情熱の本箱
巨大化した妻が、大量に食べ、飲み、大量の糞尿を垂れ流し、悪臭を撒き散らす:情熱の本箱(80)

臣女

巨大化した妻が、大量に食べ、飲み、大量の糞尿を垂れ流し、悪臭を撒き散らす


情熱的読書人間・榎戸 誠

臣女(おみおんな)』(吉村萬壱著、徳間書店)は、フランツ・カフカの『変身』を迫真性において遥かに凌駕する摩訶不思議かつ不気味な小説である。迫力ある光景のみならず、「私」の妻・奈緒美の成長する骨が軋んで立てる音が、彼女が排泄する膨大な量の便の臭いが、吐く痰の強烈な悪臭が読む者の五感に襲いかかってくる。

「その夜から、骨が鳴り始めた」。それは、奈緒美が30歳の時、深夜3時過ぎに帰宅した私が彼女から責められ、10ヶ月に亘る不倫を遂に白状させられた夜であった。

「何も喋らず、食べず、排泄もせずにひたすら寝た切りだった奈緒美が、発症5日目に突然口を開き、『御飯』と言った。その一言は、安易な敗戦を断固として認めず、果てのない苦役を告げ知らせる不気味な宣戦布告の喇叭だった。その日から奈緒美は盛んに食べ始め、排泄し、眠り、喋り、動き出した。そして発作も起こした。彼女の症状が単なる背骨の痛みではないと分かってくると、救急車を呼ぶなと言った意味も分かってきた。自分が普通ではない事を、最初から感じていたのだろう」。

「発症から3ヶ月余り。・・・こちらの働きかけに対する反応は鈍く、声を上げて笑う事も殆どなかった。それが巨大化に伴う反応の鈍麻なのか、夫の不倫に起因する鬱状態によるものなのかはよく分からない。恐らくその両方だろうが、身体の著しい変化に比べて、人格的には殆ど元のままの奈緒美を保ち得ている事は不幸中の幸いと言えた」。

「巻尺の先端を爪先にガムテープで固定して計測してみると、身長は3メートル42センチに伸びていた。成長の速さに驚かざるを得ない」。

「奈緒美の身体に明らかな変化が生じているのを認めざるを得なくなった時、(不倫相手の左江)敦子の存在が想像以上に彼女を苦しめていた事がはっきりした。激痛による朦朧とした意識の中で奈緒美は『さえ、あつこめ』と言い、その後初めての発作が起こった」。

「奈緒美の身長は4メートルになっている」。

「人間が巨大化するとはどういう事なのか、そんな事がどうしてよりによって奈緒美の身に起こっているのかというその理由や意味を考え始めると、頭がおかしくなりそうになる。そして、この怪現象に私自身の存在はどの程度関わっているのか、少しでも責任があるのかないのかという事を度々考えては、その度に行き詰まった。私は何のために奈緒美を家の中に隠し、苦しめ続けているのか」。

「身長4メートル35センチ。体重不明。足のサイズ84センチ。・・・呼気に異臭あり。頸動脈の部分的隆起と、血管ののたくり。耳の孔の中に蛆虫様の寄生虫。頭皮に蜘蛛の巣のような白い糸が広範囲に分布。・・・全身に亘る骨格の歪み(右半身の骨の成長が左半身より速いため)。皮膚全体に紫斑、粉吹き、湿疹、虫の寄生、掻き傷。性器の肥大。肛門括約筋の緩み。臀部の皮下に黒っぽい寄生虫の影。・・・顔の歪みのせいで噛み合わせが悪く、まだ固い物は食べられない。ミキサーで砕いた野菜と生肉に牛乳や水を加えたジュースを、経口で流し込んでやると盛んに嚥下する。自力での移動が難しく、糞尿は垂れ流し状態。布団シーツを巻いてオムツにしているが、後処理に多大な労力を要する。日に5回から7回、紫色の粘膜に包まれた痰を吐き出す。1回に洗面器半杯ほど。強烈な異臭あり。顔を横に向けて、自分で洗面器の中に吐く事が出来る。左腕は比較的動く。右腕や下肢は麻痺が残る。会話は今のところ難しいが、こちらの質問に対しては頷いたり首を振ったりする。絶えず骨が鳴り、肉が膨れ上がる。その度に痛むようだ」。

「異臭が酷い時の、窓という窓を全開にしたいという衝動。絶えざる呻き声に心が抉られ、奈緒美が発症したのは矢張り自分のせいなのだ、という自責の念に潰されそうになりながら、しかし心のどこかに、全てが終わってしまった後に書けるかも知れない小説の大きさをこっそり測っている自分がいる」。私は、5年前に新人文学賞を受賞したものの、高校の非常勤講師をして食い繋いでいる、売れない小説家なのである。

「奈緒美は更に大きくなり、転がり回って和室の磨りガラスを叩き割るほどの悶絶を経て4メートル68センチになっている。来る日も来る日も食べては出し食べては出しの繰り返しで、それで得られるものと言えばただ骨の軋む音と苦痛だけであった」。

「廊下の長さを超えてしまっている事から、奈緒美の身長が5メートル以上になったのは間違いなかった。風呂場の中に頭を突っ込むのがやっとで、それももう完全には入らないのである」。

問題は、妻の奇病というか難病というか、世にも恐ろしい病状と、その介護の苦労に止まらない。酷い異臭がすると我が家を監視する隣人たち、私事をしつこく詮索してくる同僚教師、息子夫婦の秘密を暴かんと強引に訪問してくる母――が私たち夫婦を極限まで追い詰める。

この著者の作品に接したのは本書が初めてだが、日本にも大変な才能の持ち主が存在していることに驚愕した。