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清少納言が枕草子を書いた本当の理由:情熱の本箱(195)

枕草子

清少納言が枕草子を書いた本当の理由


情熱的読書人間・榎戸 誠

清少納言は、鋭い観察眼と巧みな表現力に恵まれた平安時代の随筆家だと単純に思い込んでいたが、『枕草子のたくらみ――「春はあけぼの」に秘められた思い』(山本淳子著、朝日選書)によって、彼女が『枕草子』を書いた本当の理由を知ることができた。

後宮の女房としては清少納言の後輩に当たる紫式部は、『紫式部日記』の中で、『枕草子』は無理に個性に走った作品であり、作者が風流ぶるあまり、現実を無視して殊更に風流ばかりを拾い集めて書いたものだ、と強く批判している。「清少納言の周辺に起こった何か過酷な事情を、同じ時代を生きた紫式部は知っていた、そして彼女の常識で判断する限り、その過酷さは、風流だの趣だのの入り込む隙などない絶望的なものであった。だが、そこにおいて清少納言は、紫式部が指摘したとおりに、美や光や笑い、感動やときめきばかりを書いた。彼女の性格のなせるものという見方もあろう。実際に、無意識による部分もあるだろう。だがそれだけではない。これは清少納言がはっきりと意識的に採った企て、いや紫式部の側からすればたくらみだった」。

「清少納言は正暦4(993)年から一条天皇の中宮定子のもとに仕え、やがて『枕草子』の執筆を始めた。紫式部が知っていた過酷な背景は、この定子に関わる。定子は、一条天皇の最愛の后であるとともに、悲劇の后だったのである」。

990年、時の最高権力者・藤原道隆の娘・定子は、14歳で一条天皇の中宮となる。一条天皇より3歳年上の彼女は明るく知的で、どちらかと言えば内気で学問好きな天皇の心を捉える。この時、定子と中関白家(なかのかんぱくけ。道隆の家)は栄華の極みにあったのである。

ところが、995年に道隆が43歳で死亡し、道隆の末弟・藤原道長が最高権力者になったことで、定子の運命は暗転する。道長が娘・彰子(定子より11歳年下)を一条天皇の中宮に押し込み、彰子が産む皇子を天皇にしようと画策し、定子に辛く当たったからである。定子は20歳で出家するが、天皇は定子への思いを断ち切れず、後宮に呼び戻す。内親王、親王(皇子)、内親王と3人の子を儲けるが、24歳で死去。「この人生を、なんと形容すべきだろう。浮かぶのはおそらく、波瀾や苦悩という言葉ではないか。にもかかわらず、定子を描く『枕草子』は幸福感に満ちている。紫式部が違和感を唱えるのも、決して筋違いとは言えないのではないだろうか」。

清少納言は、なぜ『枕草子』を書いたのだろうか。「能因本系統の『跋文』からは、次のことが知られる。この作品がもともと定子の下命によって作られたこと、定子が清少納言独りに創作の全権を委ねたこと、そして二人はこの新作に『史記』や『古今和歌集』の向こうを張る意気込みを抱いていたこと。下命による作品は下命者に献上するものであるから、執筆した後は、清少納言はこれを定子に献上したはずである。つまり『跋文』にしたがう限り、『枕草子』とは定子に捧げた作品であったのだ。『枕草子』の執筆が本格的となったのは、定子が長徳の政変によって出家した後の長徳2年頃のことである。さぞや定子は絶望的な状況にあったに違いない。その彼女の前に清少納言は『枕草子』を差し出した。ならば、それが感動やときめきに満ちたものであったのは、定子を慮ってのことに違いない。中宮の悲嘆に暮れる心を慰めるためには、今・ここの悲劇的現実に触れないことこそ当然ではないか。また、本来の企画が定子後宮の文化の粋を表すことにあったことも思い出さなくてはならない。中関白家と定子は、華やかさと明るさを真骨頂としていた。それに清少納言独特の個性が重なり、『枕草子』は闇の中に『あけぼの』の光を見出す作品となったのである。これを読んだ定子や女房たちは、自らの文化を思い出して自信を取り戻すことができたのではないだろうか」。

清少納言は、なぜ定子の死後も『枕草子』を書き続けたのだろうか。「いくつかの章段に時折現れる過去を振り返る口調からは、定子死後という時間の経過が実感される。清少納言は定子の死後も、輝かしかった定子サロン文化を書き留めるという執筆方針を変えなかった。下命者その人を喪っても、定子に捧げるという思いを貫いたのだ。執筆は、長く続けられた。・・・定子の死後、実に9年を経ても、清少納言は『枕草子』を書き続けていたのだ。紫式部が『紫式部日記』の清少納言批判を記したのは、この翌年のことだ。・・・何はさておき、定子のために作ったのだ。定子の生前には、定子が楽しむように。その死を受けては、定子の魂が鎮められるように。皆が定子を忘れぬように。これが清少納言の企てだった」。『枕草子』は、喪われたものへの鎮魂の書、すなわち挽歌であると同時に、定子の素晴らしさを世に広める宣伝の書、すなわち讃歌だったのだ。

だが、清少納言一人の企てはやがて世を巻き込み、恐らくは清少納言の予測もしなかった方向へと進んでいくことになる。「社会はこの作品を、定子の死後も受け入れ、握りつぶそうとしなかった。定子の生前には彼女を困りもの扱いした貴族社会だが、彼女の死後まもなく、態度を一変させる。かつて定子を迫害した藤原道長は、罪悪感から怨霊に怯えるようになった。道長に与した貴族たちは、やはり罪悪感の裏返しだろう、定子への同情を唱えるようになった。若者たちは、無常感と無力感に駆られて出家した。定子の死は社会全体に衝撃をあたえたのだ。そんななか、美しい定子の記憶だけをとどめる『枕草子』は、むしろ社会を癒やす作品として受け入れられたのだと考える」。

定子の死後、後ろ盾のない清少納言は、どのような戦略・戦術を採用したのだろうか。「『枕草子』は、これらの(道長側からのいじめの)事実には一言も触れない。なぜだろうか。それは、この作品を守るためと考える。『枕草子』は、定子亡き後、道長権力のもとで生き延びなくてはならなかった。強固な後ろ盾のない清少納言が個人で書き、世にリリースして、広まるのを待つ。その細々とした営みは作者にとって、事によっては容易に途絶えるものと感じられただろう。だからこそ『枕草子』の中には、道長への直接の恨み言は一言も書かれていない。『枕草子』は、世との折り合いをつけて生き延びるために、いま現在権力の側にいる者たちには、ことさらに矛先を向けなかったのだ。権謀術数の渦巻く中にありながら『枕草子』の視界が清少納言周辺にとどまり、日常の些細な事柄ばかりを描いているように見えるのは、清少納言の関心が日常にあったからという理由によるだけではない。政治でなく些事を描く。それこそが、寄る辺なき『枕草子』の取ったサバイバル戦術だったのである」。清少納言は、彰子については一言も、その影すら『枕草子』に記していない。紫式部に批判された『枕草子』の現実味のなさには、それだけの理由があったのである。

悲しい時こそ笑いを、挫けそうな時にこそ雅を。敬愛する定子のためにこの作品を創り出した時の思いそのままに、歯を食いしばりながら、一条朝の最先端を疾走した定子の文化とその人生そのものを『枕草子』に永久保存し、貴族社会に送り続けるという自らに課した使命を全うした清少納言に、あなたは見事にやり遂げましたねと声をかけたい。