魔女の本領
原発国家は非民主主義的、警察国家になる…

脱原発

『脱原発の哲学』


本書は哲学と銘打たれている。たしかにドゥールーズやフーコー、デリダが引用されている部分もあるが、大部分はむしろ普通の庶民が感覚的に感じ取っている原発に対する感情や電力会社や政府の見解がいかにも不合理ではないかという素朴な認識に基づいて、その意味を深堀したものである。私が福島事故以後脱原発の運動にささやかながらかかわりながら、街宣し、その街宣中に他の方の発言から得られ知識、さらには福島被災者の生の声などに接しながら模索していた考えが、本書によって、決して独断的でもなく、政治的に左に寄りすぎたようなものでもない。その核心が得られたことで、些か心が軽くなったことも事実である。街頭に立つことは、多くの場合理不尽な非難にさらされる。無視されるのはむしろ普通であり、罵倒され、暴力を振るわれ、妨害される、それでも原発反対を主張することを止めるわけにはいかないのは、本書にも書かれているように、明治以来続く国の横暴とそれに結びつく専門性を経済性と結びついて歪め、いまそこにある悲惨に目をつぶる学者たちに、素人は泣き寝入りはできないと言う信念があるからなのである。

本書の各所の重要部分には傍点が付されている。著者が重要と考える点を強調しているのであるが、その中核部分は何度も繰り返されている。とても分かりやすい作りとなっている。さらに本書は日本の近代の歴史、殖産興業政策(工業立国)と富国強兵政策(軍事立国)の在り方が、第二次世界大戦の敗戦を経て以降も続いている事、そして同じく連綿と影響が続く公害がなんら反省されることなく続いている先に福島原発事故があり、再びの原発依存社会への回帰の策謀があることを立証している。福島原発事故は国策としての原発、すなわち工業立国(言い換えれば経済成長主義)にあるために、経済性もましてや安全性は二の次になる構図が明白である。原発事故を本書は明らかな公害として証明している。

その後の経緯が実はまるまる足尾鉱毒事件に重なると言う記述に暗然とした。未来が暗いからではなく、あまりにも当てはまっているからである。足尾鉱山の鉱毒事件は田中正造の活動が中心になっていて、じつはその経緯については詳細は知らなかった。谷中村が鉱毒の中心地ではなかった。鉱山周辺の汚染地域を拡大させないために、政府が取った遊水地の為に谷中村は立ち退かされ、滅亡したのであった。最後まで抵抗した14家のうち1家はなんと兵隊として出兵中に取り壊されている。福島の現状と重なる。いまや福一の帰還困難地域は汚染廃棄物の集積場として、多分谷中村同様に村は滅亡させられるであろう。そして、今福島の人々を苦悩の中に置いているのは差別である。どちらに身を置いても差別に晒される。国の帰還政策を拒否すれば、受け入れた者からの差別と非難を受ける。しかし帰還した者は広島・長崎の被爆者同様に被爆地域住民として差別を受ける。自力で避難を続ける家族はその地域で差別を受ける。そこには国から涙金の補償額の違いが絡んでいたりするのだ。谷中村でも同様であったという文章に心が痛む。もう一つの側面として、公害と言いながら、実は国が無視するという側面を強調したい。戦後の大きな公害、水俣病についても、国策会社チッソの水銀が原因であることを認めることにどれだけの時間がかかったのかを思い起こさせられる。ここでも専門家という人々の作為による原因究明の遅滞が大きな問題であった。福島の被爆問題が同じである。科学者と言う存在が、なにゆえあれほどまでに悪意をもって福島の被爆者に接するのか理性的に理解ができない。「放射能は飲んでも安全」という大学教授を専門家と言い得るであろうか。この様な論理について、本書は「否認」というキーワードを提示している。自己に不都合なことは「否認」して、自己の都合のいいことだけを拡大する。その結果はなんら責任も感じないまま、全体から見れば信じられない論理を平然と繰り出してくる。この構図が科学的というものの基盤であるとしたら、あまりにも危機的である。

本書のメインテーマのひとつは核兵器と原子力発電とは同じものであるという捉え方である。私自身もそれは感じ取っていたが、論理的に説明する力はなかった。科学史として見た場合には、兵器開発が先行し、その民需品への技術の転用はいろいろ考えられるであろう。そしてその最悪の事例が核である。核技術は大量殺傷兵器として開発され、今もなおその力を維持している。その部分的活用が原子力発電である。海外では、この点明白で、核兵器であり核発電と明確に同じ扱いである。ところが日本だけ核兵器と核発電は原子力発電と言い換えが行われ、あたかも別のもののように認識を強要されている。核兵器については、曲がりなりにも使用を国際的にも使用しない枠組みを作っている(もちろん、核武装による防衛論はいまでも維持されるどころか拡大している)。しかし核発電についての制約はない。日本はそこを世界から狙われているし、政府、経済界も利用している。そして核科学者(物理学者)の多くが先に述べた「否認」の論理と、科学技術=経済有効性の国家の論理に絡めとられている。世界的にも核および被爆に関するいくつかの監視機関がある。たとえば国際放射線防護委員会(ICRP)。しかし彼らの見解を詳細に検討すれば、まず核の存在を前提にして、いかに核と共存できるかの上限を提示しているに過ぎない。たとえば、福島についてこう述べているのを認められるであろうか。「保護にはコストがかかること、人口の一部分を避難ないし移住させることは目標になり得ない」「住民に対し、彼らの日常の一部をなす被爆ということの新たな要素を受け容れてもらう」「人々に安心を取り戻し、汚染された環境のなかで日常生活の自己管理をできるようにする」。これらは国際的な原子力ロビーに通底しているものであり、被爆当時者である住民の健康管理よりも経済的=社会的コスト縮減を優先するという新自由主義的な統治技法に外ならない。この論理は即ち日本政府の取る福島原発事故をなかったことにする、まさしく「否認」による政策の余りにも非情で、無慈悲で、許し難い在り様の根拠となっているのである。

このような核による公害(永遠に続く公害)にどう立ち向かうべきなのかを本書は提示している。それはドイツの脱原発過程の紹介から導き出されている。ドイツの脱原発運動は実は長期にわたっていて、メルケル首相が突然福島以後決めたものではないと言うことである。1970年代から始まり、政府の大量原発建設とそれへの反対運動、司法による建設中止命令、1979年には、再処理施設建設が撤回される。この間に原発廃止を党是とする「緑の党」の創立。この等の環境政策には「底辺社会主義(Basisdemokratie)と呼ばれる新しい民主主義の理念が提示され、分権的な直接民主主義を実現し、国民投票や、市民による公務員、代議員、諸機関の監督となどが定義された。1980年の緑の党の党綱領は福島事故後の私たちには切実に感じられる。

「既成政党の影響で、核エネルギーのようなものでさえもっと拡充しようと誰もが思い始めた。その結果、核廃棄物の最終保管施設を岩塩の中に設けざるを得なくなり、スリーマイル島事故のようなカタストロフィーが今にも顔をのぞかせそうな状況がもたらされた。最終保管施設では、高濃度の放射線が数千年にわたって消えずに残り、それが生物圏から安全に遮断されることもない。それは多くの次世代の生命を脅かし続けるのである。

核エネルギーの使用は民主主義と種々の基本権を危険に曝しているだけでなく、安全性に関する高いリスクのために、我が国に警察国家と監視国家(原子力国家)への道を歩ませている。諸国への原子力機器の輸出は平和を危険に陥れるものである。それゆえ私たちは、すべての原子力施設の計画、建設、操業、輸出をただちに停止するように求める。

現在のエネルギー生産は燃焼による方法を用いているので、多大なエネルギー損失(例えば排熱)と後の環境破壊を招く。エコロジー的エネルギー政策はこうした方法に代えて、環境と調和し、再生可能で、生産機構を非集中的に組織したエネルギー源(太陽、風力、水力、バイオガスなど)からエネルギーを取り出したいと考えている。つまりエコロジー的エネルギー政策は、環境との調和という枠組みの中でエネルギー消費を安定させることに努めるのである。」

この党の綱領は今、日本に求められる全てが書き込まれている。脱原発が「原子力国家」批判であり、原発国家が警察国家、監視国家になると言う指摘は、福島以降の日本の姿そのままで、その的確な予言である。この直接民主主義(底辺民主主義)を私たちもイメージすべき時なのではないだろうか。

東日本大震災と福島原発事故からわずか5年で再び襲った熊本・大分の大震災に、再稼働された原発を止めるべく、震えながらあらん限りの努力をしている。

魔女:加藤恵子