魔女の本領
父母の思い出と言うものは…

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『父母(ちちはは)の記 私的昭和の面影』


父母の思い出と言うものは、年を経るにつれて、鮮やかになりフィクション化する。

『父母(ちちはは)の記 私的昭和の面影』渡辺京二著

『逝きし世の面影』で絶賛をあび、私も心を動かされた名著をものした著者が書いた新刊に、そのタイトルと共に心惹かれて読んでみた。しかし、本の構成が父母の記はその三分の一にも満たず、残りは自ら私淑した吉本隆明、橋川文三、そのほか全く知らない人物2名とみずからの精神的変遷が述べられていて、失望感が強かった。6本のばらばらに書かれた文章を集めたものであると言う事を勘案しても、編集にもっと工夫があったはずだ。そしてこのタイトルと副題は『逝きし世の面影』を無理矢理ひっ付けたと言う点で、すでに読者をミスリードしている。

というわけで、残念ながら渡辺の父母を深く掘り進んだ上での昭和史になっているとはいえない。しかしそれでも誰にとっても、父母がどんなものであったかについて語りたい、それを残したいと言う意識は働くし、その普遍的な精神についてに異存はない。渡辺の場合、大連での少年期を中心に、引き上げ体験。そこにからむ共産党との関係は、党の哲学とか、党の運動とかにはほとんど見るべきものは書かれていないが、はからずもかかわった友人知己が普通に共産党員であった時代の時代相はみてとれる。父母の面影については、それなりに興味深い。父親は弁士であったそうだが、大連に渡った時は興行師のような職で稼いでいた。そして、渡辺の母親と結婚する時点ですでに別の女性に子供がいた。その子供を引き取ったうえで母親が結婚している。そして両親の間には渡辺と2人の娘ができたにもかかわらず、家を出てしまっている。このいい加減さを渡辺は責めることをしていない。むしろ母親の美しく、賢く、強い精神を印象深く描いていて、その当時の女性としては魅力的であったが故に、父親がその堅苦しさに負けてしまっていての放蕩だと意識している点には、子としての複雑ではあるが、父母いずれからも自分は愛されていたという幸せな子ども時代を思わせられてほほえましい。渡辺はすでに80歳を超えている。父母の面影がもはや影絵のごとくなり、愛憎半ばする次元を超越しているという感じがする。母親についての記述が多いのは、母息子の絆が強く、現在ならマザコンという部類に当てはまるだろう。

大連からの引き上げの件は歴史的な証言として重要かもしれない。引揚対策協議なる組織が動いていたのだそうだが、これは延安から帰った共産主義者が組織した組織で、渡辺も姉もコミュニズムの洗礼を受けたと書かれている。さらに渡辺と姉はその組織に勤務し、父母を先に帰国させ、二人は敗戦二年後に帰国したと書かれている。民間人が共産党主導の組織で働くことで、生き延びられたという事は初めて読んだ気がする。渡辺は帰国後肺結核で入院し、学制の変更があったりして、新制大学の入学ができず変遷があったようだ。

渡辺は文学に接近して行く、その後も結核で入院生活を強いられて、その度に母親に支援されている。父親は母親をすててから母親とは全く違うあっさりした女性と暮らし、娘もいた。父親が死んだ時、その女性を見て、父親は母親が父親には重荷出会ったんだと理解している。父親にはほとんど感じることはなかったようで、母親の思い出だけが肥大しているということになっている。それでもこの母親の思い切りの良さは優れているようだ。渡辺が五校に入学した時点で、すっぱりと子離れし、共産党に入党しようが一切干渉しなかったという。

その後の渡辺の文学サークルの運動、結婚、石牟礼道子との出会い、水俣病闘争への関わりなどはいわば自伝的要素になり、父母の記からは離れて行く。

その他、本書に収められた他の作品で、渡辺の出あった先生や友人が多数書かれている。その名前がやけに鮮明に記されていて、自分に引き比べて、そんなものなのだろうかと疑問に思ったが、どうも日記に拠るようだ。中には著名な人物との意外な接点も書かれているが、渡辺の私的な友人がどんなに鮮明に描かれていても、知らない他人にはイメージを結びがたい。自らを記すと言う事が必ずしも他人を感動させるものとは言えないと言うことの一つの教訓になる。はっきりいえば、まったく面白くない。吉本、橋川にしても、この分量で書けば単なる印象でしかない。無理だ。

佐藤先生と言う僧侶についても、特異な僧侶のことを書いているが、とてもこの人物に肉薄するというものでもない。戦後にはかなりユニークな僧侶が地方では活躍していたのだなーという印象しか湧かなかった。

本書が父母(ちちはは)の記という題でなければ買わなかったし、読まなかった。老いて書くと言う事の困難さを感じさせられた。まー電車の中で読むことが可能な本であるし、それぞれにとって父母(ちちはは)の記は確かに面影でしかないことを思い知らされた本だ。

魔女:加藤恵子