魔女の本領
成功したのか否か、かなり微妙…

わが記憶

『わが記憶、わが記録 – 堤清二×辻井喬オーラルヒストリー』


オーラルヒストリーという記録の手段について、成功したのか否か、かなり微妙である。

70年代、ある種のステイタスとなっていたセゾン文化、その総帥であった堤清二の聞き書き(オーラルヒストリー)、『わが記憶、わが記録 – 堤清二×辻井喬オーラルヒストリー』御厨貴・橋本寿朗・鷲田清一=編を読む。

堤清二についての大まかな経歴や作家としての位置なども知らないわけではないから、その主人公のオーラルヒストリーと銘打たれた書籍を、実はかなり期待して手にとって読んだのであるが、聞き書き(御厨はオーラルヒストリーと強調している点が、そもそも違和感があった)というものの書かれたものとは異なる優位性に就いて、最後まで分からなかった。堤清二=辻井喬は経営者として有能であったし、作家としても著名であったことで、自らを文字で書き記すことができる存在である。現に、本書によれば生前にはその作品を絶版にしたいという意思があったようであるが、堤家の内実と清二の共産党員としての学生時代については『彷徨の季節の中で』というデビュー小説で書かれていて、それを更にわざわざ聞き書きする意味はあるのだろうか。案の定、聞き出された内容に新鮮味はない。ただ堤が質問に答えるという形式が、あたかも真実であるかのような意味づけが、御厨らの聞き手の意識にあるようで、それは違うのではないかと感じた。話し手が自ら話す事の方が数段怪しい。私自身、戦前のアナキストの有名な方を80年代に長時間聞き書きをして、文書に起こした経験があるが、記憶というものがそもそも選択的であること、更に人が語ることには無意識に自らの価値が入り込んでいる点で、決して正確ではないこと。そしてやたらにむだなことを話すものだという事を経験している。文章の方も、もちろん同じことは言えるが、文章化すると言う事は、一端考えが整理されて書くから、読む者はスムーズに理解することができる点が大きいと思える。聞き書きが有効であるのは、文字を表現手段としていない人たちの姿を残す時に有効な手段であることは論を俟たない。宮本常一の有名な『忘れられた日本人』の中の「土佐源氏」を思い起こしてもらえば分かりやすいと思う。オーラルヒストリーと言うのは、自ら表現する手段を持たない者、あるいはそれが得意でない者の歴史を捉える有効な手段であることは絶対に間違いない。

というわけで、本書をよんでも、堤清二の生涯が鮮明に表れたとは言えない。むしろ、淡々と答えていることで、堤の劇的な生涯は平板化されてしまったように感じた。それでも、出て来るエピソードには興味が尽きなかった。彼が共産党員として戦後出発し、誰でも知っている1950年の国際派と所感派の分裂で党中央から東大細胞ではただひとりスパイとして名指しされた経緯などはなかなかに興味深い。そして党からの除名となったはずなのだが、その事実が党にはないのだということが後ろの方に書かれている。その直後の結核発病。父康次郎の秘書として働き出す。この時期の動きについても、その後財界人として政治家との付き合いに接した時も、金が動く政治の姿がすさまじいもんだと思う場面が多々出て来るが、堤清二が金持ち過ぎたためか、あるいは共産主義についての思想的な基礎があったためか、裏の金にまみれることがなかった点と、自民党代議士の大物は、確かに或る見識があった点が指摘されているのが、目を引いた。最も彼が総理へ押し出そうとしたのは宮澤喜一だったようで、彼は文化的面にも知識が深かったのを直接見ているようだ。その他意外なところでは中曽根康弘が政治家としての見識はあったと述べている。堤が生きていたら、現在のこの馬鹿げて、貧困な知性の集団となってしまった自民党とそのトップの在り様を何と見るであろうか。堤はこの点をこう話している「やや文明論的な話になるけれど、日本の政治も文学も、思想の言葉を持っていない。思想の言語をもっていないことは致命傷だと思うのです。日本の弱さです」と。

財界に入ってからの堤は自らの指標についてこう言っている。「自分の感性的な受け取り整理する時の道具として、イデオロギーをつかっていますね。社会主義イデオロギー、自由主義イデオロギーというものではなくて、感性的にうけたものを整理する時に、イデオロギーを包丁に見立てて自分を納得させているのかもしれない。

ですから、しばしば本質的に自分はナショナリストだと思う時がありますし、年甲斐もなくロマンティストだとおもうときもあります。あまりリアリストじゃないな(笑)。リアリストだったら、今でも社会主義なってことは言いません。バカバカしいというだけで終わってしまいますから。」なかなか、意味深長な自己分析のような気がする。西武百貨点をひきいた時の話で、これはと思ったのは、まず組合を作ることかとから始めたのだそうだ。これは経済人としてはやられたという感じである。本来組合は自ら労働する立場を守る様に下から組織すべきなのに、旧態依然たるは百貨点を一気に組織化することを組合を作ることからはじめるという意外性に驚くが、その組合がどう働いたかは、よくは分からなかった。ただ一点、給与体系について、堤は年齢だけを基準に一律にしたと述べている。この点は実は同じ時期70年代、私は同じ論理で組合の委員長として、職場の賃金体系を大変革した経験があるのだ。これは大変であった。大学卒と中学卒が年齢が同じなら賃金は同じと言う論理を認めさせることがいかに大変であったかを、思い起こしたのだ。図らずも私は堤と同じ思想を持っていたのかと思い、苦笑した。

西武百貨店のコンセプトと問屋、バイヤー等の関係について、私には全く分からなかった。流通と言うものがどのように成り立っているのか全く知らないからで、堤が何を打破し、西武をトップに押し上げたのか、よく理解はできなかったが、海外ブランド、特にフランスのブランドには妹の堤邦子さんが関わっていたと言うことはうっすらと記憶していたが、それも70年までで、80年代にはすでに海外ブランドは日本法人を作り、百貨店から独立していたと言うのは知らなかった。このあたりで、西武百貨店とパルコという在り方の棲み分けが始まっていたらしいが、私には、この辺の興味と言えば当然、文化事業への展開が思い起こされる。

本屋のリブロ、出版社としてのリブロポート。堤の話ではリブロは堤の発案だそうだが、出だしは大混乱だったそうだ。書店員がいない。安倍公房の『燃えつきた地図』が地図売り場にあったりしたそうで、近年蔦屋が作った図書館での混乱を思い起こさせた。リブロポートの方は、筑摩書房が破綻した時、人員を大量に引き受けたのだそうだ。これも知らなかった。リブロの書店の入口の左側に立派なリブロポートの本が集めてあったのを懐かしく思い起こした。当時堤は映画館も作っている。錦糸町と大森に(キネカ錦糸町、キネカ大森)、さらに、『キネマ旬報』もセゾン系であったのか!!。さらに西武美術館。当時、メセナという認識であったが、実体はどうだったのか?セゾン文化はバブルのときの「共犯者」、日本の文化と企業との関係の一つの実験・運動、あるいは時代現象だったのか?という問いに対して堤は「私個人にとっても大問題です。セゾン文化とは何だったか。そのセゾン文化は今後どうなるか。日本の状況がすっかり変った21世紀にはどうなるか、となりますとね。

たしかに、いいとこ取り、少し恰好よく言えば、時代精神の先取り、悪く言えばバブルの共犯者、掠め屋さん。いろいろな言い方がある。度の言い方も、少しずつ事実を反映している。私個人の経験知で言いますと、「あれ、私がやっていることは、いったい何なんだろう。本当にいいことをやっているのか、どうなんだ」という疑問を持ち出したのは80年代に入ってからです」と述べている。またパルコ文化とセゾン文化の違いについては、「パルコ文化はセゾン文化のなかのライトな部分です。セゾン文化の本流は、やはり現代美術館です。サブカルチャー的な部分がパルコ、そういう意識でした。

ところが、パルコ出版のほうは成功しているのです。本流に根ざしたものをやろうとするリブロポートの方はどんどん失敗する。だから、世を挙げてサブカルチャー時代に入って行ったとも言えるわけです。サブカルチャーが立ち上がってきたときの勢いや輝きは、もう80年代後半になくなりつつありましたがね」と述べている。1982年に西武池袋店が日本一になった頃からセゾンがエスタビリッシュされてしまい、外からはイミテートされ、そして内からは堤に求心力がなくなって行ったようだ。

意外であったが、堤は拡大する各分野にかなりの大物を引きぬいて来ていたらしいのだが、いずれも失敗している。流通業においての手腕と言うのが、その失敗が、堤の哲学をうまく引き受けられなかったからなのか、それとも分野の違う世界での働きの困難さなのか、人格なのかは判断できないが、この人事に就いて、かなり多くの言葉を割いているところをみると、人を使う事の非常な困難さは上に立つ者はそれなりに存在をかけなければ成功はしないと言う事なのであろう。そして、その結論は、堤自身、成功した事業は無印だけであるということが自身の口から語られる時、時代の先を行って進んでも、時代に追い越される非情さを明らかにしてくれる。西友ストア、ファミリー・マート、セゾンカード、インターコンチネンタルホテル、吉野家もそうなんだそうだ。銀座の劇場、有楽町西武。いずれも時代と共振する事業であったが、西友はアメリカ資本の傘下に入り、ホテルは売却、劇場は閉鎖され、有楽町西武はパルコになっている。

堤の経済人としての期間は意外に短い。そしてかれが自分の哲学と経営が一致したのは無印良品の場合であると述べている。「私が、もし経営者としてのレゾンデートルを持っていたとすれば、無印良品までです。コンビニはすでに脱落している。なぜ無印良品の場合、一定の役割を果たせた化と言うと、それは「反」資本の論理だからです」と自らの信念を貫くことの困難さ吐露している。

最後に辻井としての他の作家の評価について、車屋長吉、町田康、保坂和志、阿部和重を挙げている。(これらが挙げられていたのは、さすがと思いました)。詩人は野村喜和夫、瀬尾育生、野沢啓。大江健三郎、それに三島由紀夫。三島については、盾の会のあの服を作ったのは西武だったそうである。フランスの軍服を真似たんだそうだ。辻井は、三島事件の時、偶然座談会に出ていて、そのまま数時間唯一、三島を擁護したと述べている。

70年、80年文化に興味がある方には懐かしい事象が出て来る。そして経営者と政界との関係の裏側も見られる。ただし、読む必要性があるかと尋ねられたら、あんまりないかもしれない。

魔女:加藤恵子