魔女の本領
一人一人の心にジェロニモを思い起こす時…

ジェロニモ

『ジェロニモたちの方舟 群島・世界論「叛アメリカ」篇』


今現在、喫緊の課題である「叛アメリカ」は可能か?
『ジェロニモたちの方舟 群島・世界論「叛アメリカ」篇』今福龍太著 を読む。

著者である今福は人類学者であり詩人でもある。彼は大陸が描く「歴史」を裏返し、群島によって語られる歴史を方法として提示してきた。大部の「群島―世界論」がそれであった。彼のこの群討論とは、大陸の正史がともかくも時間的にも地理的にも継続、あるいは連続として記されるのに対して、そこから除外され、あるいは反抗する「歴史」は偶然で、偶発的な要素が時空を飛び越えて流れている。「群島の側から語られる歴史=記憶=痕跡とは、時間や経験の矛盾、衝突、錯誤、逆転、彷徨、漂流といった思いがけない動きが生み出す無数の関係性によってつき動かされてきた複合体なのである。そうした非正当的で対抗的・撹乱的な歴史の動因をあえて「叛史」ととらえ、それを、「アメリカ」と呼ばれることになった、ほしいままな力の原理に対する叛乱・抵抗・批判をめぐる系譜としてえがきだそうとしたのが本書である」とこの本のメインテーマを明確にしている。この目論見は見事に成功したと言える。アメリカという国家の膨張主義の原点から始まり、最終的には核の世界における箱舟の中のノアの悲しみを描いたことで、叛アメリカの意義あるあり方と、核世界の悲惨さを食い止めることに目覚める必要性に至る本書は極めて現代的な世界史への挑戦の評論となっている。

叛アメリカ論がインディアンとの戦いから書き起こされ、グアンタナモの刑務所の存在する歴史。当然それはキューバとの関係があり、さらにハイチ独立の起爆となった黒人奴隷の反乱の指導者トゥサン・ルヴェルチュールの不屈の戦いと挫折。そして2世紀を隔ててのクーデターによって倒され、アメリカの支配下に苦しめられたハイチに亡命から帰国するジャン=ベルトラン・アリスティドを迎える熱狂的な民衆を描いた。この時オバマ大統領やクリントン国務長官はこれを阻止するために各方面に働きかけたということである。

この民衆の熱狂的歓迎にアリスティドは「愛のツナミによって迎えられた」と評したという。それは僅か一週間前の日本の東日本大震災の津波の惨状を深く心に受けとめた上での表現であった。さらに群島はテニアンに飛び、人工的に無人の島とされ、グアムが米西戦争によりスペインからアメリカへ割譲され太平洋戦略の要となったのにたいして、テニアン、サイパン、ロタを含む北マリアナ群島はドイツに渡り、第一次戦争のドイツ敗北後日本の委任統治領となる。そこに日本が作ったハゴイ飛行場が1944年アメリカ軍に占領されここから日本の広島への原爆投下の爆撃機が発進したのである。

さらに再度ラテンアメリカへ飛び、チリの9・11、今や誰でも知っているのだがアメリカCIAの支援の下ピノチェットの軍事クーデター。詩人ネルーダの死(癌ではあったが、クーデター23日後に亡くなっている)。そして民主化された現在、ネルーダの死が暗殺ではなかったかということで、2度にわたって遺骨の鑑定が行われている。チリの民衆は決してピノチェットを許していないし、アメリカを受け入れてはいない。この章に置いて印象的なのは、アジェンデ政権によってアメリカの政治・経済・文化的な「属国」からの離脱を目指した時期にベルギー人社会学者アルマン・マトゥラールとアルゼンチン人でチリに住んだアリエル・ドルフマンの共著『ドナルド・ダックを読む』という本のことである。

私もほとんど考えもしなかったが、この本は「ディズニー」という20世紀のアメリカン・イデオロギーのもっとも強力な文化的駆動装置のもつ帝国主義的な悪意を、「ドナルド・ダック」の無邪気を装ったアヒルをめぐる物語と人間関係の分析し、断罪した本なのだそうだ。うかつであった。アメリカの文化戦略についてほとんど考えてこなかったからだ。アメリカの政治に叛を突きつけて居ながら、苦もなく「ディズニー」を受け入れることの危険を思い知らされた。そしてアヒルで連想が働いたのである。今テレビで毎日流されるアヒル。アフラックという生命保険会社は日本の保険会社をTPPによって押しつぶすための先兵としてのアメリカの会社なのである。この本はネルーダの本と共に、ピノチェット政権下で焚書処分の筆頭に挙げられたのだと言う。

再び飛んで、ブラジル。ここで描かれるのは20世紀の近代化を達成しようとしたブラジル国家の政治理念を脱植民地化するために民衆詩と演劇に活躍したネルーダの盟友でもあったブラジルの詩聖、民衆詩人ヴィニシウス・ジ・モラレスである。彼は「ヒロシマ」の悲劇を「ヒロシマの薔薇」として歌った。原爆の惨禍を被爆した薔薇の姿に喩え描き出し、その破壊にたいして深く憤り、薔薇に刻まれた人類にとっての聖痕を重く受け止めたのである。地球の裏側でこんなにも深く「ヒロシマ」を思っていた詩人の詩である。

「赤ん坊たちのことを思え/遠くから操られ 声をなくした彼らのことを/子供たちのことを思え/誤りによって 光を失った彼らのことを/女たちのことを思え/混乱に疲れ果て ぼろぼろにされた彼女たちのことを/傷のことを思え/薔薇のように熱く燃える傷のことを/けれどそう 忘れてはいけない/薔薇の中の薔薇のことは/ヒロシマの薔薇のことは/それは放射性の薔薇/愚かで無効の薔薇/硬くなって病んだ薔薇/それは原子でできた反―薔薇/色もなく 香りもない/薔薇ではなく なにものでもない」

この詩を漫然と読めない。それは今や福島の原発により状況は同じになっているからだ。この詩人の想像力を見習わなければならないだろう。この詩人が書いた劇作が『コンセイサンゥのオルフェウ』という黒人劇だそうだ。しかし、この演劇の一部が有名な映画「黒いオルフェ」になっている事には驚いた。私はブラジルの貧困について、あの映画で描かれた山にへばりついた貧民屈、ファベーラを初めて知ったのであり、それが現在もなお続いている事を知っているのである。

またこの詩人とアメリカとの関係に驚くこともあった。それは1942年、若きヴィニシウスと処女作「市民ケーン」で華々しく登場した26歳のオーソン・ウエルズの出会いである。オーソン・ウエルズはアメリカの国策でブラジルに派遣されていたのであるが、彼は直ちにブラジルの黒人の文化、身体性、踊り、声や動きに未知の可能性を感じ、すばやく同化したようだ。そして、ウエルズは紋切り型のカーニバル映像とは異なる映像を残した。それは素朴な漁師4名が、労働条件の改善と引退後の年金の保証をもとめて大統領に訴えるべく北から筏舟で概要を乗り越え、大統領に要求を果たさせたという事実を再現映像にした「筏の上の4人」である。写真が掲載されているが、素晴らしく美しい。しかしこの映像にはブラジル大統領も、政府も勿論、アメリカ政府も金主であったロックフェラーもコミユニストとレッテルを張り、妨害した。結局予算を断たれ、映像は完成していたものの、フィルムは失われていた。それが1993年に発見されたのである。アメリカなるものへの反乱としてブラジル黒人の姿を描こうとしたウエルズの精神はアメリカの内部に僅かに残った叛アメリカの魂であった。

そして、フィリピンへ。フィリピンはスペイン領であった。そして米西戦争でのスペインからアメリカへと移った国である。その経緯の中で、これも全く初めて知ったことであるが、アメリカの作家マーク・トウェインが晩年にアメリカの大義なき侵略戦争としてその帝国主義的不正義に激しく批判をした文章を書いていた。その事は全く思いがけないことであった。トム・ソーヤとハックルベリ・フィンという児童文学でアメリカ小説の父のアメリカと言う国の不正義への義憤は覆い隠され忘れられてきた。彼は「アメリカ反帝国主義連盟」の副会長として過激に活動した。しかし彼の文章は出版を拒否され、僅かに死後13年に編集された本には見事にこの反帝国主義の言説は切り捨てられたものとして出された。やがて1960年代末から70年代初めにヴェトナム戦争での不条理や干渉戦争がアメリカ本土に反戦運動を巻き起こした時になり、トゥエンの「戦いの祈り」はパンフレット化して蘇ったのである。

さて世界を一周して出発点に戻ってみよう。なぜジェロニモなのか?

著者は2011年5月全世界のメディアにジェロニモの名前が踊ったと書き起こしている。それはパキスタン北部で米軍海兵隊特殊部隊がアル・カーイダの指導者ウサマ・ビン・ラディンを殺害した。その作戦の暗号コードが「ジェロニモ」であった。この名前の寓意が著者を強く刺激した。このアメリカの短絡的な命名に対して全米のインディアンたちは抗議の声をあげ、アメリカの敵として再び名指しされたジェロニモの名称の名誉を回復しようとした。しかしその行動はアメリカ国民として今やインディアンたちが国民として貢献しているという視点からの抗議であった点にジェロニモの本来の叛アメリカ性が欠落している事に今福は歴史の本来的意味が消え去ってしまったことに意識を集中して、彼の「群島論」と絡みあわせて、ジェロニモの本来の姿からこの世界の読み直しを図ったというわけである。特に強く意図されたことは、アメリカと言う国の膨張主義は国の外へと始まる以前に、インディアンを西へ西へと掃討し、強制移住させることから始まったという視点である。その中でジェロニモだけが定着を拒否し移動を続けゲリラ戦を続けたと言う点が特徴的であると捉えられている。その戦いの姿が対アメリカの各地、各国で、詩人、政治家が叛アメリカの精神を飛び飛びに引き継いで行った歴史が本書で記されている。

最後の反乱者として今福はユダヤ系哲学者ギュンター・アンダースをあげ、その『終わりの時と時の終わり』をとりあげている。核による破壊的な未来に対して現代のノアの預言が聖書同様に嘲笑され、無視されている現状に警告を発している。「起こるかもしれない、という漠然とした不安を現実において打ち消すために、起こってほしくない、と願うことだけでは、人間は方舟に乗りこむ資格を得ることはできない」と。今福島の原発事故を些かも反省せず、原発を再稼働しようとしている我が国の無関心な者たちへの強い警告である。

私たちはアメリカの帝国主義的姿に日々接している。しかし見ないふりをすれば穏やかに生活が送れる事態は過ぎた。戦争の危機も見えている。一人一人の心にジェロニモを思い起こす時なのかもしれない。嫌な時代になったと思う。

魔女:加藤恵子