魔女の本領
俺たちで最後だってあんたに言ってんだからよ…

プロバンス

『プロヴァンスの村の終焉』


『プロヴァンスの村の終焉』上・下 ジャン=ピエール・ルゴフ著 伊藤直訳 を読む。

過去の「村」を単に追憶するだけでは、急激に進む近代化の弊害を批判する手段を手にすることはできない。

まずは、私のすさまじい勘違いからこの本を読んでしまったのだ。ルゴフって、てっきりジャック・ル・ゴフだと思いこんだんだ。当然アナールの中世史家がプロヴァンスに就いての歴史的変遷を書いたとばかり思い込んだ。しかし読んでいて、なんか変だ。記述に歴史的な香りがしないのだ。それでも最後まで読んで、ふとみると、ル・ゴフではなくてルゴフで、完全な別人。びっくりポン。ただ決して怪しい本ではない。著者のルゴフは政治社会学者で、どうりでやたらと教育とか、社会教育とかについてが詳細なのかがわかった次第である。

日本人にとってだけでなく、フランス人やヨーロッパ人にとってもプロヴァンスというと、風光明媚で、白壁の小さな家が点在するのんびりした「ユートピア」のようなイメージがあるらしい。そのプロヴァンスが1970年代と80年代に動変貌したかを単なる風景の変貌ではなく、村人の生活を根底から揺るがす新住民との軋轢を描いている。ルゴフは一つの典型的なカドネという村に住み着き村人と親交を重ねながら、彼らの本音と建前、ゆずれない信条などをひろいあげて書き記したドキュメンタリーである。その研究姿勢についてこうかいている。

「私の研究姿勢は、単なる観察者ないし社会学者のそれとは違っていた。彼らは、自らの研究領域を自分の外側に位置する「対象」とみなすだろう。私はと言えば、住人たちの、とりわけ「年配の者たち」のメンタリティを「内側から」理解したかったのだ。とはいえ、私も彼らと同じメンタリティの持主であるなどとは言い立てずに、彼らが属する集団に固有の社会関係に深く身を置くことにした」。この方法は実を結んだと言える。なぜなら、多くの場面で、よそ者には心を開かない村人が本音を述べていることで、カドネという村の内実に触れているのが分かるからである。

著者は68年5月の革命世代であるようだ。そして自らが叛逆者の世代に属し、新時代を切り拓く希望を担ったのではあるが、じつは自らが歴史を作っている事に気づかなかった。この村、カドネでも68年世代の新参者の流入による世界観の転換による変質は大きかったようだ。

古くから、大きくは変化しなかったカドネという村は、農民と籠細工師の村であった。この手仕事と農業の村カドネは近代化とは無縁で、農業も家庭菜園程度で、主たる産業はこの柳の枝の籠細工であった。この手仕事がカドネのアイデンティティを作り上げることに貢献していた。しかしこの仕事はジプシーが行なう「貧乏人の仕事」と考えられていて、差別とまではいかないが、良い評判を得ることを意味しなかった。

18世紀には籠細工師の存在が公正証書に現れているが、19世紀に最初の家族経営の製作所が誕生し、労働者が生まれている。1906年には2000人の人口のうち306人が籠細工師として正式な届を村役場に出している。1910年には、100人ほどの籠細工師を雇用した協同組合(ラ・グラヌーズ 落ち穂を拾う女性)が創設されている。この製籠業の維持と発展のおかげで、カドネは両大戦間期において、人口の減少が少なく、村にはさまざまな籠細工製品の工房と製作所があり、数百人の男女労働者の雇用を生み出していた。そしてこのことが、純粋に経済的な活動のみならず、村落共同体の在り方と密接にむすびついて、特異な労働の世界を作り出していた。この労働の世界が非常に興味深かった。労働は人生の一部をなしており、生きてゆくための必要条件ではあった。と同時に、年長者から認められ大人になるための村落共同体へのイニシエーションの場でもあった。そして、この種の工房には人間的な絆が存在した。

もちろんどこにもある確執は存在した。多かれ少なかれ腕に覚えのある女性労働者たちのあいだには、嫉妬と確執があったのは確かだが、同一の条件で協働して仕事をおこなうことによって、互いの結束が強められていった。仕事が遅い者たちは、全体の仕事の速度を落としかねなかった。給与を受け取るためには、週末までに製品を仕上げねばならない。そこで、遅れを取り戻すために、最も腕の良い女性籠細工師たちが、仕事が遅い者たちの手助けをして、みんなが十分な支払いを手にできるよう気を配っていたそうだ。そして、その職場での労働は、工場労働のそれとは決定的に異なっていた。籠細工製作の仕事そのものは静かなもので、工房には耳を聾する機械の音などはないのだから。とはいえ、工房はいつも騒がしかった。おしゃべりや、冗談や歌声にみちていたのだ。かくして、工房は、村のさまざまなことがらについて、働きながら「みんなで話せる最後のサロン」となっていた。ルゴフはこう書いている。

「とはいえ、昨今の会社における勤務状況と比べて最も驚くべきことは、労働者たちが歌いながら働いていたという事実である。・・・たとえ、労働が最悪の環境で行なわれていても、歌は労働生活に欠かせないものだった。・・・一日の労働時間は長く、給料は少なく、労働条件は苛酷であったにもかかわらず、当時の労働の中にはーーこんにちの就業状況からすると何とも驚くべきことだがーー朗らかさと陽気さといった大切な要素が確かにあったのだ」

この労働はやはり近代の工場労働における搾取の概念からとは違う。働くことの本質的な喜びがいまだ失われていなかったことを示している。ここで思い起こしたのは、実は日本の3・11以後の東北のことなのだ。漁師たちが労働の手段を失った時、気仙沼の女性たちが数人で集まって、編み物を初めた。出発はいわば支援者からの援助に対するお礼の気持ちと仲間と同じ場所で、おしゃべりをする時間が必要だったと言うことのようだが、それが今では気仙沼ニッティングというブランドにまでなり、編み手を新たに指導しながら会社として成功している。手仕事の労働がいかに豊かな感情を維持できるかの一つの在り方のような気がする。カドネにあった籠細工の工房の労働の在り様はこのようなものではなかったのかと想像できるのだ。こうした気兼ねない人づきあいや、自らの手で作り上げた製品の美しさや質は、現代の経営者たちが「仕事のモチベーション」と呼んでいるものの本質を成す要素であった。

もっとも現代の経営者たちは、「仕事のモチベーション」を単なる精神的な作用に限定しまっているのだが、かつてはそれ以上のものであったと言える。というのも、気兼ねなく歌いながら働くという労働環境は、独自の人間的な絆や人間関係を伴っていた村の集団生活の延長線上に位置していたのだから。さらには、こうした人間同士の結び付きが、日々の仕事の過酷さを乗り越えることを労働者たちに可能にしていたのだから。要するに、工房という労働環境は、慣れ親しんだ日々の世界の一部を成しており、だからこそ、労働者たちは人間らしい顔つきを失わずに済んでいたのだった。

そして、彼らは共産主義者であったということなのだ。カドネはかなり早くから「赤い村」と言われていて、代々共産主義者であることをむしろ誇りとしていたということだ。ここでいう共産主義者というのは共産党員と言う意味ではないことに注意したい。いわばマルクスの唱えた本当の意味での共産主義なのかもしれない。貧しい者の利益と誇りの用語を体現していた。彼らにとっては「フランス革命」「フランス共和国」、そして共産主義が不可分に一体化していた。そして共産主義のイデオロギーと村の伝統とが奇妙に渾然一体となっていた。著者が調査した共産主義は彼にこう答えたそうである。「カドネで共産主義者になるのは、必ずしも党員証を手に入れて、共産党にとうひょうすることではない。共産主義者になることは、遺伝子の中に組み込まれていた」と。共産主義戸は、庶民の家系の誰もが自然に身につけるメンタリティであった。プロレタリアート独裁とか、一党支配とかいう観念とは全くことなった理念によって共産主義を支持していた。「俺たちが共産主義と言う時には、それは共生を意味しているだよ。俺たち庶民は共に生きているし、一人一人が専門能力を持っているだろう。みんなで分担すること、それこそが、カール・マルクスの本来の思想だ」。ちょっと夢のようではあるが、生きたマルクス思想がある。

戦争の記憶についても、非常に印象的である。第一次世界大戦、対独レジスタンス、インドシナ、アルジェリアという戦争体験に対して、フランスと言う国の戦争と言うよりは、カドネの村の自立という感情の方が強い感じを受ける。特に対独レジスタンス運動を率いたのは一人の農夫だった。ドゴール主義者のレジスタンス運動員とはかなり違ったものだったらしい。「レジスタンス活動」は日常行為に一環であった。その勇敢さで、その大胆さで常人離れした行動で、感嘆の的となっている旧来のレジスタンスの英雄像とは反対に、レジスタンス運動員の多くは、一般人と変わらぬ人物であり、個々の人間をヒロイズムや自己犠牲へと向かわせるのは、「具体的なもの」を、例えば、日常生活でおこなわれている営みを守り抜こうとする意志だったというのである。さらに戦争について、カドネでは、インドシナ戦争よりもアルジェリア戦争の方が人々の記憶に残っており、より一層の憎悪の対象となっているという。何年もの間、アルジェリア戦争は闇に葬られていたのだが、1990年代の終わりから2000年代の初めにかけて、再びマスメディアの注目を浴びることになった。フランス軍による拷問や暴行といった特異な角度から、この戦争がクローズアップされた。それ以前から、カドネではアルジェリア戦争に出た兵士に対して、無言の非難が存在したのだそうだ。「汚い戦争」に対して、庶民の感性は鋭いと言っていいだろう。

村落共同体に大変化を生じさせたのは、テレビと自動車であった。この二つの耐久消費財の登場はしんじだいの幕あきとなった。そしてレジャー時代が始まり、村の伝統的なsじゃ会関係は分断され、村は外部世界に大きく開かれれこととなった。テレビは村の文化の本質的な特徴のひとつであった、面と向かって言葉を交わす喜びを次第に駆逐し、家に閉じこもる生活スタイルへと変化させた。自動車はといえば、住人達の特権的な交流の場であった通りや広場を車が占領し、村そのものを征服してしまった。

決定的な変化はもちろん、村のアイデンティティを形成していた伝統的な産業が終焉を迎えたことである。それとともに人口減少が加速した。それがくしくも68年の5月革命の時期に重なる。直接運動があったわけではないが、68年の衝撃の余波は70年代以降続々と新たな人間が押し寄せて来る。その中核を成したのが「68年世代=5月革命の参加者・賛同者たち」であった。しかし彼らは村に溶け込むことはなかった。第二波の「ポスト5月革命」の人々が流入し始めて、年配者と新参者との関係が変わり始める。それは文化的に伝統に目を配り祝祭や友情に満ちた人間関係といった田舎の生活の良い面にもう一度スポットライトを当てる行動に移ったことが大きい。

しかし、更に時間を経るにつれて、田舎に暮らすだけの都会人が増加することで、もはや村落共同体は意味を成さず都会的な個人主義が当然のこととなり、田舎風の郊外都市となって行くにつれて、大多数の住民のメンタリティは、かつての籠細工師や農民のメンタリティとは似ても似つかぬ者となって行く。そして、私たちが行く知るプロヴァンスの田舎風、きれいな風景の擬似村が出来上がるのである。

このようにして、村の伝統が曲がり角に達したのは火を見るより明らかだ。その結果、従来の自分自身との関わり方のみならず、共同体との関わり方が消滅の危機にさらされている。籠細工師たちや農夫たちが中心的であった時代においては、「生活の厳しさ」はカドネに住む誰しもに共通する生の条件をなしていた。「家族を食わせること」と「はした金を稼ぐこと」が、この頃の主要な関心事であったので、自分の心身のケアをする余裕などほとんど残されていなかった。しかしながら、このことは、生の喜びや生の幸福の不在を意味していたわけではない。もっともこの頃は、生の喜びや生の幸福も純粋に個人的な事象とはみなされておらず、村の伝統と共同体への溶け込みに深くかかわるものであった。こうした意味において、幸福とは家庭を通して得られるだけに留まらなかったし、ましてや自己中心的な「個人的な才能の開花などとはほとんど縁がなかった。要するに、幸福とは、往年の村の帰属的な共同体の内部で織りなされる友情の絆や連帯と、そして集団的な交わりと切っても切れないものだったのだ。こうした昔ながらの絆や伝統の消失は、かつてよりも大きな自立性や個人的自由をもたらした。村落共同体に固有の制約や慣例の遵守を思い浮かべるのならば、こうした変化にも確かに肯定的な面がある。とはいえ、新たな病理の温床である孤独や自己への不安が出現したのはその代償であった。すなわちストレス社会が出現してしまうのである。

これ以後の村の分析はほとんど教育についての詳細な記述で、読めば興味が湧くが、特にカドネでなくても起こり得る問題であり、詳細は省くが、興味を覚えた点だけを紹介すると、ともかく都会からの新村人は都会へ働きに出るため村に子供の教育もしつけもすべて公的にすべきと考えている。その結果、学校教育では昔であれば家庭でしつけられた目上の人を敬う事、敬語を使う事すら学校教育現場に持ち込まれる。あるいは、村の公民教育として試みられた「ジュニア村議会」は熱心な指導者によって、子供たちによる選挙とジュニア村議会」の現実の運営が行なわれた。そこから出てきた色々な村の課題が、本物の村議会のものとほぼ同じであったという。しかし、このジュニア村議会の議決は程なく興味をもたれなくなった。それは村がその問題に何一つおうじなかったからだという。身につまされる問題だ。公民を教えるために、子供たち自らが村の現実にコミットしても、大人の都合でねじ曲げられる行為から、子供たちが学んだのはむしろ大人の欺瞞だろう。
やがてカドネの村は宅地開発の波に飲み込まれる。土地を売り大金を手にする者や、古い家を売る者、それらの土地や家をレジャー施設にする経営者が出現する。一方では貧困や仕事がないだけでなく、家庭崩壊や帰属する場所や連帯感の喪失によっていわば全てが崩れて行く「瓦解」が始まる。しかし、プロヴァンスの伝統の終焉は、その責任を「都会の人間たち」の到来のみにおわせることはできない。プロヴァンス人たちの習慣と生活様式、そして彼ら自身もまた変わってしまったのだから。

そして、エピローグに泣かされるのである。

「主役ではなく聞き役に回っていたジェラールとロベールが急に笑うのをやめた。そして、ぼそぼそと言葉と言葉を繋ぎながらパリ人である私に語りかけてきた。俺たちの話をよく聞いてくれ、俺たちの姿をよく見てくれ、ジャン=ピエール・・・。今のあんたの目の中にいる人間たち・・・。そいつらとはもう二度と会うことはないんだぜ・・・・。俺たちは消えつつある人種なんだからな、もう俺たちしかいないんだ、俺たちのことを後世に伝えようとするやつもいねえしな!俺たちで最後!おい、話をよく聞いてくれ、ジャン=ピエール、俺たちで最後だってあんたに言ってんだからよ・・・。このことを本に書いてくれねえかな、そして、プロヴァンスからぱりに戻っても、他の場所に行っても、みんなによろしく伝えてくれよ、俺たちは最後の生き残りなんだからってな!」

魔女:加藤恵子