情熱の本箱
藤原定家の百人一首vs塚本邦雄の百人一首、軍配はどちらに:情熱の本箱(169)

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藤原定家の百人一首vs塚本邦雄の百人一首、軍配はどちらに


情熱的読書人間・榎戸 誠

独自の観念世界を紡ぎ出した異形の歌人・塚本邦雄が藤原定家に挑んだ歌合わせの書と聞き及び、興味津々で『新撰 小倉百人一首』(塚本邦雄著、講談社文芸文庫)を手にした。

定家が撰した小倉百人一首は凡作ばかりだと公言してきた塚本が、定家が撰んだのと同じ歌人たちを俎板に載せ、自分ならこちらの秀歌を採ると、満を持して発表したのが本書である。そして、定家と自分のいずれが勝者かの判定は読者に委ねるというのである。

和歌に精しくない私だが、不遜にも、読者の特権を行使して判者の真似事をしてみようと思う。

山邊赤人の「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」には、「春の野に菫採(つ)みにと来しわれぞ野をなつかしみ一夜(ひとよ)ねにける」が配されている。「めでたくうひうひしい調べだ」。「小倉百人一首の『田子の浦』は、・・・定家は、撰進当時は大して認めてもゐなかつたやうだ。結句の『降りつつ』が改善か改悪かは異論の生ずるところであらう。私は万葉集歌(『雪は降りける』)を採る」。私は、塚本の勝ちとする。

在原業平朝臣の「ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」には、「狩りくらし七夕(たなばた)つ女(め)に宿借らむ天の河原にわれは来にけり」。「業平はたゆたひも見せず、このやうに歌つて、(惟喬親王の)命に応へた。さすがと手を打ち、歎声があちこちに響いたらう」。「『神代もきかず』は、業平の別の一面を現す歌に過ぎまい。古今集の秋下の、あまた紅葉の歌の中でも、さほど見映えのする作とは思へない。第一、龍田川が、川水を纐纈にするのは、神代からのことであつたらうに」と、手厳しい。定家の撰歌は、漢詩全盛の時代に「和歌の美を蘇らせ、みづみづしい命を伝へた天才」業平にふさわしくないというのだ。これは塚本の勝ちだろう。

右大将道綱母の「なげきつつひとりぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る」には、「春の野につくるおもひのあまたあればいづれを君が燃ゆるとか見む」。「大胆に、『君が燃ゆるとか見む』としたところも、才媛の面目明らかだ。放火して廻る浮気な風流貴公子ゆゑに、『君が燃ゆるとか』と言つた方が、遥かに手きびしいだらう。彼女は(夫)兼家よりほぼ十歳年下のはず、この当時二十歳になるならずゆゑ、したたかな力倆だ」。「(百人一首)歌そのものは、何となく、躙り寄つて、いかに、いかにと言ひ募る趣、いささか嫌みではなからうか」。これも塚本の勝ち。

和泉式部の「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」には、「秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ」。「詞花集の秋、秋風の歌群の中に一際冱え冱えとこの歌は立ち混つてゐる。・・・古歌の中に、秋風によつて草木が色づくことを主題や素材としたものは数知れないが、秋風そのものの色をテーマとしたものは稀有であつた。『秋吹くは』の初五を持つ歌が、和泉式部のこの作以外に伝はつてゐないゆゑんは、すなはち、彼女があらゆる点で独自であり、強烈な個性の持主であつたことの、證明の一例と考へてもよからうか」。「百人一首歌も晩年の作ながら切切の情、人を搏つが、詩華として選ぶならば、いくらでもこれを越える歌があらう。否、多過ぎて択りわづらふくらゐだ」。これも塚本の勝ち。

大貳三位の「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」には、「はるかなるもろこしまでも行くものは秋の寝覚(ねざめ)の心なりけり」。「単に、大貳三位一代の傑作であるばかりではない。王朝女流の代表作十首の中に入るだらうし、二十一代集の秋歌中、これぞと思ふ絶唱をすぐつた時も、多分十首以内に数へねばなるまい。それほど、この歌簡潔にして爽快、調べ朗朗として、響き遥けく、しかも澄み切った、淡いかなしみさへ湛へてゐる」と絶賛されている。「(百人一首歌は)彼女の軽快で、当意即妙の才気のみちらりと見えるだけの歌で、代表作には遠い。・・・軽快な調べは、同時に、免れがたく軽薄で真実味に欠けるやうだ」。これも塚本の勝ち。

皇太后宮大夫俊成の「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山のおくにも鹿ぞ鳴くなる」には、「またや見む交野(かたの)の御野(みの)の桜狩花の雪散る春のあけぼの」。「(多くの歌人の)秀作ひしめく落花詠群の中にあつて、俊成の交野の桜狩は、その陶酔的な調べによる、法悦に近い夢幻境の表現において、比類を見ぬものだ」。「百人一首歌はいかにも暗く重く、私は採らない。俊成一代の作品中でも、殊に臭みのある嫌な歌だ」。これも塚本の勝ち。

西行法師の「なげけとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」には、「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」。「『さやの中山』は丈高く、かすかに悲痛な響きを帯びながら、述懐調の翳りなく、西行の優しいますらを振りの十分に現れた秀作である」。「百人一首歌は・・・とても恋とは思へない。精精老人述懐であらう。第一、この歌上句で意も情も尽きてしまつてゐる。下句はくどい。念押しとことわりで調べそのものが乱れた。俊成すら、さして高くは買つてゐない。凡作である」。これも塚本の勝ち。

後京極摂政前太政大臣(藤原良経)の「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」には、「幾夜われ波にしをれて貴船川袖に玉散るもの思ふらむ」。「良経の一首の命は第四句に在つた。・・・『玉散る・もの思ふ』の、離れつつ連なり、絡み合ひつつ前後する意味と調べの絶妙な重なり。まさに天才良経の水際立つた技倆の見せどころであつた」。「百人一首歌は新古今集秋下で院初度百首の秋二十首の中。恐らくこの百首を通じて、最も曲のない、最も良経の詩才の朧な、個性の見えぬ作の一つだ」と、痛烈である。これも塚本の勝ち。

権中納言定家の「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」には、「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」。「(新古今集秋上には)古歌秋夕の詞華ここに集まるの観がある。その中にも、断然あたりを払ふのは定家の(この)一首だ。・・・何もないことの安らぎと充足感、と言ふより、花と紅葉の存在を打消すことによつて生れた『虚(ヴァカンス)』の、存在を越えた豊かさが、この一首の命だ」。「(百人一首歌の)歌そのものは煩しくうるさい」と、一刀両断のもとに切り捨てているが、定家という偉大な歌人の先達に対する敬意はいささかも失っていない。それどころか、塚本にとっての定家とは、敢えて挑戦することによって自分を鍛えるための、そして、自分の存在意義を再確認するための屹立する巨大な壁だったのではないか、そんな気がする。

百人一首の歌は、いずれも調べはいいが、心に響くものが少ないというのが、長いこと、私の印象であった。もったいぶった入門書で学ぶよりも、本書を読み通すことのほうが、和歌の本質に遥かに迫ることができるだろう。