情熱の本箱
阿諛追従の輩と清廉潔白の士との凄まじい闘いの勝者は:情熱の本箱(155)

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阿諛追従の輩と清廉潔白の士との凄まじい闘いの勝者は


情熱的読書人間・榎戸 誠

『紫禁城の月――大清相国 清の宰相 陳廷敬』(王躍文著、東紫苑・泉京鹿訳、上・下巻、メディア総合研究所)を手にするまで、浅学の私は陳廷敬という清代の人物を全く知らなかった。

本書の魅力は、3つある。第1は、陳廷敬と康熙帝がどういう人物であったのかに止まらず、その歴史的背景も知ることができること。陳廷敬が48年間に亘り仕えた康熙帝は、中国歴代中最高の名君として知られる、質実剛健を旨とした清の第4代皇帝である。数々の政治的、軍事的業績を上げ、清を真の大帝国とした人物である。第2は、絶対君主の寵を競い合うという、現代に通じる駆け引きの世界を生々しく体感することができること。第3は、阿諛追従と腐敗が跋扈する官僚世界をいかに生き抜けばいいかが学べること。この第3点こそ、現在、中国で本書(原題『大清相国』)がベストセラーとなっている理由だろう。

先代の順治帝が23歳で崩御した後、陳廷敬が、8歳の幼帝・康熙帝の師傅(皇帝の教育係)となったのは、24歳の時のことであった。

清の朝廷では、明珠と索額図という満州人の実力者が長年権力争いを繰り広げ、友人を引き入れ、同類を取り込み、増やした部下と派閥を組んで互いに張り合っていた。

即位して17年後、康熙帝は陳廷敬にこう声をかけている。「陳廷敬が長年、朝夕に進講し、朕の心を奮い立たせたその功は限りなく大きい。学びに終わりなしという道理は誰もが知っているが、幼い頃に廷敬に言われた時には朕は煩わしく思ったものだ。しかし今では大事に遭遇するたび、いよいよ勉学の重要さを身に染みて感じる」。

「陳廷敬は轎に乗りながら、目を閉じていた。重い疲労を感じるとともに、心は千々に乱れていた。官界に身を置けば、意に染まぬ思いを何度も経験するものと実感していた。しかも大臣は最も立場が難しく、皇帝の下で少しでも油断すると、罪を得ることになる」。

「陳廷敬が言った。『陛下に申し上げます。悪巧みをする輩を根絶することは、確かに不可能です。しかし汚職官僚が私服を肥やすその一方で、もう一方には民の命がございます。利害が対立した時には、民の命の方がより重要でございます。銭糧を配布した後、厳しく再調査し、民を苦しめて財を集める輩を厳しく罰することです。決まりが厳しくなれは、汚職官吏がそこまで跋扈するとは限りませぬ』」。

「『地方官僚が龍亭の寄付による建設を口実に、民を搾取することになりはしないか、と恐れております。万一そうなれば、民は朝廷を非難するでしょう』。康熙帝はあからさまに不快感をあらわにして言った。『民が、朕のことを暗君だと非難するとはっきり言ったらどうだ?』」。

「陳廷敬は黙ってそれには答えなかったが、いずれ時機を捉えて明珠を弾劾して失脚させねばならぬ、と強く決心していた」。

「陳廷敬は帰宅後、昼間の出来事を思い返しては恐れおののいていた。朝廷で官職につき、皇帝の寵愛を得たいと思わぬ人間はいない。しかし皇帝の覚えがめでたければめでたいほと、その立場は危険にもさらされる。明珠の失脚の結果、自分がその位置につけば、どれだけ物議を醸すことになるだろうか」。

「『たわけ者。大馬鹿者。朕は誠意と礼節を持って接してきたのに、皆汚職ばかりし、朕を騙そうとする。自分の息子さえ頼りにすることができぬ。これが帝王の家だ』」。優れた康熙帝でさえ、後継者たる太子選びでは右往左往していることから、人事の難しさが痛感される。

紆余曲折はあったが、陳廷敬は晩年に、康熙帝からこう評価されている。「古より清廉なる官は苛酷なる人が多いが、陳廷敬は清廉ながらその心には思いやりがあり寛大である。有能な官は、独善的であることが多いが、陳廷敬は有能ながら、善に従うこと流れるが如くであり、他人の良い意見を進んで受け入れる。好(よ)き官は凡庸なことが多いが、陳廷敬は好き官ながら、精力的かつ有能であった。徳官は懦弱であることが多いが、陳廷敬は徳官ながら、辣腕を振るった」。

漢人の明帝国を滅ぼした満州人の皇帝を頂き、その周辺を満州人のエリート官僚が取り巻く清という帝国にあって、漢人の陳廷敬が自らに課した座右の銘は、「待つ(等)」、「耐える(忍)」、「穏健に行動する(穏)」、「時には無情に決断する(狠)」、「人臣を極めながらも控えめに振る舞う(陰)」の5文字であった。その結果、72歳の時、清朝では初の漢人の首補大臣(相国、宰相)にまで上り詰めるのである。