魔女の本領
すべての虐げられたものたちよ団結せよ…

狂いさけ

『狂い咲け、フリーダム アナキズム・アンソロジー』


近年はかなりスタイルを変えてはいるが、アナキズム的な文化が表面化してきたのかもしれない。逆に言えば社会のシステムに対するアンチにどう取り組むべきなのかの模索が現れて来たのかもしれない。

というわけで、『狂い咲け、フリーダム アナキズム・アンソロジー』栗原 康編 を読む。

アンソロジーという形式の本の読み方になにか特別のスタイルがあるとはおもわないのだが、私はしばしば、後ろから読むと言うことを試している。なぜか前から順番に読むうちに、飽きてしまうと言う経験がそうしているのだが、今回もその順番で読んでみた。こうすると何が分かるかと言うと、歴史的に古いものがどのように現在に流れてきているのかが理解しやすいからなのだ。

その前に思想としてのアナキズムはプルードン、バクーニン、クロポトキンらがロシア革命に与えた影響は大きく、クロンシュタッットの水兵の叛乱、マフノ運動が明らかにアナキズム運動として評価されてきている、イタリアではマラテスタが、そして最もアナキストとして激しく闘ったのはスペイン市民戦争においてであった。日本国内においては幸徳秋水から大杉栄などが大物として表面に現れているのだが、実は農民運動の農村青年社の運動などは今や忘れ去られているかもしれない。

本書はこの日本の流れの中で以下のアナキストの数編の作品を選び、それへの簡単な解説が添えられている。

大杉栄、伊藤野枝、辻 潤、中浜 哲、金子文子・朴烈、石川三四郎、八太舟三、高群逸枝、八木秋子・宮崎晃、向井孝、平岡正明、田中美津、神長恒一、矢部史郎・山の手緑、マニュエル・ヤン 以上なのだが、田中美津までは理解できていたが、それ以降の方は知らなかった。全体を読んでの印象は過去のアナキストの書いたものの方がより理論的であり、文章の破壊力は明白だと言うことである。もちろん私自身は平岡正明の「あらゆる犯罪は革命的である」も読んでいたが、「山口百恵は菩薩である」やジャズ評論を読んではいたが、社会へのインパクトは毛色の異なる、評論としては興味深い本であるという印象が強かった。ほぼ同時期で私ならば竹中労の方をあげるだろう。田中美津もウーマンリブの先駆者として近くで見ていたし、その後の動きも知っているがアナキズムという括り方はどうなんだろう。それ以降の方々は全く知らない方々だったのだが、現代的課題への取り組みが○○イズムである必要もないから、どんどん自己主張をする、その事が自由と言うものを獲得する基本だと言う認識には同感である。

それにしても、あらためて大杉栄にしても伊藤野枝にしても実に真っ正直にひどい社会を厳しく糾弾している。そしてその言葉は今改めて読むと、現在の社会構造への批判にバッチリ当てはまることに驚くと言うか、一体日本社会はここ数年の間に激しく悪化してしまっているのかと思わされる。もちろんその社会構造を規定しているのは、明治期に於いては封建制の遺構であったものが、今は新自由主義という金がすべてのヒエラルキーによる自由が著しく狭められているという社会。そこから生じる社会問題に対する政治的な対応が今や公共の福祉などどこかへ消え去っている状況に合致してしまったことでこの明治・大正期の激文が今またそのままあてはまってしまうという不幸に生きているのが私たちであるようだ。

大杉栄のこの一文「そして生の拡充の中に生の至上の美を見る僕は、この叛逆とこの破壊との中にのみ、今日生の至上の美を見る。征服の事実がその頂点に達した今日に於いては、諧調はもはや美ではない。美は乱調に在る。諧調は偽りである。真はただ乱調に在る」。伊藤野枝の方はこうだ。「此の窮境から婦人が救いだされるにはどうすればいいのでしょうか?すべての婦人が男の庇護を受けなくても自分の正しい働きによって生きることが出来るようになるには、どうすればいいのでしょう?それには、私の答えはただ一つしかありません。即ち少数の人々が多数の人間の労力を絞りとって財産をつくり上げる、そして其の財産の独占がまた権力を築きあげる、と云うような不当な事実がある間は、人間は決して真に自由な境涯へはなり得ないという事です。財産の独占と云うことが多くの人々にとってたまらない誘惑である間は、とても男も女も自由な気持ちにはなり得ません。他人の上に勝手に権力をもっているのが偉いこととされている間は、男にも女にも自由は来ません」。

いずれも実にみごとな自由というものの本質を抱いていたといえるし、それをこのように簡潔に書き得た凄さにあらためて驚く。とくに伊藤野枝は学歴も高くなく、生きるために突き進んでいる間に経験した社会の不正義を見極めている点で大杉の知識階層としてのアナキズムとは違った側面が見て取れる。そしてそれは野枝の性的な自由さによる家族制への決定的な批判を生み出してきた。その大波をかぶった辻潤は社会から自らを放擲するように生きたことの方が印象的である。彼は知的であればあるだけそれを投げ捨てて行くことに命がけのような文章が痛ましく感じられるほどだ。中浜哲の兄貴分だった大杉が殺されたことを歌った有名な詩もまた、決して文学的とは言い難いが、大杉を今に伝えることで大きく役立っている。「女の魂を攫む眼、より以上に男を迷わした眼の持ち主、『杉よ! 眼の男よ!』」。

その他で、解説がきちっとされたことで、改めて評価される形になったのは、高群逸枝である。戦前、アナキストとしての立場で「家族否定論」等を書いていたのだが、研究生活に入った後は『招婿婚の研究』とか『母系制の研究』などで、歴史学的に特異な立場にあった。しかし戦時中は突然軍国主義を鼓舞して歩く人物としてその類の文章を書いていた。この変質は何なのだろうと言う思いは今でも感じるが、戦後1970年台に女性史の分野で全集が出たりして再び名前が上がったのであるが、これは高群の死後夫である橋川憲三の編纂した『高群逸枝全集』が出たことによるが、その中にはアナキズム関係の文章を一切いれていないことは知られていて、今回このアンソロジーに入れられたことの意味は充分ある。

このアナキズムの日本に於いて何らか社会的、政治的に果たされて、現在につなげられているのであろうか?明治期から戦前にかけては集団の動きとしてよりも突出した個人の動き、思想が大きく、後世への影響も大きかったようだ。戦後、読売争議に於いてその指導者の中にアナキストが居たことは知られていないかもしれないが、個人的には知っている。

それ以降、現在までアナキズム的精神性が運動の支柱になっていたとおもわれるものはいくつか考えられるが、本書でもその取り上げられている著書の内容は社会的な自由平等を求めると言うよりは個人の自由が先行されるというもので、もちろんこれこそがアナキズムの真髄ではあるが、ひどく雑駁な印象をもつ。

現在、世界情勢は右へ激しく触れていて、その社会は上下の格差や地域のあらたな軍事力による植民地支配、も生み出している。日本も又ご多分にもれず、政権の腐敗堕落、格差の拡大はあらたな階級社会を生んでいる。連日報じられるパワハラやセクハラ。こんな事態への反撃に理論なんかいらない。嫌なのだ。こう叫ぶ人びとが現れることこそがアナキズムの下地ではあろう。そうしてその根源に在るのは、新自由主義という経済の枠組みによる奴隷システムだと認識して、今度こそ自由を獲得する闘いを、虐げられた者たちは団結すべきなのだ。今や敵はグローバルである、万国の労働者ではたりない、すべての虐げられたものたちよ団結せよ。国家を否定するアナキズムを!!

魔女:加藤恵子