情熱の本箱
本能寺の変は、黒幕は存在せず、明智光秀の突発的な単独犯行だった:情熱の本箱(238)

陰謀の日本中世史

本能寺の変は、黒幕は存在せず、明智光秀の突発的な単独犯行だった


情熱的読書人間・榎戸 誠

『陰謀の日本中世史』(呉座勇一著、角川新書)は、歴史上の主要事件の陰に陰謀ありと主張する陰謀論者たちの実名を挙げて、次々に論破している。

とりわけ興味深いのは、「源義経は陰謀の犠牲者か」、「源実朝暗殺の黒幕」、「本能寺の変に黒幕はいたか」の3つである。

「検非違使任官問題を(源)頼朝・(源)義経兄弟の不和を煽る後白河(法皇)の謀略とみなす陰謀論は、後年の兄弟対立から逆算した結果論にすぎない。平氏が西国で勢力を維持している状況下で、源氏方の内紛を誘う陰謀をめぐらすことは、後白河にとって百害あって一利なしである。なお同時期、頼朝の周旋により、義経は河越重頼の娘を妻に迎えている。河越重頼と言われてもピンとこない方もいようが、父親よりも母親が重要である。彼女の母方の祖母は、頼朝の乳母である比企尼である。比企尼は流人時代の頼朝を支援し続け、頼朝から絶大な信頼を得ていた。そして彼女の母親は頼朝嫡男の頼家の乳母になっている。頼朝は義経を比企尼の孫娘と結婚させることで義経との関係を強化した。されに言えば、義経を頼家の藩屏として位置づける意図も見出せるのではないだろうか」。

「河内祥輔氏は、頼朝は義経のみならず後白河にも打撃を与えるため、あえて義経を自由の身にし、京都において後白河の支援のもとで反乱を起こすように仕向けたと説く。しかし、最終的な勝者が全てを見通して状況をコントロールしていたと考えるのは陰謀論の特徴であり、従えない。平氏を滅ぼした義経の声望は侮りがたいものがあり、義経が後白河の後援を受けて挙兵した場合、確実に鎮圧できる自信が、この時点の頼朝にあったとは思われない。鎌倉で義経を拘束するという安全な方法を選ばず、あえて危険な賭けに出る必要はあるまい」。このように、後白河法皇陰謀説は否定されている。

「鎌倉後期に成立した歴史書『吾妻鏡』は、北条氏による政権掌握を正当化する側面を持つ。よって傲慢な義経を非難するだけでなく、勲功ある弟を死に追いやった酷薄な頼朝に対しても批判的であり、この兄弟の確執が後の源氏将軍断絶につながった(頼朝の子孫が絶えたのは頼朝の自業自得)という理解をとっている、こうした『吾妻鏡』の主張を支えるため、(土佐房昌俊に命じた)『頼朝による義経謀殺未遂事件』という頼朝の冷酷さを強調する挿話が生み出されたと考えられる」。頼朝と義経が不仲となったことは確かとしても、頼朝陰謀説は成り立たないというのである。

「後白河が義経を支援して頼朝に対抗しようとしたという見解は、『後白河は陰謀家である』という先入観に支えられているように思う。・・・けれども、後白河の行動を細かく検討してみると、長期的視野に基づく戦略的な思考を見出すことは全然できない。判断が常に場当たり的で、ほとんど裏目に出ている。にもかかわらず生き残れたのは、単に彼が至尊の地位にいたからにすぎない。頼朝に依存しない独自の軍事体制の構築といった深い戦略性が後白河にあったとは考えられず、保身のために便宜的に宣旨を発給したという解釈が最もしっくりいく」。この後白河法皇凡人説は注目に値する。

「(源実朝暗殺の三浦義村黒幕説は)実朝を暗殺した公暁が義村に協力を求めた事実から、公暁と義村が事前に暗殺計画について話し合っていたと推測するものである。作家の永井路子氏が小説『炎環』で提起し、中世史研究者の石井進が好意的に取り上げたため、学界でも有名な説である。実は義村の妻は公暁の乳母であった。しかも当時、公暁は鶴岡八幡宮の別当であり、義村の子の駒王丸(のちの光村)は鶴岡八幡宮の稚児で、公暁の門弟であった。・・・(公暁が実朝とともに殺そうとした)北条義時を殺して最も得するのは、義時に次ぐ勢威を誇る三浦義村であろう。すなわち義村は、公暁に実朝と義時を殺させ、公暁を将軍に立て、執権北条氏に代わって幕府の実権を握ろうとした。ところが義時が身の危険を察知し、その場を離れたため、義時暗殺は失敗した。そこで義村は口封じのために公暁を殺した。これが永井氏の推理である。山本幸司氏が言うように、義村がかくも大それた陰謀を企てるか、という点が引っかかる。後の承久の乱、そして伊賀氏の変においても、義村は幕府の現体制を擁護する姿勢を貫いており、北条氏から政権を奪取する構想や気概を見出すことはできない」。正直言って、永井路子説を支持している私としては、複雑な気持ちである。

「『本能寺で(織田)信長の死体は発見されなかった』と言って、信長生存説を唱える人もいるが、正確には『多数の焼死体のうち、どれが信長の死体か確認できなかった』ということである」。生存説はあり得ないが、私も、信長の死体が発見されなかったと思い込んでいた一人である。

明智光秀単独犯行説――怨恨説、野望説、光秀勤王家説、光秀幕臣説――と、黒幕説――朝廷黒幕説、足利義昭黒幕説、イエズス会黒幕説、豊臣秀吉黒幕説、徳川家康黒幕説――のそれぞれの問題点が鋭く指摘されており、著者の主張に軍配を上げざるを得ない。

「鈴木眞哉氏と藤本正行氏は共著『信長は謀略で殺されたのか――本能寺の変・謀略説を嗤う』で、足利義昭黒幕説やイエズス会黒幕説など各種黒幕説を批判した。特に重要なのは、多数の黒幕説に共通する特徴を抽出した点にある。①黒幕が事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀を勧誘・説得したかの説明がない(光秀が同意せず、逆に信長に通報する恐れがある)。②実行時期の見通しと、機密漏洩防止策への説明がない。③光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのかの説明がない。④黒幕たちが、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援していない事への説明がない。⑤決定的なことは、裏付け史料がまったくないこと」。

著者の説は、いかなるものか。「家康の接待役として共に堺へ赴くつもりだった(織田)信忠は予定を変更して、父信長を迎えるため京都に留まることにした。この時点で光秀が挙兵できる状況が初めて整った。ルイス・フロイスがイエズス会に提出した報告書に見えるように、『彼(光秀)は信長ならびに世子(信忠)が共に都に在り、兵を多く随えていないのを見て、これを殺す好機会と考え、その計画を実行せんと決心した』のである。しかもこの状況は光秀や『黒幕』とやらの力で創り出せるものではなく、幸運、強いて言えば織田信長の油断によって条件が満たされた。したがって、突然訪れた好機を逃さず決起したという突発的な単独犯行と見るべきであろう。・・・そもそも織田信長・信忠の京都滞在は一時的なものである。信長は中国出陣に向かう途中に京都に寄ったにすぎない。信長が京都を去れば、信忠も去るだろう。そうなれば光秀が二人を討つ機会は永遠に失われる。二人が京都に滞在している間に討たなければならない以上、光秀に誰かと相談する時間的余裕はない。黒幕説論者は光秀が水も漏らさぬ完璧な計画を立てたはずと考えるが、この場合は巧遅より拙速が求められるのだ。よって、光秀が将軍足利義昭や全国の大名、公家衆などと連絡を取り合っていたとは考えにくい」。

「鈴木・藤本氏が厳しく黒幕説を批判した結果、光秀謀反の動機として織田信長の四国政策の変更がクロースアップされるようになった。織田信長が(光秀と親しい関係にある)長宗我部討伐を決定したことが光秀の反逆を後押ししたのではないかという見解は、早くも戦前に徳富蘇峰が指摘しているが、数ある要因の中の一つという位置づけだった。しかし黒幕説批判が進む中で、光秀謀反の直接的な契機として浮上したのである。・・・織田氏と長宗我部氏の関係が悪化した天正10年以降、光秀に大きな任務は与えられていない。・・・織田信長の信任を失った光秀も用済みとして粛清されても不思議はなかったのである。かくして前途を悲観していた明智光秀が、千載一遇の好機が訪れたために謀反に踏み切った、というのが、近年主流化しつつある四国政策転換説である」。私なりに、長年に亘り、さまざまな説を渉猟してきたが、「突発的な光秀単独犯行説+信長の四国政策転換説」が一番説得力があると考えている。