情熱の本箱
中島敦が描いた、ロバード・スティーヴンスンのサモアでの晩年:情熱の本箱(173)

中島敦

 

中島敦が描いた、ロバート・スティーヴンスンのサモアでの晩年


情熱的読書人間・榎戸 誠

『山月記』と『李陵』で知っているつもりになっていた中島敦とはいささか異なる中島敦を、『光と風と夢』(中島敦著、ちくま文庫『中島敦全集(1)』所収)の中で発見した。

『光と風と夢』は、気管支喘息のために33歳で亡くなった中島が、結核に悩まされ続け、44歳で脳溢血により死去したロバート・ルイス・スティーヴンスンの南太平洋・サモア諸島のウポル島での晩年を、地の文と日記体で描いた小説である。

本作品全体から、中島のスティーヴンスンに対する敬愛の念が伝わってくるが、中島がスティーヴンスンにここまで惹かれたのは、何ゆえだろうか。共に呼吸器疾患に悩む患者としての親近感だろうか、南方の島での転地療養に対する憧れだろうか、サモア原住民に対する白人の差別と闘うスティーヴンスンの姿勢への共感だろうか、それとも、スティーヴンスンの作品に対する敬意だろうか。

「此の島に来た最初から、スティヴンスンは、此処にゐる白人達の・土人の扱ひ方に、腹が立って堪らなかつた。サモアにとつて禍なことに、彼等白人は悉く――政務長官から島巡り行商人に至る迄――金儲の為にのみ来てゐるのだ。これには、米・英・独、の区別はなかつた。彼等の中誰一人として(極く少数の牧師達を除けば)此の島と、島の人々とを愛するが為に此処に留まつてゐるといふ者が無いのだ。スティヴンスンは初め呆れ、それから腹を立てた。植民地常識から考へれば、之は、呆れる方がよつぽどをかしいのかも知れないが、彼はむきになつて、遥かロンドン・タイムズに寄稿し、島の此の状態を訴へた。白人の横暴、傲岸、無恥。土人の惨めさ、等々。しかし、此の公開状は、冷笑を以て報いられたに過ぎなかつた。大小説家の驚くべき政治的無知、云々」。

原住民たちから、スティーヴンスンが「ツシタラ(サモア語で<物語の語り部>)」と慕われたのも当然だろう。

私にとって、とりわけ興味深いのは、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作者として知られるスティーヴンスンの文学観が垣間見られることである。

彼は、自分の作品が大衆の間で人気を博していても、批評家たちから文学作品としては低評価しか得られていないことを十分認識していたのである。

「何と云はれようとも、俺は俺の行き方を固執して俺の物語を書くだけのことだ。人生は短い。人間は所詮Pulvis et Umbraぢや。何を苦しんで、牡蠣や蝙蝠共の気に入るために、面白くもない深刻な借物の作品を書くことがあらう。俺は俺の為に書く。たとへ、一人の読者が無くならうとも、俺といふ最大の愛読者がある限りは。愛すべきR・L・S・(=スティーヴンスン)氏の独断を見よ!」。

「だが、私は、どうしても芸術家としての自分を大したものと思ふことが出来ぬ。限界が余りに明かなのだ。私は自分を単に昔風の職人と考へて来た」。

「私は、小説が書物の中で最上(或ひは最強)のものであることを疑はない。読者にのりうつり、其の魂を奪ひ、其の血となり肉と化して完全に吸収され尽すのは、小説の他にない。他の書物にあつては、何かしら燃焼しきれずに残るものがある」。

「私の今の人気(?)が何時迄続くものか、私は知らない。私は未だに大衆を信ずることが出来ない。・・・正直な所、私は彼等を信用してゐないのだ。しかし、それなら私は一体誰の為に書く? 矢張、彼等の為に、彼等に読んで貰ふ為に書くのだ。その中の優れた少数者の為に、などといふのは、明らかに嘘だ。少数の批評家にのみ褒められ、その代り大衆に顧みられなくなつたとしたら、私は明らかに不幸であらう。私は彼等を軽蔑し、しかも全身的に彼等に凭りかかつてゐる。我が儘息子と、無知で寛容な其の父親?」。

「真実性と興味性とを共に備へたものが、真の叙事詩だといふことだ。之をモツァルトの音楽に聴け!」。

「読者を納得させるのがリアリズム。読者を魅するものがロマンティシズム」。

「俺が下らない文学者だと? 思想がうすつぺらだの、哲学が無いのと、言ひ度い奴は勝手に言ふがいい。要するに、文学は技術だ。概念で以て俺を軽蔑する奴も、実際に俺の作品を読んで見れば、文句なしに魅せられるに決つてるんだ。俺は俺の作品の愛読者だ。書いてゐる時は、すつかり、厭な気持になり、こんなものの何処に価値があるか、と思へる時でも、翌日読返して見れば、俺は必ず俺の作品の魅力にとらはれて了ふ。俺は、ものを描く技術に自信を有つていいのだ。お前の書くものに、そんなに詰まらないものが出来る筈はないのだ。安心しろ! R・L・S・!」。

スティーヴンスンの創作の方法も明らかにされている。「其(15〜16歳)の頃から、彼は外出の時いつも一冊のノートをポケットに持ち、路上で見るもの、聞くもの、考へついたことの凡てを、直ぐ其の場で文字に換へて見ることを練習した。其のノートには又彼の読んだ書物の中で『適切な表現』と思はれたものが悉く書抜いてあつた。諸家のスタイルを習得する稽古も熱心に行はれた。一つの文書を読むと、それと同じ主題を種々違つた作家の文体で以て幾通りにも作り直して見た。かうした習練は、少年時代の数年に亘つて倦まずに繰返された。少年期を纔(わず)かに脱した頃、未だ一つの小説をも、ものしない前に、彼は、将棋の名人が将棋に於て有つやうな自信を、表現術の上に有つてゐた」。

「哀れな大小説家R・L・S・氏は斯うした幼稚な空想以外に創作衝動を知らないのである。雲のやうに湧起る空想的情景。万華鏡の如き影像の乱舞。それを見た儘に写し出す(だから、あとは技巧だけの問題だ。しかも其の技巧には充分自信があつた)。之が、彼の・唯一無二の・此の上なく楽しい創作方法であつた。之には、良いも悪いもない。他に方法を知らないのだから」。

スティーヴンスンと妻の関係も、なかなか興味深い。「ファニイの・前夫との離婚成立を待って漸く結婚した。時にファニイは、スティヴンスンより11歳年上の42。前年娘のイソベルがストロング夫人となつて長男を挙げてゐたから、彼女は既に祖母となつてゐた訳である。斯うして、世の辛酸を嘗めつくした中老の亜米利加女と、坊ちやん育ちで、我儘で天才的な若いスコットランド人との結婚生活が始まつた。夫の病弱と妻の年齢とは、しかし、二人を、やがて、夫婦といふよりも寧ろ、芸術家と其のマネーヂャアの如きものに変へて了つた。スティヴンスンに欠けてゐる実際家的才能を多分に備へてゐたファニイは、彼のマネーヂャアとして確かに優秀であつた。が、時に、優秀すぎる憾がないではなかつた。殊に、彼女が、マネーヂャアの分を超えて批評家の域に入らうとする時に」。

読み終わって、スティーヴンスンも中島も、ますます好きになってしまった私がいる。