魔女の本領
一角兎が私は見たい…

外の世界

『外の世界』


最近は魔女よりもさらにひどい摩王のような人物が跋扈している霞が関界隈を連日飛び回っているうちに疲れて箒から落ちそうになる日々なのだが、さりとて決して本を読んでいないというわけではない。ただ評を書く時間がないだけなのだ。言い訳は寝言で言えというおしかりを真摯に受け止めとここまで書いたとたんに、真摯に受け止めてという言葉自体を摩王の一党が頻繁に使用して、その意味の本義を腐らせてしまったのだが、ここはマジで書評を書きます。

『外の世界』ホルヘ・フランコ著 田村さと子訳 を読む。

ホルヘ・フランコはコロンビアの作家で、日本での翻訳は3作で有名という訳ではないが、著書は多数で、ガルシア・マルケス亡きあと、コロンビアを代表する作家の一人として有名である。翻訳された2先品『ロサリオの鋏』『パライソ・トラベル』はコロンビアという国の抱える貧困、暴力、マフィアなどを下敷きに書かれていて、作者がこの状況下に生きる特に若者の苦悩とそれでも闘いながら生きて行く姿をえがいていることにつよく惹かれていた。そのホルヘ・フランコの日本翻訳3作目がこの作品である。本書も又コロンビアでの誘拐にからむ事実を下敷きに書かれた作品である。事実は1971年8月8日、ディエゴ・エチャバリーア・ミサスが自宅である大豪邸(事実城であったようだ)の入口付近で数人の男に誘拐され、一カ月後に遺体で発見された。犯罪者はエル・モノ・トレッホと名乗る集団であった。この事実を基にして、被害者ドン・ディエゴと誘拐犯の、特にその中心人物のエル・モノの生きざまが描かれている。

作品の構成はドン・ディエゴとエル・モノの若かりし日からの時間がそれぞれ章分けされ並列的に描かれていて、一方は大富豪の息子としての優雅ではなやかなドイツでの生活と妻となる人との恋。一方は貧民窟で、教育も受けることのなりまま、生き延びている若者の仲間との結びつき。この中には後に複雑な恋人となる女性とホモ・セクシュアルな若者もいる。そして時代が次第に追いついてきて、誘拐された被害者と加害者という立場になったとき、実は両者は知らないままに、確実な関係性を持っていたことが明かされてくる。その背景をなすのが、ドン・ディエゴの住む「城」とその下に住むエル・モノのこの上下の構造に挑戦して行くエル・モノはその「城」の中にとらわれているかのようなディエゴの娘イソルダに恋をする。遠くから彼女を見るために涙ぐましい努力をする。もちろんそれは実を結ぶことはないのだが、このイソルダが存在感を発揮するのは「城」の広大な庭の茂みで、たった一人で森の虫や生き物とそしてお供は一角兎。彼女の髪を草花で結いあげるのは一角兎だ。この一角兎の姿はイソルダにしか見えないのだが、兎と言えば「不思議の国のアリス」で時計を持って急がなくちゃと時間を気にする近代に伴走する兎ではあるが、この一角兎はもっと少女の神話的な幼心に唱和する精神的な兎のような気がした。可愛い。このイソルダを見染めるエル・モノは誘拐したドン・ディエゴに自分の感情をこう表現している。

「俺がしたことはすべて自分の意思だよ。だって俺は彼女を好きになるって決めたんだからな」と云った。「ドン・ディエゴ、わかるだろう。愛とは妄想なんだよ。御しがたいあの怪物、嵐を吸い込み、上昇したり下降したり、そして大きくなる、まえすとろ・フローレンスが言っていたようにな」

この愛してしまったイソルダは森でこうしている姿をエル・モノはみていたのだ。「イソルダはクルミや栗、アーモンド、チブサ、梨やリンゴの木々も間の込み地を通りながら歌う。踏みつけてできた道をすっかり記憶し、自信を持って進む。スカートの裾を少しつまみ上げて、ドレスの裾を折り曲げた中に入れたリンゴを大事に運んでいる。少し前進すると、落ち葉の上から何かざわざわと物音が聞こえ始める。こんにちは、とちいさな優しい声で彼女が言う。こんにちは、こんにちは、と茂みの中に向かって心を込めて繰り返す。リンゴを一つ手にとって、森の中に投げ込む、地面に落ちる前に、果物を一突きするような音が聞こえる。イソルダは微笑む。こんにちは、こんにちは、とまた言うと山はさらなる物音にあふれる」。一角兎がイソルダ投げたリンゴを角で受け止めて、たべている。そんな少女に恋したとエル・モノは言うのだ。しかしイソルダは人形のようなドレスに着飾ることを嫌い、街にドレスの仮縫いに出た時に下品な赤いミニスカートを盗んで来て、一人で森に入っては赤い短いスカートをさらにたくしあげて狂ったように踊る。そんな少女になっていた。イソルダのこの姿をもアブラヤシの実をとりに入り込んでいたエル・モノと仲間は見ていた。エル・モノは追い払われながら、イソルダは自分を見続けていたのだとドン・ディエゴに話す。このイソルダがいわば娼婦のように踊っていたことが家族の知ることになってイソルダは外国へと送られしまうことになる。城を去る日、「数羽の兎が灌木の茂みの中で、少女の後についていくのを見たような気がする」。エル・モノとイソルダの一瞬の恋があり、そして少女は去って行くとき、ありえないことにエル・モノの純真さがイソルダしか見えないはずの一角兎が見えたのだ。この文一条が、私はもっとも美しいと思った。その後イソルダが登場することはない。彼女が病死して帰国するだけなのだ。しかしエル・モノは最終的に全てが瓦解する前に家族からすら忘れ去られていたようなイソルダの墓地へ忍び込み、墓と一晩を過ごす。もうすべてそれで完結したかのようである。

このエル・モノは女友達のツイッギーが居るのだが、恋人と関係は成立していない。その理由は彼が少年を愛していて、その関係性がオートバイを買い与え、それに二人で乗っているところをツイッギーに見られるというシーンがあるが、これによって3人の性的関係性がとても鮮やかに描かれている。映画のシーンを見るようで素晴らしい。

誘拐されたドン・ディエゴの方の若かりし日ベルリンでのディータとの恋はどちらかと言えば陳腐。しかし、デイータの感性は秀逸だ。ドン・ディエゴとの性関係を持ちながら、「あなたはわたしのこれまでの人生を分かち合える人だと心から信じているわ。でもわたし、結婚したくないの」といわせている。・・・「わたしの愛情に媒介はいらない」。男の結婚と家庭への閉鎖的な感性に比べて、このじょせいの造詣も飛んでいる感がする。それ故に「城」が意味する者の大きさを考えるべきだと思い。ドン・ディエゴが固執する城の建造。それはヴィクトリア時代の小部屋へ女性たちを押し込めた精神と異ならない。現実の城は1930年代に建設された建築だそうだが、作品の中でドン・ディエゴが完璧な城としてイメージしたのはシャンポール城とで、童話の中の城をイメージしていたようだが、建築家の賛同を得られないままに、どんなものに仕上がっていたのかイメージは難しい。しかし、城の中と外という概念は単に物理的な者と云うだけではない、中の精神と、外のその外形もまた表装している。イソルダは城を出て、その完全な外側に出る以前に生身の女の姿に変身する寸前に城から出される。それにつき従ったのは一角兎だけである。そして病死。城の外側から城を見上げていた貧しい若者たちはその内部に越境することで自分の現状をだはする権利を得た。しかし、現実に引き戻された時には、金を得るためにその城の主を誘拐することになるのだ。結末は実は明瞭ではない。仲間の一人の不手際で警察に殺害される。やがてエル・モノたちに捜査の手は伸びる。エル・モノは自宅に隠してあった大金を女友達ツイッギーにとりに行かせるのだが、そこにあらわれたホモセクシュアル関係の青年とが横取りしてしまうのだが、彼女も又逃亡できないで逮捕されてしまう。全てに手段を失ったエル・モノはドン・ディエゴを監禁場所から出て行くように言うのだが、両者の力関係は逆転したかのようで、殺す殺されるかんけいすらあやふやになっているのだった。

ホルヘ・ブランコの作品の女性たちがいずれも意志的で強いという印象は持っていた。『ロサリオの鋏』のロサリオも『パライソ・トラベル』のレイナも本作品のディータもツイッギーも流されて生きるという人生を送らない。状況が厳しくても、自分から運命を掴むために闘う道を選んでいく。もちろんそれが一般的な意味での幸福とはちがう結果になろうとも。本作品の少女イソルダも「城」に匿われている夢見る少女像とは異なる。髪を草木の枝やつるで高く巻きあげて、やがてはビートルズのイエローサブマリンを叫び、踊り狂い、生の女となることを実行する。それをささえる一角兎ではあるが、兎たちはどこまでも彼女にしたがったのだろうか?メルヘンのようではあるが、わたしにはホルヘ・ブランコの女性を見る視点に強く心惹かれた作品であった。

なお、直接関係はないがコロンビアの誘拐事件が頻発していた時、私がもっとも強く印象に残っている事は、大統領候補であったイングリット・ベタンクールがFARCに誘拐事件された事件であった。彼女は6年半にわたり拘束後、救出された(アメリカのCIAが絡んでいた)が、彼女は当時の政治の腐敗と戦っていてその著書『それでも私は腐敗と戦う』という著書に感銘を受けていた。コロンビアにはマルケスの小説に出て来る大いなる母の存在があり『百年の孤独』の人々の目の前で天に上って行く小町娘の少女像もあるが、ホルヘ・ブランコの描いたイソルダはいずれとも異なり、単純にメルヘンと評するだけでは不足のような気がする。

最後に、一角兎が私は見たい。無理だろうか。

魔女:加藤恵子