学魔の本函
『ボーリンゲン 過去を集める冒険』ウィリアム・マガイアーを読む

ボーリンゲン

『ボーリンゲン 過去を集める冒険』


世界には量と質でかくもすさまじい成果を挙げた知の世界があったことに驚愕した。その内容の源泉が一人の女性から始まったことにもまた驚いた。

この本のタイトルから想像できたのは、ユングとエラノス会議と何か深く関係するのだろう位がせいぜいであった自分の無知を恥じた。訳者があとがき的に書かれているこの本の意味を「出会いのアルケミア」という題で書かれている文章から挑発されたのはこの本の何を、どう読み取れるのかの勝負であった。その最終的な意味は最後に書くとして、いったいボーリンゲンがユングと何が関係し、なぜアメリカで直接的なユングの世界観の展開から大きくウイングを広げ歴史的な古代から現代へ、現代文学・現代美術から精神世界の奥深くまで探ることを可能ならしめたのか?そこには世界大戦と亡命者がいる、人が人を結びつけることで消えてしまいかねない知を引き上げる。そしてその人的関係を支えるための経済的なシステムが存在したことの驚きである。

ボーリンゲンとはチューリヒ湖の北端にある村の名前であるが、ユングの家とは25マイル離れていた。このユングにとりつかれたのがアメリカ人のメアリーという女性であるが、1934年のことで、当時彼女はユングの英語で読める本は全て読んでいた。1935年彼女はポール・メロンと結婚する。このメロン夫妻が創設したのがボーリンゲン基金と出版事業であったわけなのだが、その綺羅星のように列記される人物模様は言葉の綾を越えて曼荼羅のごとくであった。そのボーリンゲン基金と出版の後半を支えたのが本書の筆者マガイアーなのである。そしてこれほどの詳細な人物と関係、事業の在り様を書き得たことの記録の存在にこれまた驚きを隠せなかった。つまり本書はフィクションではない。ここに登場する膨大な人物はみなボーリンゲン基金、出版事業に関係し、仕事をし、著作を出し、エラノス会議に出席し、それだけではなく後世に残る著作を出版するに際しての裏方、たとえば翻訳、現地調査に携わった人たちである。わたしには本の一部の人名しか認識できなかった。

この事業の出発はメアリーのユングへの傾倒から出発した。メアリーはアスコーナを訪れ、瞬時に捉えられた。そこにはエラノスを牛耳っていたこれまた女傑オルガ・フレーベがいた。オルガについては、本書の中心課題ではないが、それなりに書かれていて、興味深い。ともかくも「ユング心理学との出会いですっかり目覚めたメアリー・メロンの抗い難い創造欲、総合への渇望が、アスコーナでオルガ・フレーベに会ったことで急に激しく一点に収斂していった。そこアスコーナこそはヨーロッパ異端思想の新展開が宰領し、長年かけてだんだんと花開いていた地だった」。「アスコーナそのものが19世紀以降、前衛的な思想、道徳の前哨基地になっていた。自由思想家、ヌーディスト、著述家ダンサー、政治的急進派、ユートピア主義者、導師(グールー)たちが次々と入りこむ。ざっと一覧してみるだに、レーニン、トロツキー、バクーニン、クロポトキン、ヘルマン・ヘッセ、シュテファン・ゲオルグ、ルドルフ・シュタイナー、メアリーウィグマン、イサドラ・ダンカン、ハンス・アルプ、パウル・クレー、エミール・ヤニングス、エミール・ルートヴィヒ、そしてエーリヒ=マリーア・レマルクと」、こんな人たちが出入りしていた場がスイスの片田舎にあったのである。当時ドイツではナチスが台頭していて、ユングは1940年までドイツでの役職も務めていたことで、後世ユングのナチスとの関係を疑うこともあったが、関係者の証言は別のようなのだが、それを証明する人物が後にアメリカ中央情報局(CIA)の長官となるアレン・W・ダレスであることに不思議な感じを持つ。彼は1936年のハーヴァード大学300年記念会議でユングと出会い、「目下の独伊の状況について長時間話し込んだが、彼の口にしたことで反ナチ党、反ファシスト党の確たる感情以外のものをそこにかんじたことがなかった」。と語っているそうである。エラノスは最初は講演者も聞く方もドイツ語がほとんどであったが、次第に国際的な人脈が出入りし始めて、ナチスが権力を握ると共に創設されたエラノス会議はナチスへの抵抗の砦となるものとなった。

メアリー・メロンはユング思想の熱狂的に消化し、自身の責務と感じるようにユングの著作を出版すること、ユングの思想のアメリカでの拡大を熱烈に希求してそのことをユングに書き送ってもいた。ここで戦争が立ちふさがるのであるが、夫は戦争に出ている間、メアリーはエラノスとの関係を維持し、その経済的援助もしている。しかしこのことが法律的に利敵行為に当たると言うことで、むりやり弁護士にエラノス援助から離れるという声明を出さざるを得なくなっていたりするのであるが、ユングがダレスCIA長官と関係していたことや、にもかかわらず文化事業への政治的圧力が実際あったと言う事実に改めて驚かされる。この時期メアリーが独自に行なった事業はユング関係には今やとどまらず、ワシントンの国立美術館・・・心理学と神話学の最先端的研究を専一に出版する出版社。若い書き手に生きるのに必要なものを保証しながら見返りは要求しないすばらしい奨学金制度。もうひとつ、あれこれの慈善活動、二つの大学、赤十字。それから、我々エリートの大方に欠けたこの創造力、即ち我々の時代の神話、その深い力に対する直観をこそ示している・・・さまざまなプロジェクトへと広げられていった。ヨーロッパでの戦争終結後、ただちにエラノスとの関係は修復されたが1946年10月メアリーは喘息の発作で死去。42歳であった。

メアリーを記念するもの(実際には生前すでに動き始めてはいたが)としてボーリンゲン基金とボーリンゲン叢書の企画が設けられた。このボーリンゲン基金は個人への奨学金、生活資金の支援、世界各国への遺跡の調査研究資金の援助がなされている。それを受けた人数が膨大であることと資金の
潤沢さ、援助の対象の多様さには、心底驚かされる。巻末に奨学金受給者の名簿がのっているので、ためしに数えたところ334名であった。受給の理由と業績も書かれているので読んでいただきたい。叢書についてもまた100に及んでいて、これは番号であって、叢書の中には数冊に及んでいるため総数は数え切れなかった。叢書は実際には発展していく過程でユング的なものはすくなくなる。ユングの学恩を表明するものがある一方、ユング思想とは無関係な人類学、美術、特に文学の本が並立して行く。エピソード的に面白いのはボーリンゲンの奨学金によって生き延び、研究を続けることが可能になった人々であることは間違いない。ナチスを逃れてきた亡命者しかり、いわゆるアカデミズムに入れられない異端の研究を続けることを可能にした奨学金。それへの感謝を述べている人(イサム・ノグチもいる)も多い中で、ナバコフの叢書の一つ出版に関わるごたごたは彼がソ連との関係で怒りがおさまらなかったのであろうとはいえ、なかなかにすさまじい。ボーリンゲンの編集者はソ連邦を攻撃する言葉を薄めることで出版への外交問題化することへの国家の干渉を避けようとして動いたのであるが、ナバコフは「検閲こそ小生の本の敵役です・・・私は負けないです」と返答していて凄い執念を見せつけられた。またボーリンゲンの側には法律顧問のような役割の人物も注釈一つにも気を配る人物もが存在していたことが見て取れる。

1963年12月12日に開かれた臨時理事会でポール・メロンはボーリンゲンの事業の終了を提案することになる。この間どれだけの金が投じられたのか?ポール・メロンはこう報告した。「法人となった時(1945年)から1963年6月30日まで、基金は慈善事業として約千百五十万ドルを使い、6月30日現在、使える資金は約五百万ドルです。」この金額がどれほどの額であったのか私には想像が出来ないのであるが、それ以上にこの金の出所についてマガイアーはほとんど書いてないのである。唯一メロンは毎年の穴埋めに必要な資金を投入したがそれは国債と湾岸石油の株であるとだけ書かれている。この点に関して高山師の解説ではメロンはアメリカの巨大石油メジャーなのだ。その財閥の潤沢な資金が基金を支えた。この点をどう評価したらいいのか、私は深く悩んだ。アメリカの石油メジャー、軍需産業を握る人物が1940年代から60年代と言えば第二次世界大戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、それだけに止まらない。ボーリンゲンに奨学金を得た中には中南米の先住民族の遺跡や人類学的研究や中東での遺跡の発掘や遺跡の救援にさえ資金援助を行なう傍らで、中南米への兵力派遣、独裁権力への軍事援助、様々な悪名高い侵略行為が繰り返されてきた。これらのアメリカ国家の蛮行は巨大財閥(モルガン、ロックフェラー、メロン)の政治との癒着があったことは紛れもない事実である。ここまで理解した時に、それでも文化のパトロンとしての意味が大きいと判断すべきなのか、血ぬられた金によって生み出された夢のような作品の数々に真の価値は差し引かれると考えるべきなのかは自信を以て結論を出す事は出来なかった。

ボーリンゲン叢書は1967年7月1日、プリンストン大学出版局の出版元となることで、現在に至っている。ボーリンゲンの終焉に際して、詩人で評論家、画家で翻訳家でもあったケネス・レックスロスはエッセーで次のように賞賛した。

「今、これらほとんど百冊にもなる本と二十五年という歳月をふり返ってみるに」とレックスロスは言う、「西洋文化が戦間時代の主潮と正反対の新しい趣味へと大きく転換する中で極めて重要な蝶番の役を果たしたのである。・・・スズキだろうが、エリアーデ、ツインマン、キャンベルだろうが、はたまたブレイク、コールリッジだろうが、ボーリンゲンの事業の一貫性に弛みなさというべきものを感じる。この事業はそも何か。内面性の唱導、量には還元され得ぬもろもろの価値への弛みなき衝迫、意味を求めての冒険、意味の探究とでも言っておこう。・・・崩れなんとする西洋文明の再評価、再構築をめがける闘争の一部とでも」。
又「ビートニックのレックスロスは「古い文化の根幹に挑戦した本」の幾つかを並べてみせる。『インド・アジアの美術』、『絵画の道(タオ)』、ナヴァホ宗教論、」スズキの『禅と日本文化』、ユングの錬金術論、レインの『ブレイクと伝統』、そして「おそらくは世紀の掘りだしものたる一巻」、『アフリカの民話と彫刻』。「学術書の極みという体のボーリンゲン本の多くがこうしてペイパーバックで復刊されてみると、何んとカウンターカルチャー、オルタナティヴ社会の重要な一部ではなかろうか」。
又「ソウレックスロスは言い切った。そして『易経』のことを歌う民間のバラード詩から引用する。「筮竹を繰れ、コインを投げると、単純明快の御託宣、コノ憎悪ノ世界ニ、ソレ試ス真(マコト)アリ・・・・」「侮れぬやり方で」と、レックスは書く。「ボーリンゲン叢書とボーリンゲン基金は時代精神(Zeigeist)を変えた。・・・このような出版の壮図を他にふたつと求められようか」、きっと否(いな)だ、と。」

精神の根底に降りて行く手綱を残したのだ。この世界がこのように混沌として、定めないからこそ、過去にあった文化の残照をきちっと残す事。そのことが未来に再びのルネサンスを生み出し得る生命の可能性に賭けて見たい。そのための宝の山を残したこと。それを純粋に賛美したい。しかし決して忘れてはならない。その背後にあった、そしてこれからもあるアメリカと言う国家の拭い去ることが出来ない侵略性を。それに追随する日本と言う国の貧困な精神を。

追記:あまりにももったいないので、ボーリンゲン叢書の名著の一部を転記しておく。

『C・G・ユング著作集』
『エラノス年報精選論文集』
ヴィルヘルム/ベインズ訳『易経』
ジョセフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』
ユング/ケレーニイ『神話学入門』
エーリヒ・ノイマン『神話学入門』
ミヒャエル・エリアーデ『永遠回帰の神話』
ゲルショム・ショーレム『サバタイ・ツェヴィ』
ハインリヒ・ツィンマー『インド・アジアの宗教』
グラディス・A・レイチャード『ナヴァホの宗教』
鈴木大拙『禅と日本文化』
アンドレ・マルロー『芸術心理学(東西美術論)』
ケネス・クラーク『ザ・ヌード』
E・H・ゴンブリッチ『芸術とイリュージョン』
キャスリーン・レイン『ブレイクと伝統』
E・R・クルティウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』
サン=ジョン・ペルス『流謫』『風』『鳥』
イブン=ハルドゥーン『序説』
ナバコフ訳/プーシキン『エヴゲーニー・オネーギン』
ダンテ『神曲挿画入り手稿』
『プラトン対話篇集成』
ヨランダ・ヤコービ編『パラケルスス選集』
『ヴァレリー著作集』
『コールリッジ著作集』
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