魔女の本領
歴史書が生き生きとしたものになるか否かは…

歴史を逆なで

『歴史を逆なでに読む』


喘息のために行動が規制されてしまい、本読む時間が出来たと思ったら、とんでもない。喘息の発作は「なめたらいかんぜよ」級で、息が出来ない。本なんか読めないのだが、辛うじて読んだ。

『歴史を逆なでに読む』カルロ・ギンズブルグ著 上村忠男訳 を読む。

ギンズブルグの歴史書はかなりの部分が日本語に訳されて出版されている。全部とは言えないが大体は読んでいる。『チーズとうじ虫―16世紀の一粉挽屋の世界像』、『夜の合戦―16-17世紀の魔術と農耕信仰』、『神話・寓意・徴候』、『闇の歴史―サバトの解読』、『裁判官と歴史家』、『ピノッキオの眼―距離についての九つの省察』、『糸と痕跡』、これだけは読んでいる。もちろんこれ以外の数冊は逃している。そんなわけで、ギンズブルグの歴史書の意図するところをそれほど逸脱してはいないとは思うのであるが、本書は歴史研究書ではなく、自らが書いてきた歴史というものが、どのように自らのものにしていったのか、影響下にあるものはなんで、何に対して研究の焦点を絞っていったか、それがどのような点で、それまでの歴史研究と切り結んで、進められたかを再度エッセー風に書いたもの、講演録である。これでも出発は歴史であり、ギンズブルグの本には眼を見張らされたものであるが、改めて、歴史とはなんであり、それを書くと言うことは実はとても緻密ではあるが実はフィクションがささえているのだと言うことを興味深く思い起こした。

最初に証拠と可能性という章にある一つの例証に挙げられている本が私にはやっぱりこれかと思ったわけです。読んだ人が居るとも思われないが、ナタリー・ゼーモン・ディヴィスが書いた『マルタン・ゲールの帰還』(日本語訳は『帰ってきたマルタン・ゲール―16世紀フランスのにせ亭主騒動』)。確かに変な本なんですが、事実に基づいて書かれたそうで、農夫が失踪し、とんでもなく長い間村に帰らなかったが、突然帰って来た。農夫は自分は失踪した男であると主張し、妻も認めたのであるが、裁判が提起され、詐欺として処刑されたという有名な事件だそうで、モンテニューのエッセイにも書かれていると言う。ここからギンズブルグは裁判資料とはどういう役割のものか、科学的証拠というものが本当にそうなのか?道徳と裁判は切り離されていたのか、それを後世の歴史家はどのように書き得るかといういろいろの設問を得たのだそうだ。

中世における裁判は物語を紡げればそれが正義になるのか?現代でも裁判につきものの誤審はなぜ出るのかに通じる問題ではあるが、過去の例をどう記述するかには裁判記録が優れて重要なものであるというのがギンズブルグの確信を持たせた事例なのだそうで、私にはちょっとした驚きであった。真実とは何か?という設問に対して、真実は一つ、絶対とかいうのは怪しいのだというのも理解し得るので、「マルタンゲールの帰還」の方も読まれることをおすすめです。ギンズブルグの方の見解は実はこの物語は古くからヨーロッパに存在する不思議なお話が根底にあり、それを構成する物語のバリエーションで、歴史家は裁判資料だけを読んでいても理解不能の人間の行動、言動には人類学やらの専門に分類されることの多い物語が噴出しているのだということである。これを敷衍したのが、彼を一躍有名にした『夜の合戦』へと続くのである。この点についてギンズブルグは次のように書いている。

「少し前まで歴史家の大部分は、(社会科学に同化しようとする傾向を強めつつある)歴史叙述の科学的性格を強調することと、それが文学の次元に位置していることを承認することとのあいだには、明らかに両立しがたいものがあるとみていた。ところが、今日では、このようにみずからが文学の次元に位置しているということの承認はしばしば人類学や社会学の著作にも拡大されつつある。しかもこのことは、それを主張する者の考えでは、かならずしも否定的な判断を意味してはいない。しかしながら、そのさい一般に強調されるのは、フィクション、たとえば小説の叙述のうちに見いだしうる認知的な核ではなく、歴史叙述をはじめとして科学的であると主張している叙述のうちにも見出しうる物語的な核のほうなのである。二つの叙述タイプの一致はーー簡単に言えばーー科学のレヴェルにではなく、芸術のレヴェルに求められているのだ」。

多分これに尽きるだろうと思う。今では分かり切っているが事なのだがこのようなhistory とstoryは語源は同じである。このような認識が歴史学の主流になるのは1970年代後半で、それまでは日本の歴史学はマルクス主義歴史学一辺倒で、くそおもしろくなかった。この歴史的事件はこの史料からみて、マルクスの言った発展段階のこれに当たるなんていうのをまじで教えられていた。そこから日本の明治維新は何革命なおかとか、二段階発展理論で資本主義か、いや江戸時代は農奴性かとか、私にはまるで楽しくなかった。歴史学概論という基本科目で、マルクスの発展段階理論の説明を求められて、私「発展は斜めに一直線に発展するという理論は無理がある。どこだって二重に重なったりする部分はあるはずだ」と手を挙げて反論したら、教員にどやされた記憶もある。その後フランスのアナールが入ってきたり、ギンズブルグの本が出たり、日本の研究者でも阿部謹也氏の「ハメルンの笛吹き」を機にかなり変わったと思うのだが、阿部先生すら生涯ドイツ史研究者からは評価されることはなかった。今現在は歴史学はどうなっているのかは本当に知らない。

本書の興味深い記述はギンズブルグが自伝的に語っている点である。彼が作家のナタリーア・ギンズブルグの息子であると言うことは知っていた。父親について、戦時中、戦後についての家族の歴史は知らなかった。父親レオーネ・ギンズブルグはロシア人でイタリアに移住した。1931年ファシズム体制に忠誠を誓うことを拒否してトリーノ大学の職を失う。34年から36年まで反ファシズム活動の罪で獄中生活をおくり、1940年イタリアがナチスドイツの側に立ったことで、ユダヤ人で反ファシストとしてアブルッツォ地方の小さな村に流刑。ファシズム体制崩壊後ローマに戻り再び政治活動を再開するのだが、逮捕されてナチが統括していた刑務所で1944年獄死している。父親を知る人物の著作によると彼はナロードニキの精神の「新しい独自の体現者」であるという評価がされているという。つまりナロードニキの経験の中心には、農民社会の表出する価値にたいする強い道徳的かつ知的な共感があったという。

この父親と作家である母親からギンズブルグは「知性と社会的および文化的な特権とのあいだにはなんの関係もない」という深い精神的な力を得たことになる。この人民主義(とギンズブルグはいっている)が彼を迫害の犠牲者たちへの研究に向かわせたと書いている。つまり1950年代まで魔術の研究するということは人類学者には皮肉に非難されていて、風変わりな周縁的な研究対象でしかなかった。ヨーロッパ中世末期から近世初頭のヨーロッパ文化の逸脱のエピソードにしかすぎないと言うカノンが1970年代末から80年代初頭には魔術が突如として歴史学の流行になった。しかしその焦点はもっぱら迫害の行為とその文化的、社会学的メカニズムに集中していた。そこでの犠牲者の深層を救いだすというものはなかった。しかしイタリアも又一方では魔術を階級闘争の粗野で原始的な一形態とする仮説が定まっていた。これに対してギンズブルグはイギリスのマルクス主義系の歴史家エリック・ボブズボームの『原始的叛逆者たち(日本語「素朴な叛逆者たち」』(私も読んだ)の論文やグラムシの獄中ノート等がしゅりゅうであったのに対してレヴィー=ストロースの諸論文に強く影響されたと言うことで、それが30年後の『夜の歴史』になったと書いている。

魔術の資料を、つまりは異端審問の裁判資料の中で悪戦苦闘する中で、魔術は階級闘争の原初的な道具という仮説は消えていた。判事たちが自らの拠って立つキリスト教文化に還元しようとしても出来切らない異質なものがあり、それは別の文化を表現しているものであることを読みとらねばならないことに気づくことになる。)それが「ペナンダンテ」と呼ばれる一群の人々の存在である。簡単に言うと魔法使いと戦う側の人々で、彼らが夜の合戦に勝つとその年は豊作になり、魔法使いが勝と凶作になる。これは異端審問の中に表れている事の不思議に行き着いて、この民族的風習の根源がユーラシア大陸から広がった文化の古層にある魔術であることに行きついて、15年の歳月をかけて『夜の合戦』が書かれたという次第なのだそうだ。

詳しくはギンズブルグの一連の本の中で裁判にかけられても動じないペナンダンテとは何者だったかを読まれることをお勧めしたいが、歴史書が生き生きとしたものになるか否かは、最終的には物語る技術なのだと思う。近年ギンズブルグが新たな歴史書を書いたというニュースは聞こえてこないのだが、嘘だらけの日本で歴史って、後ろから読んだその軌跡が歴史なんだといわれると、仇やおろそかに毎日を過ごせない。今私たちは歴史を過去の事実として考えがちだけど、毎日の積み重ねを未来に読まれた時に真の歴史たらしめるために漫然とは過ごせない歴史に対する責務が私たちには有ると言うことかもしれない。

魔女:加藤恵子