魔女の本領
大拙と社会性から逸脱する息子…

ブギウギ大拙

『東京ブギウギと鈴木大拙』


東京ブギウギと鈴木大拙って何の関係があるのだ???と思い、つい買ってしまった本。

『東京ブギウギと鈴木大拙』山田奨治著を読む。

こんなに長く生きていたって、知らないことの方が多いのは当たり前だが、これはかすりもしないで知らなかった。勿論、鈴木大拙は知っているし、少々の本も読んではいる。彼の奥さんが外国人であったことも知っている。しかし、子供がいたことは全く考えてもいなかった。その子供(後に述べるが実子ではない)、鈴木アラン勝と大拙の親子のあまり楽しくない、もっと言えば不幸な関係が書かれたのが本書である。

このアラン勝が戦後歌謡曲で爆発的にはやった笠置シズ子が歌った「東京ブギウギ」の作詞者であるというのである。それに至る過程と大拙とのせめぎ合いが描かれているのであるが、実はこのアラン勝についての史料はほとんど残されておらず、僅かにアランが棄てた女性の子供を大拙が資金援助して成人させていて、その証言があるのみのようなのだ。これまでの大拙についての著書は大拙の偉大さを損ねるこの不肖の息子について、ほぼ無視してきたために大拙がアラン勝を絶縁したかのようにして、葬ってしまったということのようである。

アラン勝は戸籍上は大拙の実子として記されているが、実際はだれの子供であるかももはや確かめようもなく、長年大拙家に仕えた女中さんがどこからかもらいうけてきた混血児である。写真を見ると非常なハンサムで、ヨーロッパ系の混血である。このアラン勝を大拙夫妻は決して粗末にしたわけではなく、丁寧に育てようとした形跡は大拙の日記から分かるのだそうだ。しかし、戦前に混血児の置かれた環境は子供にとってどれほど苛酷であったかは想像がつく。大拙は当時の家庭の父親像とそれほど違わなかったようで、かなり厳しく対処したようで、その点での親子関係の複雑な様相は現代に通じるだろう。大拙が偉大な学者であったことと、自らが実子ではない(アラン勝にその事を伝えたのは成人してかららしいが、本人は早くに知っていたようである)ことの溝、さらに、大拙が自身の親類縁者に対してかなり寛大に金銭的援助をしていながら、アラン勝にたいして、経済的にも厳格であったことなどが、アラン勝の青年期の逸脱へと結びついたようである。しかし、アラン勝の行動をみると、どうも現在なら別の見方が出来るような気がした。所謂特殊な才能があるが協調性に問題がある次元の子供である。アラン勝は大拙夫妻の下で育っており英語・日本語のバイリンガルであった。この素養を伸ばす機会は現実にあった。かなり昔になるが日米学生会議と言うのが、日本とアメリカの交互で行なわれていて、優秀な学生が参加していて、後に著名な方々を輩出した。日本で言えば宮澤喜一(夫妻)、三菱銀行副頭取を務めた山室勇臣、三菱商事副社長を務めた苫米地俊博、元大徳寺龍光院住職小堀南嶺等がいるし、時代が下がればキッシンジャー、猪口邦子、茂木健一郎もいるという超エリートのコースなのであるが、アラン勝はこのメンバーとして1935年、36年の2回メンバーとなっていた。本書の著者の評価では多分語学力が買われた人選ではなかったかとしている。ただ、興味をそそられるのはこの会議でアラン勝は大拙の研究テーマである禅に触れた発表をしているということである。アラン勝にとって決して大拙から逃げる意図はなかったのではないかと言うことであるが、自ら大拙に学ぶ姿勢はなく、学問からは離れて行く。この日米学生会議で知り合った東京女子大学の女性と最初の結婚をすることになるのであるが、なぜか大拙夫妻がこれを許さなかったことで、アラン勝との関係は一気に不仲になったようだ。しかし、アラン勝はその結婚中にもダンスホールを遊び歩き歌手の池真理子と親密になったり(この女性とはかなり後に再婚することになる)、別の女性を妊娠させてその始末に大拙が1938年当時200円の金を出しているという。

大拙はアラン勝の最初の結婚に出席もしなかったということであるが、いったい大拙にとって禅を世界に広めることの重要性ということがすべてに優先されたとはいえ、実生活を一切省みないこととの整合性はあるのだろうか?そこにアランの根本的な不信感があったのではないかと思える。大拙の日記については実際の内容は知らなかったが、英文で書かれていて、殆ど日常の備忘録で研究の内容や考え等は書かれていないと言うことである。また夫人のビアトリスの日記については公表されていないため、現時点で夫人がアラン勝にどう接し、どう悩んだかについては全く分からない。

戦時中アラン勝はジャパン・タイムズ勤務を経て同盟通信社に努めて上海に赴任した。上海で彼は所謂租界でジャズやダンスホールの音楽に触れたのであろう。私が上海を思い浮かべるのは、実体験ではありません、勿論。アングラ演劇の自由劇場の「上海バンスキング」を何回も見に行ったからである。吉田日出子主演で、大ヒットした。それは役者がみな楽器を演奏するというかなり楽しいものであった。現在あちこちの芝居で有名になっている方々の若かりし頃である。多分アランが触れたのはそんな上海であったのであろう。それが終戦後、突然の「東京ブギウギ」の作詞者としての登場と言う事なのである。作曲者の服部良一とは上海で接していた可能性はある。1945年にはアラン一家は引き揚げている。この頃から、英文雑誌「スポットライト」の編集・記者として働いた。このころ、戦前に知り合っていた歌手の池真理子と再会し、後に妻子を捨てて再婚している。さて、「東京ブギウギ」であるが、服部の回想によると、作詞はアラン勝にはなっているが服部との合作で、アランの作詞部分はほとんどないらしい。本書の作者は無理やり2番の「ブギを踊れば 世界は一つ おなじリズムと メロディーよ」の部分が大拙の東西文化が相互に分かり合う事を願っていた。その東西融合を意識したのではないかというように書いているが、まーこれは無理なこじつけだろう。大拙はといえば完全無視。当然だろうとおもう。禅研究に没頭する大拙がブギを踊れるわけはない。

アランはその後妻の歌手の真理子の為に「ボタントリボン」また別の歌手の為に「ベサメ・ムーチョ」の訳詩を手がけていると言うことである。しかし、その直後、またしても真理子と生まれたばかりの女児を捨てて、式場美香子と言う女性と結婚してしまう。真理子はその後アメリカにわたりジャズを学び活躍したそうである。当時大拙はコロンビア大学の客員教授になっていて、身元引き受け人となったりして支えたようだ。

そのような放蕩息子と大拙の関係はたしかに大拙の弱みを見せない姿に隠されていて、本当はそれでも禅へ没入することとは何なのだという問いに行きつかないもどかしさだけが残るのであるが、以外にも大拙の禅がアメリカでどのように受け入れられたかについては面白い。それはまず最初に女性雑誌「マドモアゼル」に取り上げられたのが始めなのだそうであるが、決定的だったのはやはりビート世代が飛び付いた点である。アレン・ギンズバーグ、ジャック・ケルアック、ゲーリー・スナイダー。フィリップ・ウェーレンといった詩人・作家たちである。最も直接的に影響を表明したのは作曲家のジョン・ケージである。西洋の若い芸術家や哲学者、心理療法家などが禅に反応することで、大拙は自信を深めた。この頃大拙80歳。そしてそこへ15歳の岡村美穂子という少女が現れた。両親は日本人でアメリカ生まれである。大拙の秘書として最後まで従うことになるが、いわば大拙が穏やかな人間性と言うものに反応したのはこの少女の純真な心からではないのかと思う所がある。当時のアメリカでの大拙の取り上げ方が書かれている部分はなかなか面白い。「ニューヨーカー」の記事や、ケルアックが大拙を訪ねた時の光景や問答。大拙がお茶や俳句について触れたことにたいするケルアックの反応など。

しかし、結局ビート世代と大拙との蜜月は続かなかった。規律を重んじる禅と社会を破壊するような言動や行動にうごくケルアックらは一気に熱が冷めて禅本来の文脈に残る人は少なかった。

アランの名前が週刊誌を賑わせたのは1961年で女性を監禁暴行し、女性が飛び降りてけがをする事件を引き起こした。当時の新聞・週刊誌を大いに賑わせた。読売新聞1961年の広告欄の「週刊新潮」の見出しが出ているが「昭和最大の不肖の息子」である。大拙はこれに対して「40を過ぎた一人前の人間である。親でもとやかく言えるものではない」という談話を出したようである。

大拙と社会性から逸脱する息子の関係は、特殊ではないだろう。このような親子はざらにいる。親の偉大さに押しつぶされ、自己実現を果たせないままに生涯を送ることになったアラン勝の淋しさの方が心に響く。

本を読み終わった時、私は自分の父との会話を思い出して笑ってしまった。父は全く生活力のない遊び人で常に母から罵倒されていたが、母の愛情は私に向けられたことはなかったが、この父は私を常に抱きしめるようにして愛情を注いでくれたのである。その父が言った。「おまえは生きるのがたやすいぞ。俺を越えるのはすごい簡単だからな。頑張らなくたっていいぞ。おまえはおまえのままで十分俺を越えるから」と言ったのである。父の戒めにもならない忠告にもならない言をまもったおかげで、私は全く努力もしないダメ人間で終わりそうだが、「お父さん、ありがとう」

付記:大拙の妻ビアトリスとその母親についての記載がかなり面白かった。夫人は大拙支持者には好意的に書かれていないようなのであるが、ビアトリスはベジタリアンで、動物愛護も徹底していて、犬猫も菜食主義であった。そのためか、料理が異常に下手だった(笑)、しかし彼女は神智学に強い関心を持ち、クリシュナムルティの例会を自宅で行なっていたりする点から、大拙と神智学との関係も無視できないだろう。またその母エマ・アールスキン・ハーンは多彩な人物で、社会問題を論じ、農場を経営し、ロシア文学を講じ、医学の博士号を持っていたそうで、動物実験に反対し、動物愛護運動をした人物だそうである。エマは日本に来日し大拙夫妻の身近に暮らし、京都で亡くなったという。もっと光が当てられるべき女性のような気がした。

魔女:加藤恵子