学魔の本函
『ダーウィンの衝撃 文学における進化論』を読む

ダーウィン衝撃

『ダーウィンの衝撃 文学における進化論』


進化論が単なる常識と考えてきたのは非常識なんだ。
学魔高山師に何度も読め読めと言われていたのに、やっと読んだ。

白状すると、2度目の挑戦でやっと読んだのである。そして、自分の無能力に再び脱力してしまった。つまり、ダーウィンも『種の起源』も、ましてやそれが文学と関係するなどと言う事に、思い至らなかったのである。『種の起源』は科学であるがそれだけではなくパラダイムチェンジの著作で、当時の社会状況の反映としてえがかれた文学(物語)という枠組みの作品との交差がまさに「衝撃」である。

『種の起源』が1859年に発行された時、わずかに1250部だったそうで、物の数ではない程度であった。にもかかわらず、この説が革命的であるのは、大衆に受け入れら手からではない。少数の知識階層に深刻な打撃を与えた。それは宗教と科学の対立であり、キリスト教の種の個別創造説はダメージを受けた。神を殺した男ダーウィンというレッテルが貼られたが、ダーウィン自身には多分自覚しない展開であったようだ。

ヴィクトリア朝時代の人々にとってダーウィンは何者であるととらえられていたのか、進化論は何を意味するものと考えられていたのか?これを単に科学史からのアプローチでは理解できないというのが、今や常識なのだそうだ。そもそもダーウィンの「生存競争」(適者生存)の概念そのものは、当時の人口問題のコンテクストから導入されたものであることはダーウィン自身が認めている。すなわち、ダーウィンが進化論を発表したのは純粋に科学的な証拠にのっとった書物として書かれていない。それは当然で、人間それぞれの一世代で、進化の出発点と変移、結末(あるいは消滅。滅亡)を見ることができないからである。

ダーウィンの「適者生存」説はダーウィン以前に存在した。たとえばスペンサーの「適者生存」説などがそれである。つまりダーウィンの進化論そのものが科学以外のコンテクストから生まれたものである。そしてそれにより、科学史はもとより、思想史、宗教史、政治・経済の分野へと展開して行く要因を孕んだ書物であった。このような書物に、文学はどう絡んだのか。19世紀半ばのイギリスでは、文学も神学も歴史も同一の言説空間内に共存していた。そうならば当然のことながら、進化論は文学とも関連が切り離せない。

というわけで、ジュリアン・ビアの本書が書かれたのであるが、原書の題名はめちゃくちゃ長い。『ダーウィンのプロットーーダーウィンとジョージ・エリオットと19世紀の小説における進化の物語』というのであり、これは当時の分離されないコンテクストの中で文学がどう進化論に対応したのかについての文学論なのである。

しかし、ビアが本書を書く時点での文学論をめぐる状況は、印象批評の時代ではない。彼女の言説はフーコーの『言葉と物』が根底に置かれた時点にある。そして、引用されている研究者は科学者よりは多彩である。バシュラール、カンギレーム、セールといった科学史家のほかにレヴィ=ストロース、ゴルドマン、リクール、プーレ、ジュネット、プリゴジン、デリダ、ジェイムソン、サイード、ヘイドン・ホワイトなどで、現代思想と文学理論を事例に結びつけた、全方位的な、融通無碍の研究書となっている。なお、富山の解題でピアが『種の起源』が多義化して来る点について指摘している箇所を以下のように抜き出している。

「ダーウィニズムは単一の意味に落ち着くものでもないし、単一のパターンのみをうみだすものでもない。本質的に多価的なのである。デカルト的な明晰さ、明快さを拒むのである。『種の起源』におけるダーウィンの議論の組み立て方、隠喩の使い方は・・・意味の増殖と拡張とにつながってゆく。「生存競争」といった隠喩の中にひそんでいた手つかずの、コントロールしにくい要素は勝手に一人歩きしてしまうことになる」

つまり、ダーウィニズムをどうとらえるかは、狭い意味での生物学的意味と逆に拡大して社会生活のそれぞれの分野での意味づけを、どちらかが正しくて、どちらかがまちがっているのではなく、両方を包摂するものとしてのダーウィニズムを洞察しなければならないということである。1980年代にはこのような潮流として、いわゆるカルチュラル・スタディーズの研究目標としてダーウィン研究が表面化した。ダーウィンと文学という関連は本書にも出て来るがテニスン、ディケンズ、エリオット、ハーディ、コンラッド等が研究され、進化論に対しては自然神学、地質学と文学、社会進化論と歴史学へと広がり、とりわけ今日ふたたび噴出する問題である人種問題、差別の根源となっている優生学とナチス。人口問題と犯罪など、21世紀へまでも長い長い影を引きずっていると言える。富山はこう書いている「ダーウィニズムはまさしく巨大な政治的言説の装置である」と。

さて、本書がダーウィンの理論と文学の関係を論じている、私には理解することが無理というほどの高度なものであった。かなりの部分ジョージ・エリオットの『ダニエル・デロンダ』についてが扱われているのであるが、まずそのエリオットを読んでいない。それ故、引用箇所がビアが意図した意味がさっぱり分からない。完全お手上げ状態であった。しかし、わからないことの意味はわかった。それは文学の読みは、かくも多彩に読むべきものだと言う事。ダーウィンの使った説明のための隠喩がエリオットのこれに重なるとか、始まりから未来への眼差しがキリスト教的な始まりと決定的に異なっていることの指摘は、時間論として重要な指摘であろう。また女性の結婚に関するアプローチから優生学や、ダーウィンの性選択との関連性を見ることになる。あるいは、系譜とか親族の広がり、分類がダーウィンの系統樹を意識していること等。

最後に、現時点で最も気になった点をあげれば、それは人類に「退歩」がありうるのかということである。ダーウィンは科学的な実経験(つまり、種の滅びを見たこと)によって進化の概念を構築したのであろうが、これも又仮説から導かれている。そして我々人類は自らが滅びゆきつつあるかについて実感として確認できない。しかし、世界が宗教という人類が作り上げた擬制で許しあえない実体。同じ類を殺し合っている現実。自らの手に負えない科学の結論を知りながら使い続ける原子力など。これは「退歩」ではなかろうかと思うのである。ともかくむちゃくちゃ難しいが、自己流解釈を許してもらえれば、読めるという書籍である。

魔女:加藤恵子