情熱の本箱
初めて夫に欲望を感じた妻が、夫の本心を知ったとき:情熱の本箱(196)

不機嫌な女

初めて夫に欲望を感じた妻が、夫の本心を知ったとき


情熱的読書人間・榎戸 誠

何気なく手にした『不機嫌な女たち――キャサリン・マンスフィールド傑作短篇集』(キャサリン・マンスフィールド著、芹澤恵訳、白水社)を読み終えた時。キャサリン・マンスフィールドという未知の作家に出会えた幸福感に満たされた。

マンスフィールドは、巻末の解説で、このように紹介されている。「キャサリン・マンスフィールドは、つねに読者を新たな驚きで打ちのめす。生まれついての気質、波乱に満ちた人生、そして独特の芸術観と人生観。それらが混然一体となって紡ぎ出された物語は、繊細な感受性と鋭敏な知性に裏打ちされ、さらには辛辣な皮肉にも彩られている。しかし、じつに奥が深い」。

収められている13篇はいずれも粋が凝らされているが、とりわけ印象深いのは、初めて夫に欲望を感じた妻が主人公の『幸福』と、裕福な女性が貧しい女性に嫉妬の炎を燃やす『一杯のお茶』である。

『幸福』は、こういう物語である。

「(30歳の)バーサ・ヤングは生まれて初めて、夫に対して欲望を覚えた。もちろん、夫のことは愛していた。恋しいと思っていた。ありとあらゆる意味で、夫に対してこんなふうに感じたことは、これまで一度もなかったけれど。もちろん、夫のほうは欲望をいつも感じている。そのことは理解しているつもりだった。バーサ自身、自分がそういう面では熱くなれないことを最初のうちは気に病んだ。けれども、しばらくすると、そんなことは問題ではないと思うようになったのだ。互いに対してあくまでも率直でいられて、ふたりは、言ってみるなら親友同士なのだから。それこそ、現代的であることの最大の利点なのだから。それが今、この瞬間、燃えあがったのだ。熱く、熱く! 熱く燃えあがったバーサの身体の奥で、そのことばが疼いていた。あの圧倒されそうなほどの幸福感は、ここに行き着くための前ぶれだったのだろうか? でも、だとしたら。だとしたら――」。

晩餐に招いた客たちを見送りながら、全員が帰っていったらベッドで・・・と昂っているバーサは、何気なく玄関ホールに目を向けた時、夫と、彼が「退屈な女、頭の血の巡りが悪い女」と決めつけていたミス・フルトンを見てしまったのである。「ミス・フルトンのコートを拡げて持つハリー(バーサの夫)と、彼に背中を向けてうつむくミス・フルトンの姿を。ハリーがコートを脇に放り投げ、彼女の両肩に手をかけて、自分のほうに強引に振り向かせるところを。彼の唇が『好きでたまらない、きみのことが』と動き、ミス・フルトンがあの月光の滴る指先でハリーの両頬をそっと撫で、眠たげな笑みを浮かべるところを」。これから先は、私にはとても書けない。

『一杯のお茶』は、「ローズマリー・フェルは、厳密に言えば美人ではない。そう、彼女を美人と呼ぶことには無理がある」と、始まる。

「彼女は若く、あでやかで、すこぶる現代的で、洗練された着こなしに長け、新刊書のなかでも最新の作品に驚くほど通じ、彼女がパーティーを催せば本来の重要人物に混じって、一風変わった、いわゆる、その・・・芸術家たちが集い、実に興味深く、贅沢な顔ぶれとなる。・・・ローズマリーは2年まえに結婚し、かわいい息子がひとりいる。夫は彼女のことを無条件に崇拝している。そして、フェル夫妻は裕福だった。文字どおり豊かで、余裕があり、快適な暮らしが成り立つレベルをはるかに超えていた」。

ある冬の雨の黄昏時、気に入りの骨董店を出たローズマリーは、影のように立っている、黒い髪の、痩せた若い女から声をかけられる。「女は痛々しいほど痩せて、眼が大きく、面やつれしていた。赤くなった手で外套の襟元をかきあわせて、ついいましがた水からあがったばかりというように身を震わせている。『お、お、奥さま』。女はつっかえながら言った。『お茶を飲むお金をいただけないでしょうか?』。『お茶を?』。女の声音には、率直で真摯な響きがあった。少なくとも、ただ単に金銭をせびるだけの物乞いの声ではなかった」。

ローズマリーは、一緒にお茶を楽しもうと、女を家に連れて帰る。「彼女(ローズマリー)としてはこの娘に実感してもらいたいのだ。人生には時としてすばらしいことが起こりえるということを。困っているときに手を差し伸べてくれる親切な妖精は本当にいるのだということを。裕福な者にも真心というものがあるということを。そして女はみんな姉妹だということを」。

「軽食の効果はてきめんだった。お茶のテーブルが片づけられたとき、ローズマリーの眼のまえの人物は生まれ変わっていた。もつれた髪に血色の悪い唇、暗くよく光る眼をした色白の、見るからにはかなげな様子の若い女は、満ち足りた倦怠感をまとい、大きな椅子の背にもたれて暖炉の火を見つめていた」。

そこにフィリップ(ローズマリーの夫)が入ってくる。

フィリップはローズマリーを図書室に連れ出し、こう言ったのだ。「『あの人は誰が見たって、まちがいなく可憐な美女だよ。もう一度見てごらん。さっき、きみの部屋に入ったとき、ひっくり返りそうになったよ』。・・・かわいいですって? 誰が見たって、まちがいなく可憐な美女ですって? ひっくり返りそうになった、ですって?・・・大きな鐘のように、心臓が鳴っていた。かわいいだなんて、可憐だなんて!」。

この後、ローズマリーが取った行動は・・・。

どの作品でも、著者の意地の悪い目が光っている。こういうユニークな作家が存在したことを知らなかった自分の迂闊さに、我ながら呆れている。