魔女の本領
これは現代の黙示録かもしれない…

 

大量殺人

『大量殺人の“ダークヒーロー”――なぜ若者は、銃乱射や自爆テロに走るのか?』


なぜだ?と思い続けていた現在のテロリズム。真の本質をつかめたかもしれない。そして解決策はどこにあるか?

『大量殺人の“ダークヒーロー”――なぜ若者は、銃乱射や自爆テロに走るのか?』フランコ・ベラルディ(ビフォ)著 杉村昌昭訳 を読む。

すさまじいタイトルの本なので、これが哲学書だとは思われないだろう。新聞の批評にだって登場していない。しかしこれは現代の黙示録かもしれない。筆者はこれまた有名な社会活動家なのだが、その事が有利に働いている面は、専門家という研究者の専門分野から横断的に思索がなされている事。さらには活動家繋がりで、もっとも先鋭的な思想家との生の関係が本書の意味の大きさを証明している。つまりフランコ・ベラルディはビフォの名で、1970年代イタリアアウトノミア運動の中心を担った。といえば当然アントニオ・ネグリとの共闘があり、1977年そのイタリアから弾圧を逃れてフランスへ脱出して、フェリックス・ガタリらとこれまた共闘している。現代の最も重要な思想家と手を取り合って思索を深めただけではなく、彼の場合は特異なのはアメリカに渡り、その後現代にいたるインターネットなどの新メディアのネットワークを構築し、そこからまさに現代の電脳空間におこる諸現象の研究を行ない、発表し続けているという思想家としては正当派でありながら、それを電脳空間まで視野に入れた思想家である点で特異でもある。

本書の原題のほうが著者の意図を明確に示しているのである。英語版は「ヒーローたちーー大量殺人と自殺」、フランス語版「大量殺人――絶対資本主義時代における熱狂と自殺」。すなわち頻々と起こるテロ、その殺戮行為について、最近はほとんどがイスラム過激派の犯行と伝えられて、その悲惨さは伝えられ、被害者を悼む行為に重点が置かれていて、本質について深めて行く論考やメディアの論評はほぼ絶無である。ビフォが取り上げている事件はヴァージニア工科大学銃乱射事件、オーロラ銃乱射事件、カウハキヨ銃乱射事件、コロンバイン高校銃乱射事件、サンディフック小学校銃乱射事件、このあたりまではイスラムとの関連は表面化していない。その後シャルリ・エブド襲撃事件、ノールウェー連続テロ事件、パリ同時多発テロ事件、などで、その他にもかなりの数の大量殺人の事例を取り上げている。その事例の解析のためにビフォは殺人者が後に残す事を意図的にしている映像の分析を行なっている点が注目される。わたしたちも何度か見た映像は殺人者の狂気につい気持ちが動いていたことは否めない。それをビフォは生きずらさの果ての自殺なのだと指摘していて、そこへ追い詰める社会とは何かへとかれの思考は向かってゆく。

ビフォはこう書いている。

「私がもっとも衝撃を受けたのは、この殺戮行為が隠喩するものの濃密さである。つまり、これはスペクタクルと現実生活(あるいは現実の死――これは同じことに帰着する)の境界線の消滅として解釈することができるということである。

・・・私は「犯罪」と「自殺」という、ある意味で特殊な観点から、資本主義の最後の苦悶、社会的文明の解体への兆候を見た」。と。

なぜユーチューブに殺人実行声明を出し、無数の銃弾を持ち、多数の人を殺害するのか。日本では殺害行為者がその場で射殺される事例は少ない(唯一思い出されるのは、遊覧船ハイジャックの犯人射殺が思い出されるだけだ)。そのために、ビフォの意味に即座に納得し得ない点があることはある。しかしアメリカ、そして先日のスペインのテロにおいても、犯人逮捕よりは射殺して解決を図る事例が多いことを思うと、死ぬことを前提の殺戮で、いわば映像の時代の象徴のように自らの主張を公然と映像で流し、そして殺戮行為を自殺とセットで実行しているという指摘は当たっているのかもしれない。

このような犯罪としての自殺行為が出現した社会とは資本主義の行き過ぎ、新自由主義というものの内包する悪魔的抑圧構造に目を向けなければならないとビフォは主張する。つまり心理学や社会病理ということではいまや捉えきれないだろうと言うことである。

「現代のテロリズムは、確かに政治的文脈から説明することができるだろう。しかし、そうした分析の仕方だけでは不十分である。われわれの時代のもっともおそるべきものの一つであるこの現象は、何よりもまず自己破壊的傾向の広がりとして解釈されなくてはならない。もちろん「ジハード」(殉教あるいは自殺テロリズム)は一見、政治的・イデオロギー的・宗教的な理由から発動する。しかし、この修辞的外観の下には、奥深い自殺動機が潜んでいる。その引き金になるのは、つねに絶望であり、屈辱であり、貧困である。自らの人生に終止符を打とうとする男女にとって、生きることが耐えがたい重荷になり、死が唯一の解決策、大量殺人が唯一の復讐になるのだ」。

ビフォのみる現代資本主義、それが本書の中核である。いわゆる新自由主義とは社会ダーウィニズムであるということ。ここに至るまで、近代は社会矛盾に立ち向かうために理性と人間的共感、感情・苦悩・希望を共有することをもって正義とし、平等を求める可能性にかけて漸進的に発展してきた。しかしこの30年のあいだに、この社会的文明は、新自由主義的政治の世界的浸透によって崩壊してきている。強者(適者)のみが生き残り不適(合)者は挫折することは必然であるというイデオロギー(新自由主義)はあたかも自然法則の如くに社会化されてくる。経済合理主義がすべての人間的合理主義の形態を超えて君臨する。ここには勝者か負者かという社会カテゴリーしかなくなる。

さて、この新自由主義の実態とは何なのか?ビフォは記号資本主義という概念を引いている。

「人類の長期的変化から見ると、現代資本主義はヒューマニズムの時代との断絶をしるすものとして位置づけることができる。近代ブルジョアジーは神学的束縛からの人間解放の諸価値を体現するものであり、ブルジョア資本主義はこの人間革命の産物である。しかし資本蓄積の優位と生産過程の脱領土化が結合した結果、経済システムのブルジョア的性格付けの終焉をもたらすに至った。抽象的記号の生産と交換が蓄積過程の中心を占めることになった。つまり記号資本主義が工業資本主義に取って代わったのである」。そしてそれは金融資本主義が前面に立ち、生産も労働も脱領土化し、近代的なアイデンティティのないヴァーチャルな姿で現れ、その暴走とも言うべき形でグローバル化が進行し、地球規模におけるコントロールを事実上不可能にし、国家の主権性は、ローカルな権威を軽蔑し非物質的資本を一つの場所から別の場所へと移し自由自在に行動する多国籍企業に道を譲ることになった。このグローバル化が労働組合の力を破壊した。グローバル化が賃金の全般的低下に道をつけ、搾取を深化させ労働条件や労働時間に関する法律を無力化した。現在の日本社会のあれこれを思い浮かべることが可能であろう。さらに新自由主義による規制撤廃は社会を規制から解放するのではまったくなく、資本を政治的法律や社会的必要から解放し、社会が金融資本による蓄積の法則に盲目的に従属するように強制したのである。いってみれば金融経済無法者社会が私たちの生きている社会なのだ。そこにはヒューマニズム的伝統による社会は消滅したといえる。

こうした社会に顕著に表れるのが犯罪であり自殺である。自殺はもはや精神病理の個別的な表れではない。我々の時代の政治的・経済的歴史の下での自己表出である。

新自由主義の悲惨さを表す例としてすでに私たちは知っているのであるが、ビフォが挙げている事でもあり、記しておく。一つはインドの農民のモンサントの遺伝子組み換え種子をめぐる大惨事である。1995年以来25万人の農民が自殺している。インドの新聞は、この自殺の波の原因を農民の負債問題だとしているとしている。アメリカの科学・アグリビジネス企業モンサントの高価で効果のない遺伝子組み換え種子を買うために、インドの農民はローンを組む必要があるからである。この借金を返すことができずに、彼らは袋小路に陥り、唯一の解決策として自殺を選ぶのである。悲劇の原因は貿易自由化政策と企業のグローバル化であると、公然と宣言している。この「自殺経済」と名づけるものについて、「グローバル化した工業的農業による自殺経済は、三つの次元に置いて自殺的である。農民にとって、食料を奪われた貧民にとって、そして人類にとって。なぜ人類にとってかというと、われわれはこうした工業的農業によって、われわれの生存を左右する種子、生物多様性、大地と水といった自然資源を破壊しているからである。このモンサント社の蛮行は世界的に問題となり、毎年モンサント社に対する抗議が行なわれているが、日本では少数の者の抗議が実施されているに過ぎない。しかしこの事例は日本の明日に迫っているのである。2017年、日本政府は「種子法」を撤廃した。これによりモンサント社の種子の流入が容易になる。このことに気付いた者は極めて少なかった。抗議を続けていたのはわずか10名に満たない。また中国・フォックスコン社の自殺多発の例、フランステレコム社の自殺の連鎖の例が挙げられている。

近代社会の倫理的基盤は良かれ悪しかれブルジョワジーの責任性と労働者の連帯を中心に組み立てられていた。労働者は同じ利害を共有することを自覚し同僚と結びついていた。この近代的な倫理哲学は今や粉々になって散り果てた。

ポスト・ブルジョア的資本家階級は、共同体に対しても領土に対しても責任を感じていない。なぜなら金融資本主義は完全に脱領土化されていて、共同体の未来の安寧などに、いかなる関心も抱いていないからである。他方、労働者は、もはや同僚と同じ利害を共有していない。彼らは逆に、規則を撤廃された闘技場のような労働市場で、食と賃金のために、日々、他の労働者と戦わざるを得なくなっている。こうした新たな不安定労働の組織的枠組みのなかで連帯を構築することは、きわめて困難な作業になっていると言わねばならない」。

そしてビフォはこう書いている。すさまじく厳しい。

「この30年間、社会運動派近代的倫理の条件を再構築し、ブルジョア文明の基盤にあった諸価値――民主主義、職の保障、法の遵守などーーを再認識しようとしてきた。

しかし、それは成功せず水泡に帰した。

新自由主義の波が、テクノロジーに基づいた新たな生活様式を利用しながら、文化的・政治的パースペクティブを変容させていたのに対して、左翼は過去の倫理規則を従来の政治制度を守ろうとしてきた。そうして左翼は、不可避的に保守的な立場に自閉することによって、左翼本来の性格とアイデンティティを喪失した。

今や、状況は透明すぎるほど明らかである。すなわち、抵抗は終焉した。資本主義的絶対主義は解体されないであろうし、民主主義は決して再建されないであろう。この戦いに敗北したのである」。

わーー、どうしたらいいのだ?

この後しばらくはガタリの『カオスモーズ』の分析が続くのであるが、少々煩雑なので省略。

解決策を求めて読んできた。しかし、結論が凄いんです。

「最後の最後に一言。(私を)信じるなかれ。」えーーー、酷いと泣く前に。こう書かれている事に心しよう。

「ディストピア的アイロニーは自立の言葉である。

懐疑的であろう。あなたの仮説やあなたの予測を(また私の予測をも)信じないようにしよう。

そして変革をあきらめないようにしよう。たとえ、どうやっても勝利できるかわからないにしても、権力への反抗は必要である。

独立的であろう。従属し、参加し、負債を払おうとする人々の運命から、あなたの運命を区別しよう。彼らが戦争を望むなら、脱走しよう。彼らが奴隷化し、あなたも彼らと同じように苦しむことを彼らが望むなら、そのような脅迫に屈しないようにしよう」。

そう、自律的に抵抗し、闘うこと。今の日本に欠如している事は、自立して闘うことなのだから。

魔女:加藤恵子