魔女の本領
読むに値する書ではある…

ザビエルと被差別民

『宣教師ザビエルと被差別民』


現代においても、差別という問題は簡単には語れないし、差別をなくす取り組みがなされていても、いまや経済格差が差別へと地続きになっている。そんな時、タイトルに惹かれて読んでみた。

著者は差別論の第一人者であった。彼の著作も何作かは読んでいる。氏は2015年に亡くなられていて、いわば遺作という意味がある著作となった。しかし、残念ながら完成した著作となっていないことで、些かタイトルの意味を満足させるものとはなっていないのは残念である。氏については開設で初めて知ったが、歴史学者ではなかった。東大英文学出身で、学生運動の過程で安東仁兵衛、堤清二、網野善彦らと共に行動した。その後東京の下町、大森の中学の英語教師となり、さらにその後桃山学院大学の教員となったのだと言う。

大学教員となってから、日本における被差別部落の調査研究を専門として、活発に著作が発表された。この当時は知っている。しかし、当時の氏の研究は、同じ時期に脚光を浴びた網野善彦氏の中世賤民の躍動する姿を映し出すものになっていない感じがして、あまり沖浦の名前は広がらなかったと思う。氏は70年代インドへの渡航によって被差別問題に注目することになったのだそうだが、氏の着眼点は網野とはことなりアジア諸地域での差別と被差別民の文化、芸能に注目したことにある。氏は最後の仕事として、ザビエルの本を書くことを目指して、叶わなかったということのようだ。その残照がこの著作に残されている。

本書の三分の二は日本における差別の歴史である。それはいまやだれでも知っている歴史的事実の記述であり残念ながら新しい見解はほとんど書かれていない。むしろ雑な羅列でしかないと言ってもいいだろう。その点を考慮に入れて、それでも読む価値があると思われる、ザビエルの布教と明治に至るまでの弾圧下で、信仰を守り殉教した人たちの事例から、特に「らい者」の存在を特別に光をあてて書いたことは意味があると思われる。

ザビエルのアジアでの布教活動が総じて下層民、特に漁撈民が対象であったと言う点には全く知らなかった。著者はその理由をザビエルが少数民族のバスク人でバスク地方に根強くあったヤコブ信仰が作用していると書いている。ヤコブとは12使徒の中でも早くからイエスに従った弟子でヨハネと兄弟である。兄弟はガリラヤの漁夫であった。ヤコブはキリスト教を容認しなかったユダヤ王ヘロデ・アグリッパの迫害によってパレスチナで殉教した。遠くイベリア半島まで伝道し、数々の奇蹟を起こしたと言う話が語り伝えられている。若き日のザビエルの信心にも、この漁師ヤコブの像が刻み込まれていた。それ故東南アジアでも、また来日した後も、海人との関係があるのではないかと言う指摘がされている。

その一つの理由としてあげられているのは、ザビエルを日本へ手引きしたアンジローという人物は東南アジア→中国→琉球→九州を結ぶ密輸を中心にした交易ルートで活躍した海商であろうと推測している。鹿児島から始まる布教は短時間で約百人がキリシタンに改宗したと言う。そこにはアンジローの領主島津貴久とザビエルの会見を実現させた手腕と下層武士階級出の受洗者ベルナルド(日本で第一号のキリシタン)の活躍があるようだ。彼はポルトガル語を学び教理を理解した。そしてザビエルの布教の旅に同動し、ザビエルが日本語で説教するように説教集を作成した。このような事例はザビエルのキリスト教布教にインスパイアーされた日本人の働きがあったことの証明にはなるが、実際の入信者がどの層に集中していたのかまでは証明し切れていない。ザビエルの日本滞在は2年ほどであるが、この間にキリスト教に改宗した人数が二万人程と言う事は急激な拡大と言えるのかどうかは判然としない。この著作を読みながら、どこかに出て来るのではないかと思いながら、終に出てこなかった点がある。それは所謂被差別民である河原者、その中で芸能を行なう者についてなのだが、学魔高山師が常日頃言っている事なのだが、出雲阿国が舞台で踊っている絵巻になぜ芸能を研究するものが注目しないのか?と言う事なのである。お国の胸元には大きなクルスが掛けられている。これは推測の域を充分越えられる表象としての河原者のキリシタンの証明だと思うのだ。

キリスト教渡来時に国内で下層民の多くを組織していたのは浄土真宗(一向宗)であり、戦国時代にその勢力は絶大で、宗教理念は「悪人正機」説に象徴されるように野山で獣を殺し、海で魚を獲り生活の糧とする層を賤視する意識を払しょくする平等で結束の強固な宗教集団であった。この思想に対峙した信長がキリスト教に接近したのではないかと言う説もある。この一向宗徒の中にはキリスト教は入り得なかったようである。それ故、一向宗の強固な地域から離れた地域へ教線がのばされたようである。

さて、筆者が強く意識して書かれているらい者の救済について、仏教においては古くから取り組まれていたことは歴史的に知られている。奈良時代の光明皇后の悲田院・施薬院の設立や「らい者」のうみを吸ったという言い伝えもある。しかし、次第にもっとも差別される対象になり、見捨てられてゆく。このらい者を含む最下層の人々にイエズス会は視線を向けた。

イエズス会は布教戦略の一環として、有力大名の入信にも力を入れたが、イエスの隣人愛の教えを実践するために、貧しい窮民の間で精力的に布教し、特に老弱者・孤児・病人の救済活動に全力を傾けた。漂泊の遊芸民や賤民層からの入信者も少なくなかった。

そのことは、布教の最前線で活動した日本人の布教師が、目の不自由な琵琶法師のロレンソ了西、盲人のダミアン、遊芸民のトビアス、針売り行商人のマテウスであったことに象徴されている。さいごまで信仰を守り通して殉教した者は、4,5万人と推定されているが、その中には「らい者」もかなり含まれていたのである。「天草・島原の乱」で原城に拠って全滅した二万数千人の大半は貧しい農民と漁民の信徒だった。彼らはもはやこの俗世では救いはないと考え、天国でイエスの愛に抱かれることを望んだのだ。

またフランシスコ会は、京都・大坂・堺・和歌山・江戸など十カ所に宣教拠点を設け、七か所に病院を建設しているが、その多くは救らいのための施設だった。迫害時代に入っても、フランシスコ会は特に東北地方での布教に力を尽くした。

このようにザビエルの布教の軌跡をたどってみると、この日本においてもイエズス会は、農漁村の貧しい民と卑賤視されていた人々、それに孤児とらい患者に布教の重点をおいたことがわかる。

日本最初の外科・救らい病院を府内(現大分市)で開設したユダヤ系ポルトガル人のルイス・アルメイダ(1525〜1583)は、1548年にインドに渡って海商として活躍して財を成した。海商民として成功したのだが、今後何を目標にして生きていくのか、心の中で悩んでいた。たまたまイエズス会士のB・ガーゴと同船して、その布教活動の実態を聞いて感銘を受けた。1552(天文21)年に来日すると、55年には全財産を投じて府内に乳児院を開き、56年にはイエズス会に入って、その翌年に救らい病院を建てた。かつて学んだ医学を生かして自ら治療に当たるとともに、日本人医師の養成にも努めた。子供たちのためのカリキュラム、病院の施設や看護体制なども、残された資料によってその概要がわかっている。

その後、天草と島原を中心に布教して、81年には司祭として天草地区の院長になったが、83年10月に天草の河内浦で波瀾万丈のその生涯を終えた。{天草・島原の乱}で決起した天草の信徒の多くは、このアルメイダの教えを受けて入信した村人であった。大分県医師会の病院は、医師兼伝道者としてのアルメイダの仁徳と実践を高く称えて、アルメイダ病院と名付けている。

この慈善事業を広く実践するためには司祭や修道士などの聖職者だけでは行ないえない。それを支えたのが「慈悲の組」という信徒組織であった。本格的に「慈悲の組」が組織されたのは、長崎・京都・堺など多くの信徒がいる都市であった。会員の中から役員が選ばれ、会則と団旗が制定された。誇示・寡婦をはじめ貧者への奉仕が主な仕事であったが、救らい活動も重要な任務だった。いずれにしても、戦国末期の仏教の教えでは救うことができなかった「棄てられしもの」であった「らい者」の救済という点で、キリスト教は大きく寄与していた。その後天草・島原の乱後の弾圧の時代にも、

「慈悲の組」に入って積極的に孤児・老弱者・病人などの救済事業に従事し、布教の最前線で活躍した信徒の中から、殉教者が多く出た。十字架にかけられたイエスへの信仰が、苦しんでいる隣人への慈悲として結実した人々であったから、西洋文化にあこがれて漫然と入信した形だけのキリシタンではなかった。彼らは迫害期に入ると、殉教にそなえて堅忍不抜の信仰心を養うために「信心会」へ結集していたのであった。迫害期のらい者とキリシタンとの関係は多くは伝聞であり、証明が出来難いが、キリシタンをかくまうらい者という構図はあながち間違いとは言えないであろう。さらに江戸をはじめ各地でらい者が殉教していった状況も有るようだ。(姉崎正治著『切支丹伝道の興廃』第20章)とうぜんのことながら被差別層にもキリシタン入信は存在した。特に九州では少なくなかった。大分県大野町の被差別部落の墓には、23基のキリシタン墓の存在が認められると言う。また、ローマへの報告書によれば、1622(元和8)年、長崎で55人のキリシタンが処刑された。その際、刑吏役を課せられたエタに、奉行が処刑の設備を用意するように命じたが、彼らはこれを拒否した。「斯かる仕事は、日本に於いては通常最も卑賤の階級なる皮剥人の行なう処なり、されど彼らは之を拒否せり、其の大半がキリスト教徒なりし為なりき」とあるそうである。

最後に親鸞聖人の平等観と慈悲の組の主たる精神を書いておこう。

親鸞聖人。『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』
「屠はよろづのいきものをころしほふるものなり。これはれうしといふものなり。沽はよろづのものをうりかふものなり。これはあき人なり。これらを下類といふなり。れうし、あき人、さまざまのものは、みないし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり。」

『ドチリナ・キリシタン』
○色身(しきしん=肉体)にあたる七の事
一には、飢へたる者に食を与る事
二には、渇したる者に物を飲まする事
三には、膚(はだへ)をかくしかぬる者に衣服を与る事
四には、病人をいたはり見舞ふ事
五には、行脚の者に宿を貸す事
六には、とらわれ人の身を請くる事
七には、死骸を納むる事、是なり。

最良の書と言うわけではないが、読むに値する書ではある。

注記:現在、らい者という書記はされない。ハンセン病と表記されるべきである。また差別される対象であったことは事実であるが、現在では感染性も低く、治療も確立されている病である点について配慮されたい。

魔女:加藤恵子