魔女の本領
書くべきことを書くと言う作者の意思…

名誉と恍惚

『名誉と恍惚』


魔女の本領

今や新たな戦前のきな臭い現在に前の戦中について書かれる物語が現実感を増して迫って来る。

『名誉と恍惚』松浦寿輝著 を読む。

松浦は著名な表象論の研究者であり詩人でありそして小説家でもある。すでに東大教授を自ら引いている。彼が『新潮』に2014年から16年にかけて断続的に連載され、それにさらに手を入れた本書は実に764頁の大著である。この本を誰も取り上げない、批評も読んだことがない。唯一ドゥマゴ賞が授与されたという小さい記事を読んだだけである。

私は、にもかかわらずこの本は戦中の上海を舞台にした点で微妙な位置にある点と作者の意図が明確に出ていることにおいて、今の社会情勢下で書くべきことを書くと言う作者の意思に強く心を惹かれた。ストーリーそのものは実に単純で場面も上海の内の4カ所に過ぎないし、主な登場人物も5人。関連する人物もせいぜい数人である。時間も主人公が振り返る時間はあるが流れる時間はまっすぐで、ポスト・モダン的な小説とはかなり異なる。そんなところが高い評価を受けない点なのではないかと思うが、作者が近代とは何かという点での研究をしていたことからいわば日本の近代のなれの果てであった朝鮮侵略・中国侵略のその先の絶望的な腐敗を描こうとしたのではないかという感じを受けた。そしてそのことは今の日本の政治状況へのストレートな批判が読み取れるか否かで評価が分かれるのかもしれない。そして私はそこをこそ評価すべき著作であると強く感じた。

主人公芹沢。東京外語を出て上海の共同租界の公安課所属の警察官であるが本務は翻訳や情報収集が仕事である。両親は既になく、叔父が日本にいるだけ。後にわかるのだが芹沢の母は朝鮮人である。その芹沢に接触してきた人物が陸軍参謀本部の嘉山少佐で、この人物との戦いが最終的に芹沢の生死を決めることになる。芹沢は時間があると街を歩き一軒の時計屋と親しくなるのであるが、この老人フォン・ドスアン(本文は漢字であるが以後表記はカタカナ)が最後まで芹沢を庇護することになる。この老人は日本留学経験者で北一輝との親交もあったらしく、単なる時計屋ではない。さらにこの老人は人形を作っているのであるが、この人形は裸の女の子のもので、今で言うところの関節球体人形で、その官能的な美しさに芹沢は写真にとり自宅で焼きつけていた。この写真が嘉山に奪われることで芹沢は嘉山の脅しから逃れられなくなる。その脅しとも要求ともみえるものとは当時の上海の裏社会の大立者であったシャー・イービン(本文は漢字)に会わせろというもので、フョン老人がシャーの伯父であることからの強要であった。嘉山は芹沢に日本の中国での工場運営への手助けを要請するのだと説明していた。その内容に胡散臭さを感じつつも、人形の写真を見せられ、その性的な変態という烙印を押され、さらにはかれの母親の血筋である朝鮮人としての存在をあばかれて、芹沢はフォン老人に助けを求め、何とか嘉山とシャーの会見を実現させる。そのシャーとの会見の場所で芹沢は直接の話し合いの場から引き離され、シャーの妻美雨(メイユ)の夜遊びに付きあわされる。そしてここから物語は転がり始める。メイユはフョン老人の姪でシャーの第3夫人であるがシャーには別の女がおりメイユは豪邸に使用人数人と残されている。メイユを連れ出した芹沢は指定されたダンスホールに向かわず小さなジャズクラブ「縫いものをする猫たち」へとむかう。そしてここから物語は廻り出す。関係ないが、このジャズクラブの名前がいいなー。松浦は猫好きだと言うことは聞いていたから、うまい!!と思った。ここで絡まれる芹沢を救うのがメイユで蓮っ葉な娼婦を演じてみせて芹沢の心を動かすのである。この間芹沢は身近に子供と言っていいような白系ロシア人のアナトリーを可愛がるのであるが、これはホモセクシュアルの対象でもある。そしてアナトリーは芹沢の人形の写真を盗み嘉山らに渡したらしいのであるが、あれこれが工部局に通報され芹沢は嘉山から自分の手先になるか工部局に辞表を出すかを迫られた。その密告に加担したと思われる日本人乾を行きがかりで殺してしまう。殺意の元は彼の母親が朝鮮の街娼だという罵倒であった。

その芹沢を保護したのはフォン老人で、まず彼を染物工場で働かせ、次には港湾労働者として自力で働くことになる。彼は自暴自棄にならずに中国人として下層の人々と馴染んでゆき、或る時再びフォン老人に呼び戻されフォン老人の所有する映画館の映写係として地下に住み、暗闇で映画を映すことで生活し始める。彼を支えるのはフォン老人の子分であるオンで彼も又、最後の最後まで芹沢を助ける。この映画館でフォン老人はすでに日本軍の上海爆撃が行なわれるなかで、密かにメイユが女優だった時の映画を上映する。その映画は日本軍部批判の映画で、中国人に向けてのものだったのか芹沢に向けてのものだったのか自身にもよく分からなくなる。最終日に彼はメイユが後方の座席で見ている事を確認するが、むしろその現実よりは映画の質が低くメイユに同情を覚えてしまう。しかしこの上映を咎められるのを危惧したフォン老人は休館にして、行き場を失った芹沢はメイユの住む大豪邸へかくまわれる。ここでメイユは阿片を吸い茫然として生活しているのだが、たった一度だけメイユとオンと芹沢が阿片に朦朧としたまま性的関係を結ぶのだが、いわば夢のような関係として、それ以後全く3者は互いを助け助けられる存在として時間は過ぎて行く。しかしフォン老人の時計屋が漢奸として破壊されたのを契機に映画館は再開されることはなく、フォン老人は香港へ逃れることを決心する。そして芹沢はフォン老人に頼まれあの人形を丁寧に丁寧に梱包し、競売に付されアメリカのコレクターに買われた人形を送りだす仕事をするのである。その後フォン老人は香港に去り後始末をオンと芹沢は完璧にこなし、芹沢には偽造パスポートと船便の切符まで手配されている。ここで芹沢はスン・オーという中国人としてその後を生きることになる。しかし、船に乗船する直前に芹沢は自分を陥れた嘉山の居場所を突き止めたオンの子分からの連絡に衝き動かされるようにメイユの止めるのも振り切り対決するために出て行く。それは自分が陥ることになったあの嘉山とシャーとの本当の会談の内容が何だったのかを突き止めたいというものであった。芹沢は日本にとっての工場設置というのは嘘だと言う確信があった。つまり政府のウラにあったのは阿片密売ではないかということである。それも国家としてではなく嘉山の私利私欲にまみれた腐敗ではないかということであった。そのじじつは的中した。嘉山は関東軍はすでに阿片を製造していた。その事実はすでに噂として流れていた。それを疑いもしなかった芹沢を嘲るのである。

「金に汚いきれいもないんだよ。芹沢さん。わが皇軍はこの戦争にどうしても勝たなくてはならない。そのために必要なのは兵士の増員、彼らが喰わせる食料、彼らに持たせる武器、すなわち兵站線の確保だ。戦費があまりに不足している。対重慶の特務工作機関を創設し維持するには莫大な金がかかる。そうしたすべてはいったい何のためか。この世界史の一大転換期にあたって、天壌無窮の皇運を扶翼し奉る。ただその一事だ。そのために使われる金が、尊い金でなくて何なのだ」――これ嘉山の主張であり、「麻薬の製造と売買は、違法だ」「戦争にだって戦争なりのルールというものがあるだろう「麻薬の売買は・・・無この一般民衆が、体も心も冒され、ぼろぼろになって死んでいく」という反論。嘉山は「今起きている事は戦争だ。戦争こそ「例外状況」の典型だ・・・つまり法などというものは、この例外的な非常時においては、三文の値打もない」そして嘉山は「所詮、死那人だ。とつまらなそうにあっさり言った」ここで芹沢は激しい怒りに駆られれる。そしてここからかなりの頁を割いて、国家にとっての正義は存在するのかという根源的な論争が繰り出されていて、私には今現在の社会情勢における松浦の論理的な近代国家とその果てに行き着いた汚辱にまみれた昭和の姿と、それに敢然と立ち向かうべきは個々人の真摯な精神であることを書きだしている。結果芹沢は嘉山のボディーガードに痛めつけられ船の時間はとおに過ぎてしまうのだが、嘉山の酔狂な提案で、ビリアードの対決に勝てば解放すると言う提案に乗る。このビリアードの駆け引きについては全く理解できなかった。ともかく芹沢は辛うじて勝ち、船に乗るのを取りやめて芹沢を救いに来て捕まってしまったオンも今度は芹沢が救い、出発してしまった船をボートで追いかけ、芹沢が昔肉体労働をしていた波場で追いつく離れ業で香港に逃れることになる。

これがほぼストーリーのすべてである。しかしこの膨大な頁を費やして描かれたものはさすがに詩人としての松浦の詳細な上海の在り様で、海の匂い、行き交う人々の喧騒、なぜか上海の細密画が見えるような描写なのである。しかし、この小説の最大の伏線はじつは人形である。戦後芹沢(スン)は床屋で手に取った『タイム』誌の特集であの人形が転売をくりかえした結果、ちりじりになりながら1964年にそのすべてが集められ、ニューヨーク近代美術館で“Feng Dusheng:Eros and Thanatos of the Shanghai Dolls”と題する画期的な展示会が開催されたのを知ることになる。そして評論家たちに「バタイユのそれにも似たエロチシズムへの密かな沈潜と耽溺は、フォン・ドスァンにとって、ウルトラナショナリズムに支配された日本が当時犯しつつあった中国侵略徒言う犯罪にたいする、断固とした、また執拗な、抗議と抵抗の身振りである」とか「性こそは、政治権力の発動に抗する究極の保塁だからである」と褒めそやされているのを読み、スン(芹沢)にはフォンの皮肉な語調が蘇って来る。「戦争とは何かも、犯罪と何かも、性とは何かも身に沁みて知っていない青二才のたわごとだ。誰でも思いつくような浅薄な紋切り型を言い立てて恥じない浅薄才子、それがおおよそ評論家という代物だが」と吐き捨てるだろう。そしてフォンは言うだろう「あの人はねえ、そういう空疎なことは決して、ひとことたりとも口にしない人だったよ」あのひととは、北一輝。

本書が男女の愛を描いてはいない。男たちの、それも日本人にとっては侵略していった大陸の男たちが示す愛と言っていいような気がする。この骨太の小説はそして後半はほとんど現在の政治を裏からあぶり出し、鋭い矢で射ることをねらった小説だと思えた。

なお、名誉とは「名誉とは貧者に残された最後の富である」――カミユ
恍惚とは「至高の恍惚は注意力の充溢だ」――シモーヌ・ヴェーユ からとられている。物語の中でこの言葉がきっちり使われている。

大部の本ですがどうぞ、今こそ読んでいただきたい。お薦めいたします。

魔女:加藤恵子