魔女の本領
なかなかやるじゃんー…

ハード室町

『世界の辺境とハードボイルド室町時代』


網野善彦先生亡き後の日本史の本に魅力が全然なくなっていたのであるが、なかなかやるじゃんー。の本。

多忙すぎて、本が読めない。抗議に出る途中の電車の中でしか、読書時間が取れない。そうすると、どうなるか?本の角を折るということになり、本の神さまにごめんなさいである。そんな本『世界の辺境とハードボイルド室町時代』高野秀行・清水克行(対談) を読み飛ばす。

両者を全く知らなかった。高野は早稲田大学の探検部出身のなんだかあちこち放浪していて、『謎の独立国家ソマリランド』と言う本で有名なノンフィクション作家で、清水は明治大学の教授なのだが、その講義に受講者が殺到する有名人らしい。その上NHKの「タイムスクープハンター」なる番組の歴史考証を担当する日本中世史の学者なのだそうだ。この両者が辺境に興味があると言うだけの関係で飲み屋で喋り倒したのを本にしたというのだが、まー半分は嘘だと思うが、教科書で教えられる歴史というものより、実はこんなふうに考えられないかという見返り美人的に反身で歴史を見直すと、嘘かも知れないと思いつつ、真実はこっちかもと思わせられる楽しみはある。

その前に、私は全く誤解していたのであるが、ソマリアといえばいまはかなり沈静化しているが一時期海賊で有名であった。日本のシーレーンの死守するためという「安保法制。集団的自衛権」行使の理由にされたソマリアである。

これに対して、ソマリランドとは何だ?「これだ」というのがいまやシールズの定番コールになっているのであるが、ソマリランドとはソマリアとはとんでもなく違う民主主義国家なのだそうだ。旧ソマリアから独立した共和国で、国際的には国家としては承認されていない。

1960年、イギリス領ソマリランドが独立し、5日後に南部のイタリア信託統治領ソマリアと合併し、ソマリア共和国となった。91年、バーレ政権が崩壊すると、ソマリランドは独立を回復。一時、武装集団が跋扈する状態になるが、独自に内戦を終結させ、複数政党制・大統領制による民主主義国家に移行したのだそうだ。ソマリ人とはアフリカの東端、「アフリカの角」と呼ばれる地域に住む民族で、氏族社会を構成し、旧ソマリア、ジブチ、エチオピア、ケニアにまたがって暮らし、ソマリ語を話し、イスラム教を信仰しているとのことで、全く持って、ジブチなんか、自衛隊の基地として名前を聞いただけで、イメージするのはただ砂漠だけという我ながらその知識の貧困さに恥ずかしさを感じる。

その地で、自力で内戦を克服し、民主主義国家を樹立していると聞いた時、今や世界の混乱を引き起こしている、中東・アフリカはやはりアメリカ(だけとは言わないが)の民主主義の暴力的な押し売りの為に社会システムをぶち壊された挙句の過激思想の台頭を引き起こしていると言う事が現実なのだと実感させられた。自らの地は自らの意志で構築することが最善の策であること。集団的自衛権でアメリカの手先になってはいかんよ。

これが本書の前提なのだが、このソマリ社会というのが、どうも日本の室町時代に極似していて、現代語でかぶっているのだそうだ。その根拠は日本の中世、さらに室町時代というのが、複数の法秩序が重なり、それが時には相反している。そのなかで社会が成立している。

一方、アジア・アフリカ諸国の現実も、似た点があり表向きの西洋式の近代的な法律がありながら、伝統的、土着的な法や掟が残り、ぶつかり合っている。その典型として両作者がお互いに「似てる」と思いついた点と言うのは、犯罪行為に対する意識性のようだ。

清水の『喧嘩両成敗の誕生』の結論、「当時の人々は、身分を問わず強烈な自尊心をもっており、損害を受けたさいには復讐に訴えるのを正当と考え、しかも自分の属する集団のうけた被害をみずからの痛みとして共有する意識をもちあわせていた」というこの意識性が、ソマリ人とドンピシャなんだそうだ。

これはイスラム教と一律に言ってしまえない部分もありそうだが、なかなか個別的な説明が納得させられる。例えば、客を受け入れると言う事は、中世日本でも「治外法権」としての意味があり、犯罪者であっても受け入れた側はその理由を問わず許容した。それはいわゆる「アジール」の思想であり、やがて江戸時代にはわずかに駆け込み寺の東慶寺に残ったようなものなのだが、アルカイダのウサマビン・ラディン(彼はサウジアラビア出身)をなぜアフガニスタンの旧タリバン政権が守ったかは、思想的とか政治とかではない。それは逃げ込んできた客人を守るという部族の掟だからで、ソマリ社会も同様なのだそうだ。

少々下卑たたとえで恐縮ですが、というか余りにも時期を得たたとえなので笑えるが、安倍改造内閣の復興大臣と言うかたが、女性の下着を盗んだ前歴を暴かれて、国民を唖然とさせているが、日本の中世において、盗まれたものが見つかっても被害者の元には戻らなかったんだそうだ。その理由はつまり汚れたからなんだが、それを実感するには、これだそうだ。つまり女性が洗濯して干しておいた下着が泥棒に盗まれて、泥棒は捕まり盗品は警察から返してもらったとしても、多分使わないだろうというのだ。この感覚なのだそうだ。なるほどよく分かる、復興大臣のおかげで中世史の盗みの意味が理解できた(笑)

そのほか、内戦終結後の民兵が「かぶき者」だと言う指摘もなかなか面白い。彼らは戦いが終わってから、着崩した服装をしたり、派手な女物のスカーフを被ったりしていたのだそうだ。日本でも、織田信長がかなりの破天荒なかぶき者だったし、江戸時代戦国時代の生き残りみたいな武士が、女物の着物を着たり、使い物にならないほど長い刀をさしたりして、社会問題になったのだが、これらはまさに、武力が意味を持たなくなった時の自己顕示であった点で、よく似ている。知らなかったのであるが、なんと綱吉の「生類憐みの令」というのの現在の歴史的な評価が全然違っていたと言うのはびっくりであった。それは綱吉が犬を殺してはいけない。たしか生母が戌年だったからとか何とかだったと思っていたのだが、実はかぶき者たちが、戦国時代がおわって100年もたつのに、戦国っぽくみせるために犬を食べた。こういう者の取り締まり、つまりは都市治安対策、人身教化策として出された法令で、犬は単なるシンボルだったんだそうだ。確か、鉄砲所持の規制とかもあったと思っていたら、それは秀吉も出来なかった銃の規制を図ったと言う事で、今では綱吉は、犬将軍というバカ殿ではなくて、江戸時代が世界史的に見ても稀に見る平和な時代であった立役者なんだそうだ。

めちゃくちゃおかしな話がたくさん出て来るが、アフリカは現在も呪術が生きている世界で、サッカーチームには専属の呪術師を雇っていて、自陣のゴールにバリアを張るんだそうだ。それで勝敗が決するんだろうか?日本の陰陽師の世界だな―。

一番驚いたのは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」――未来が後ろにあった頃と言う章で、日本語に「サキ」と「アト」と言う語があるが、もともとは空間概念を表す言葉だったのだそうだが、時間概念を表す言葉として使う場合、中世と現代では逆なのだそうだ。戦国時代ぐらい前までの日本人は、未来は「未だ来らず」ですから、見えないものだった。過去は過ぎ去った景色として、目の前に見える。当然、「サキ=前」の過去は手にとって見ることが出来るけれど、「アト=後ろ」の未来派予測できない。つまり、中世までの人は、背後から後ろ向きに未来に突っ込んでいく、未来に向かって後ろ向きのジェットコースターに乗って進んでゆく感覚で生きていたんじゃないかというのである。これは著名な中世史学者勝俣鎮代氏の論文に書かれている事だそうで、氏の論文のタイトルが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と言う事で、度肝を抜かれた。それによると、世界各地の多くの民族がかつて共通して持っていた時間観念だそうだ。古代ギリシアなどでも、もともと未来派「後ろ」にあると認識されていて、「未来にバックする」という言い方があるそうだ。

あれこれのおかしな事実が書かれている。タイのお寺は完全アジールだとか、韓国でもお寺のアジール性は残っていて、労働争議で逮捕状が出たリーダー4人がソウルの曹渓寺(チョゲサ)という寺に逃げ込んで立てこもった。お寺の側も4人を保護し、警察は機動隊を出してお寺を取り巻いているのだが、宗教施設への強制突入はできず、警察は教会の牧師さんを間に立ててお寺に入り、労働組合員とその代理人であるお坊さんとで、四者会談を開いているというニュースがあったそうだ(2013年12月26日)。寺のアジールが保たれていると言う点で、前近代的なのか、それとも近代が失った本質的ものがまだ生きている事をみとめるべきなのか判断に苦しむ。

信長とイスラム主義台頭は多分同じ。アフガニスタンでもソマリアも戦闘でカオス状況の中でイスラム主義が出てきた。信長も戦国乱世の中から出てきた。そしてどちらもものすごく公平とか正義とかを重んじたということだそうだ。

ソマリ人にある歌垣もおもしろい。これはイスラム教、アラビア語の伝統とは別でソマリ語の伝統だそうだ。男のたしなみが歌を詠むことで、気に入った女性に歌を投げかけ、女性も歌で返す。日本の万葉です。

日本の中世から近代にかけて、米は新米より古米の方が高かった。理由。「古米は炊くと増えるから」。これもびっくりだ。ミャンマーは現在も同じ理由だそうだ。

こんなことが次々に書かれているのだが、多分ほら話ではない。方やあちこち、特に辺境を歩き回り、生活してみて、気づいたことが、なんと日本史の本の中に書かれてることに驚いていて、方や日本史研究者が、よく分からなかった日本史の現象が地球の辺境に残っている文化の構造と同じであることで、史料の真実に気づいたということが、なかなかユニークで、本人たちが言うように「奇書」になっている。まー電車の中でも読める本として、時間つぶしになるし、結構楽しい。お読みくださいな。

魔女:加藤恵子