したことはありませんが、それでも共産主義者あるいは共同体主義者であることは確かです」。政治理念としてはイエス・キリスト、マハトマ・ガンディー、カール・マルクス、ウラジミル・レーニン、チェ・ゲバラの影響を受けていると付け加えた。

この猥雑な政治理念が、アンダルシアの農民の無政府主義的傾向にマッチしていたようだ。運動のメインは、土地は耕すものの為にあると言う単純明快なものである。そのために1980年には700人が9日間のハンガーストライキを決行している。また80年から86年にかけて貴族のインファンタド公爵の土地を100回以上にわたって占拠している。その行動のために農民は排除されてはまた一日20キロの道をかけて占拠に通うという運動を続けている。このような運動にゴルディーヨは常に先頭に立ち、かつ社会を動かすためのプロパガンダを非常にうまく利用したということである。戦略と戦術に長けていたというわけである。この運動は自治政府を動かすこととなり1991年アンダルシア自治政府の肝いりでインファンタド公爵の土地1200ヘクタールが村へ委譲することが決定された。これには公爵の側にも何らかのうまみがあったことが考えられるが、公爵にどれだけの金額が支払われたかは公表されていないようだ。

とにもかくにも、1991年に1200ヘクタールの土地が手に入るやいなや、人々は耕作をはじめた。新しいマリナレダの協同組合はできるかぎり多くの雇用を創出するため、労働力を最も多く必要とする作物を選んだ。辺り一面にオリーブの木を植え、オリーブオイル工場を建てただけでなく、さまざまな種類のパプリカやアーティチョーク、ソラマメ、サヤインゲン、ブロッコリーも餓えた。どれも加工して缶詰や瓶詰にできる作物だ。そのため加工工場を建てる名目ができ、マリナレダの第二次産業を取り戻し、さらなる雇用を生み出すことができた。「私たちの目的は利益を生み出すことではなく、雇用を生み出すことでした」とサンチェス・ゴルディーヨが説明している。この哲学は「効率」を重視する後期資本主義と真っ向から対立する。新自由主義者たちは「効率」という言葉をほとんど神聖視し、恥ずかしげもなく使っているが、この言葉がほんとうに意味しているのは、人間の尊厳を株価という祭壇に生贄として捧げることである。

「土地は働かない貴族の手ではなく、それを耕すコミュニティのものであるべきだと私は信じています」だから大農場の所有者たちは小麦を植えるのだと言う。小麦は機械で収穫できるため、労働者が数人いれば足りるのだ。マリナレダがアーティチョークやトマトを育てているのは、まさに多くの労働力を必要とするからだ。彼らの論理によれば、社会は人々の生活を犠牲にしてまで「効率」を最重視する理由などないのだ。

マリナレダの協同組合は利益を分配せず、黒字が出た場合はすべて新たな仕事をつくるために再投資される。また、協同組合のメンバーは全員同じ額の給料をもらう。一日6時間半働いて47ユーロ(約6500円)だ。これはたいした額ではないと思うかもしれないが、スペインの最低賃金の2倍以上に相当する。耕作する作物の種類と作付の時期を決める際には労働者の意見も積極的に取り入れ、村の総会の主要議題となることもある。こうしたことからも、協同組合員が村全体の機能において重要な役割を担っていることがわかる。

これが一段階目に成功したマリナレダの村の姿である。その村の姿はなかなかユニークで、通りの名前は19世紀の無政府主義者の名前やフランコ将軍に暗殺された者の名前やチリのアジェンデの名前やガルシア・ロルカ、詩人のパブロ・ネルーダやアントニオ・マチャドの通りもある。そして白い壁には見事に描かれた壁画やスローガンが書かれているのだそうだが、ちょっと驚いたが、その中にはなんと、キューバの私の専門のホセ・マルティの壁画があるのだそうである。それには「自由は請うものではない」と言うスローガンが書かれているのだそうだ。ほかにも、「同性愛嫌悪反対」やパレスチナやカタロニア自治州、ペルー、バリョカス(マドリード労働者階級居住地)、コロンビアとの連隊を呼び掛けるものやここにもゲバラの壁画もあるんだそうだ。しかし、もっとも重要なものは村が成り立つことになった行動についての壁画で、1980年に行なわれた有名な土地占拠の様子だ。村民は本来自分たちのものであるべき土地を占拠して、アンダルシアの土地所有権の平等を訴えた。マレナレダ村民は手をつないで一列に縦隊となり、彼らの運命を握る、村から離れた農地まで行進したときの歴史の壁画であるという。

勿論、このユートピアの村は経済的に完全な自立が計られているわけではなく、自治州からの補助金も得ているが、その割合が常に他の村に比較しても高くはなく、最終的にゴルディーヨの判断で警察官すら排除しているのだそうだ。

この村が再び脚光を浴びたのは2010年の欧州債務危機の時で、村の危機であると共にスペイン全土の危機であった。特に債務による失業と住宅を失う貧困層の増大はスペインにおいて2011年5月15日、首都を中心の大規模な抗議行動が占拠が起こった(後に15M運動と言われ、アメリカのウォール街を占拠せよという運動につながることになる)。この時、マリナレダは運動の一つの理想のように歓迎されたことで発言力を強めた。2011年全般にわたり、サンチェス・ゴルディーヨはテレビや新聞、アンダルシア議会などで、ことあるごとに「資本主義の引き起こした危機によって、スペインの人々が不当に犠牲になっている。マリナレダのように今こそ抵抗するときだ」と訴えた。

ゴルディーヨの指揮の下に、スーパーマーケットから食料品を収奪し、貧民に配給したのである。いかにもやり方がむちゃくちゃであるが、彼は計画を練って、これを報道させて、問題の在りどころを社会に訴えた。その結果、この行為は以外にも決して左寄りとも言えない有名紙『エル・ムンド』紙の世論調査でも54パーセントの支持を得たのだそうだ。

サンチェス・ゴルディーヨが奇襲に成功した一因は、自己権力の拡大を拒否し、この奇襲について大袈裟に語ったことにある。実際のところこれは「行動で訴えるプロパガンダ」であり、彼はメディアにこう説明した。「私たちはこうして注目を集めなければなりません。人々に立ち止まって考えてもらうためです。ここの人々が必死になっていることを理解してもらわなければなりません」

マリナレダをめぐり一カ月続いた騒ぎが一段落するころ、収用は数ある行動パターンの一つと見なされやすくなっていた。危機下で必要に迫られ、人々はさまざまな手法で日常的に反資本主義抵抗運動や新しい対処行動(とそれほど新しくない対処行動)を行なうようになっていたが、そこに収用と言う人目を引く方法が加わったのだ。バルセロナに拠点を置く社会学者カルロス・デルクロスは、このスーパーマーケット襲撃を「公共政策の修正」と読んでいる。スペイン民主主義および資本主義の中核をなす正当性が揺らぎ、それらの対象となる人々による積極的介入が必要となったということだ。彼はこう記している。「民主主義とは『人民の力』であることを決して忘れてはならない。民主主義の欠如を正すとは、底辺の人々がこの力を行使し、抑圧構造の亀裂に入り込み、地下茎がコンクリートを突き破るように、この亀裂をこじ開けることを意味する」

このようにして、現在に続くユートピア、マリナレダなのであるが、本当の現在の姿が実は見えないのである。それはある種の新自由主義に反対するスーパースター的に露出することが多くなるにつれて、反体制の星としてTシャツに描かれたり、音楽が作られたりするようになる。それと反比例するように、ゴルディーヨが姿を現さなくなったのである。この本の筆者がインタビューの為接触を図っても、出来なくなってしまう。病気ではないかと言われるが、明確ではない。そこから、このユートピアが継承出来うるのかが非常に興味深い点として表面化するのであるが、結論は書かれていない。

すべてのユートピアは夢でしかないのか?強力な指導者に何らかの問題が生じた時、その本質的な部分を誤りなく継承できるのか?マリナレダは大地の子である農民たちが自力で獲得した自治の村として、次世代へユートピアを継承することができるのか、とても気になるのである。夢よ醒めないでほしいと願うのである。

魔女:加藤恵子